彼女がのぞむ月の向こう

内山恭一

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ライブ会場は結構な人手だった。
定員に対して明らかにオーバーな観客人数。
「どういう配り方をしたらこんなに人が来るんだろう」
足の踏み場もないというのは大げさだが、スタッフに移動させられる度に場内は混沌としていった。
周りの喋り声にあかさの声はかき消されそうで、薄明かりにひさきとつないだ手が唯一のつながりだった。
その向こうには加織がいるはずで、更にその向こうにはクラスの女子もいるはずだが、人の頭ばかりでよくわからない。
つま先立ちすれば見えるだろうが、人の流れで倒れそう。
その先には一段高くなった舞台があって、アンプにつなげた楽器を、おそらく音の調整をしているのだろう、バンドメンバーがゆったりと椅子に座っているのが見える。
混雑とは無縁なその空間がうらやましい。
携帯を隙間から持ち上げ、見る。
予定の時刻は目前だ。
時折隙間が空くのを見出し、
「ひさき、私、途中で抜けるかも」
あかさは経験上、大音量の低音ですぐに疲れてしまうのを理解していた。
アンプの先のスピーカーが威圧感たっぷりに見えていた。
「わかった。見つけられなかったら電話して」
返事をする間もなく、突然に演奏は始まった。
ドラムが鳴り始め、間髪空けずにボーカルやギターが続く。
室内はさざめき、消えるようにひさきの指先も離れてしまった。
弾けるようなポップな楽曲。
知らない曲だが、これはこれで良い感じだ。
だが、案の定低音がきつくて体が打ち震えるのがわかる。
あまり持ちそうもない。
騒ぎ好きな男の子たちははなから前に出ているし、それを知っていて巻き込まれないようにしている他の客との間には空間ができていた。
おかげでステージが見やすくなる。
ベースを黙々と弾き鳴らすその人が美月の彼氏のはず。
他校の三年生と聞いているが、背はあまり高そうではない上に童顔なので、あまり先輩という感じはない。
だが、ギターやボーカルが激しく動いているのと対照的に落ち着いていて、その雰囲気は大人の持つそれだ。
あれが美月のこの好みなわけね、何となく魅力はわかる。
つんざくような音量に体が慣れた頃、あかさは美月が居るだろう最前列を眺めていた。
押し合い圧し合いする中に、きっともみくちゃになって混じっているに違いない。
きっと目にはその人しか入っていないのだろう。
音が大きすぎて曲の調子で判別できないが、おそらくもう数曲奏でているはずだ。
間髪無いその感じに流石に疲れてきて、あかさは隙間を縫って一人出口に向かった。
階段を上がり、見上げればまだ明るいながらもオレンジ色のグラデーションが美しい空が覗く。
焼けるような雲間に三日月が小さく顔を覗かせる。
肺一杯に冷たい空気を吸うと、足が地に着かないあかさを少し落ち着かせた。
それはまだはっきり覚えているあの夢から覚める感覚に似ていた。
あかさはおぼつかない足取りでとぼとぼ歩き、崩れ落ちるがごとく噴水の縁石に腰を下ろした。
大きく息を吐き出す。
よほどひどい顔でもしていたのか、隣の誰かが声を掛けてきた。
最初自分に向かって掛けられたものと思わず、テンポ外れにあかさは笑顔で返した。
噴水の周囲は一段高い縁石で囲まれ、ちょうどベンチのようになっている。
疲れ果ててよく見ていなかったが、一人分の空間を置いてその向こうに男の子が座っていた。
これがナンパだろうか、どうしようか、と酸素の薄い状態の頭で考えを巡らせても、答えは一向に定まらない。
わくわくとドキドキ。
しかし、それは杞憂だった。
そもそもあかさは詫びなければならなかったくらいだ。
その彼は女の子なのだから。
「ちょっと酔っちゃったみたい、人混みに」
笑顔であかさをのぞき込む彼女は、まだ名も知らぬ人。
「さきちゃん…、京恵さんの友達だよね?」
さき?きょうえ?だれ?
普段なら気になる話の間なのだが、いつもの調子が狂っていて次の言葉が浮かばないし、少々どうでも良かった。
冴えてきた頃、ようやくあかさはライブの開場前、ここで待ち合わせたときのことを思い出せた。
すでに来ていたひさきと、この人と、その友達らしき数人が楽しそうに話し込んでいた。
決して遅れたわけではないし、加織の姿も見あたらなかったが、ひさきを見つけて小走りで近づいた。
「…でさきちゃんがさぁ…」
咲ちゃん?
