カノン

たかはし 葵

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やさしい音

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 発表会の練習が本格的に始まった。
 とはいえ、普段のレッスンに新しい曲が加わっただけで、そのレッスン内容に大きな変化はないけれど。

 どの子も嬉しそうに、楽しそうにレッスンして帰っていく。私は無事全員が納得の上、お気に入りの曲を見つけることができてホッとしていた。それだけで大仕事を終えたような気がしてしまうけれど、ここからが講師の頑張りどころ。
 これから発表会のその日まで、出来る限り暗譜を目指す。まぁ、親子連弾の場合は親御さんも忙しいだろうし、その限りではないけれど。

 思った通り、幼稚園児の何人かは私との連弾を希望してきた(もちろん喜んでお受けしましたとも)。
 当たり前だけどこちらは全く問題は無かった。

 問題は、進藤さんただ一人。
 進藤さんは、他の教本は勿論、カノンのレッスンになると、更に分かり易くウキウキとしていた。もちろん暗譜までは程遠いけれど、「次の週までに、ここまでは」と指示したところまでを必ず確実にマスターしていて、私はその勢いに常に押されていた。


 けれど実はまだ、私達は二人で合わせてはいない。もう少し、もう少し彼が弾けるようになってから。そんな気持ちでレッスンしている。
 いずれ合わせる練習は避けられなくなるというのに、私はいつまで逃げ続けるのだろう。

 練習を始めてから一ヶ月。レッスン4回目で、とうとう彼が切り出した。


「奏先生、そろそろ合わせてみませんか。………なんて、そういうのは先生の指示を待たないといけないんでしょうけど」
「う。……そ、そうですよね」
「もしかして嫌なんですか?」
「そんな事はないですよ?」


 我ながら講師として情けないって自覚してる。
 うう、やるしかないけど……。


「えーと、じゃあ、今から少しやってみましょうか。始めに決めておきますけど、音域が重なるところは、私が鍵盤の奥を弾きます。一応指先の力は私の方が入れ易い筈だし、何より進藤さんがメインです。私は伴奏に徹するので、進藤さんは何があっても私を気にすることなく弾いて下さい」


 テコの原理で指先に力は入れにくいけれど、あくまでも進藤さんがプリモ(第一ピアノ)だから。
 ………というか、そうすれば進藤さんの手が私の手を覆うことはなくなるから。本当は、それを避けたいが為だったりするんだけど。
 そうは言っても、どうしても部分的にほんの少しだけ二人の手が逆に重なる箇所もある。それは後半部分だから、彼にはまだその事に気付かれたくない。

 もしも私の手を覆われたなら。
 きっと心臓が口から飛び出してしまう。大げさじゃなく。
 変だよね。恋なんて、これまで何度も人並みにしてきたのに。

 姉と違い、一途に想う従兄や幼馴染なんていなかったけれど、私は中学生、高校生、大学生、とそれぞれ別の人と普通の恋愛をそれなりにしていた筈だ。
 高校時代の彼や、大学時代の彼とは身体の関係だってあった。なのに何故、進藤さんの前では初恋真っ最中みたいになってしまうんだろう。
 それはドキドキと、ふわふわが一緒になったような。まるで、頭の中がお花畑になってしまうような。

 

 雑念を払い、私の音から、それは静かに始まった。真剣に鍵盤を、私の指を見つめる視線に心臓が痛いくらいに鳴っている。
 四小節の前奏のあと、彼がふわりと主旋律を弾き始める。


 あぁ、私が嫉妬してしまうくらいに澄んだ音。
 彼がひとりで弾いている時とはまた違う、やさしさが溢れてる。どうして、この人のカノンはこんなに慈愛に満ちているの。
 悔しい。なのにずっと聴いていたいよ。


「ーーー奏先生?どうした?」
「………え、え?」


 いつの間にか浮かんでいた涙が、返事をしたことで揺れてぽろり、と膝に落ちた。
 あれ、私、どうしちゃったんだろう。
 進藤さんも敬語が取れてる。


「何か辛いことでもあったの?」
「いえ、何でもないですよ」
「何でもないことはないだろう」
「………何でもないですって。違うんです。……あのね、進藤さん。あなたの音が、私、とても好きみたいです。悔しいくらいやさしくて、不思議な力があるような気がするんです」


 そう言ってから、ハッと気付いた。
 私ったら、何を言っているの……!まだ曲は冒頭部分しか進んでいないのに。

 自分の言葉に恥ずかしくなり、俯いて赤くなっている私の膝に影が差す。

 ゆっくりと、ふんわりと。私は彼に抱きしめられていた。


「ありがとう、って言ったらいいのかな。ただ、君と弾けることが嬉しくて、それってこんなに幸せなことなんだな、って思いながら弾いているだけなんだけどね。……君の音もやさしいよ。やさしくて、強い。俺の音を正しく導いてくれる、道標みちしるべのような音だよ」
「し、進藤さん、ちょっとキザです………」


 腕の中で内心ジタバタしつつ、可愛くない事を口走る。新しい涙が頬を伝う。
 今までこの世界で生きてきて、こんな風に言ってくれた人はいなかった。


「奏先生こそ。君は感受性が豊かで、そこがやっぱり音楽家なんだなって思うよ。でも、俺だってそんな風に泣きながら一生懸命伝えようとする奏先生のことが、さっきからこのままキスしたいくらい可愛いとか考えてるんだけど」
「え。し、進藤さん……?!」


 慌てて腕の中からガバッと頭を上げると、進藤さんがくすくすと笑っていた。


「もう、からかうなんて酷いです」
「からかってなんかいないよ。君はやっぱり俺が思った通りの人だ」
「……どういう、意味ですか……?」


 まるで私を前から知っているかのような。


「うん?初めてこの教室の外で聴いた音のイメージ通り、ってこと」


 隠し事の上手うまそうな笑顔の裏で、この人は何かを企んでいる?
 ……まさかね。


「奏先生?続きをどうぞ?」
「……あ、じゃあ、この小節から。私は二小節前から入るので、後から合わせて下さい」


 いけない、今はレッスン中。いくら今日は彼で最後だからって、まだ気を抜いちゃダメ。

 私はこの日、手が重なる直前の所まででレッスンを終えた。
 講師がこんなメンタルで申し訳なく思う。公私混同してしまってきちんと弾くことも出来ないなんて、私は講師失格なのかもしれない。

 来週までに、絶対に割り切って弾けるようになろう。最後まで弾けるようになる為に、私の気持ちは永遠に鍵をかけて封印しよう。


 きっと、その方が上手くいく。
 だって、私と彼は“講師と生徒”なんだから。


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