あ、ひさきのことか。
それに気づくのに一呼吸必要だった。
「ごめん、遅れた?」
振り返る笑顔のひさきと、見知らぬ人たちの視線が一斉にこちらを向き、話しかけるタイミングを誤ったと直感したあかさ。
「ううん、まだ早いくらい」
ひさきはあかさの腕を取り、彼女たちの輪に引き入れた。
「今の同じ学校の友達、あかささん」
と紹介されたあかさは少し居心地悪かった。
たぶんひさきの旧友、中学時代の友達だろうことはすぐにわかった。
それ故だろうが、この距離の近さは初っ端からはきつい。
何の話をしていたのだろう、せめてまず聞き耳立てておくとかしとけば良かった。
うまく立ち回れる自信は無かった。
とにかく笑顔で乗り切ろうと、心を決めようとしたところだった。
そこへ背後から、
「よう、タナー」
昔よく聞いた呼び名。
むっとして振り返るあかさ。
やはり、中学で一緒だった男子グループの姿があった。
懐かしいけど嬉しくない愛称である。
結局はひさきの友人を紹介してもらえないままだったが、おかげでその場から一旦逃れることができた。
あの時、ひさきの隣で仲良さそうに喋っていたのが彼女だった。
あかさが顔をよく覚えていたのは、彼女がぱっと見格好良い男の子のような顔立ちで、しかもショートカットで背が高く、屈託無い女の子らしい柔和な笑顔というギャップからだ。
漫画でよくある女子校のアイドル的存在そのままだ。
こんな人、本当にいるんだなとあかさは驚いたのを覚えている。
「ちかやさん?」
「正解」
驚き顔も笑顔にすぐ変わる、ハキハキした体育会系な印象である。
驚きはあかさも同様である。
「ちかやん」と彼女が呼ばれていたのを聞いただけで、どんな名前なのか考えても思い当たらなかったのに、まさか突発的に口をついた名前が正解だったとは。
「あかささん、だよね?」
と、ちかやが少し間を詰めて座り直す。
うなずきながら、
「低音がどんどん鳴ると、眠くなっちゃって」
「あー、私も。もう一曲目からギブアップ」
両腕を開いておどけるちかや。
夕日がかげり、ちかやの顔を横から影が差す。
その陰影はやはり女子らしく、柔らかいものだった。
街灯が暗くオレンジ色に灯り始め、ライブハウスに並ぶ店舗の照明が道路に光を与えてくれる。
まだライブは続いていて、わずかに低音が響いていた。
入り口はまるで蜂の巣ように客が出たり入ったりを繰り返している。
よくもこんなにもたくさんの、おそらく高校生ばかりをこんなに呼び込めたものだ。
制服姿は誰一人として居なかったが、雰囲気でそうだとわかる。
まるっきり文化祭じゃない、とまだ経験したことない高校のそれを思い浮かべた。
たくさんと言えば、ひさきの顔の広いこと。
学校でも校外でも誰かしらひさきを知っている人に出会う。
もちろん偶然なのだろうけど、誰も彼も仲良さげで、自分には真似できない、もはや才能だろうと確信できる。
凄すぎて、嫉妬の対象にもなり得ない。
そしてふと、ひさきの笑顔を思い出し、不安を覚えた。
ひさきの昔話でも聞いてみようかと、あかさは少し落ち着いたところで、
「ひさきって顔広いね」
「さきちゃん?うん、確かに。」
「昔から?」
「そう、仲悪い人なんて見たことないし」
「中学からのつきあい?」
にこりとするちかや。
私には確かにひさきの真似はできない。
でも、近づくことくらいはできるかも。
一人一人、友達を増やすことくらいは…。
「良かったら連絡先ちょうだい?」
と携帯を取り出すあかさは、なるべく平静を装っていたが、実際は緊張していた。
ひさきを軸に交友を増やす、少し理由が弱すぎるかもしれない。
でも、一方でちかやに興味があるし、惹かれているのも事実であり、むしろ胸を張って良い理由はこちらだとあかさは思った。
「いいよ、そうしよう」
と、躊躇のないちかやにあかさは嬉しくなった。
ジーパンを探り、上着を探るが、何も持たずにあかさに目を合わす。
「ごめん。携帯、忘れてきたみたい」
あかさは真意を窺ったが、ちかやの笑顔には何も感じず、次の言葉を待つ。
「それ、貸して?」
どうやらあかさの携帯に直接入力するのだろう、手を伸ばすちかやの掌にポンと携帯を乗せた。
ちかやはジーパンで膝から太ももをまさぐってから、ポンポンと携帯の画面で指を弾く。
携帯の画面から発せられる光に照らされたちかやの表情に、あかさはまた一息ついた。
足の間を何か黒いものが通り過ぎる。
視線が追う。
結構な早さだ。
その何かが止まったのを機会に、目をこらす。
暗くてよく見えないが、たぶん猫。
画面に見入って懸命なちかやのずっと向こう。
人がいない場所でふわりと縁石に飛び移る。
流れる水に口を近づけ、どうやら水を飲んでいる様子である。
人の気配を感じたのか、すぐさま走って噴水の向こう側へ消えた。
水は階段状になった丘を濁りなりながら流れ落ちる。
座っていると向こうに人がいても見えないほどの高さ。
よく見れば噴水はゆっくりと淡く発光しているよう。
じわりと色を変えながら、穏やかに。
その時、目の前が暗くなった。
まだほの明るかったはずだが、照明が消えたわけでなく光がぼやけて消えていくように、貧血の時に味わったあの目の前が暗くなりチカチカと光る、ふわっとしか感覚。
キラキラとした何かが目の端に見えたかと思うと、もう目の前がまばゆい虹色に包まれる。
「もしかして」
声にならなかった。
むしろ息を飲んでいた。
プールに潜るときのように、大きく息を吸い込んでいた。
息つく間もなく、すでに目の前の光景は今までと別物だった。
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