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違う一面
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進藤さんに淡い恋心を抱いたのも束の間、そんな気持ちも無理やり封印せざるを得ないほど、スケジュールは発表会に向けてどんどん詰まっていく。
楽器店全体で企画される発表会。その開催日はいくつかに分割されている。
大手だけあって、全ての生徒が一堂に会したら、きっと丸一日かかっても演奏が終わらない。おまけに教室の場所もバラバラだから、結局近隣の二、三教室ごとにまとめて開催されるのが通常だ。
発表会まで丁度一年の時間が取られている中で、今日は一緒に発表会をする教室の先生方との顔合わせを兼ねた初回の会議があり、私は重い足を引き摺るようにして、呼び出された本店の会議室に向かっていた。
普段、定例の毎月の会議で顔を合わせているので、どの先生の教室と一緒に発表会をするのか、というのは本当は顔合わせをするまでもなく分かっているけれど、そのうちのある男性講師が私はどうしても苦手だ。
卒業した音大も違う彼は、就職してからここで初めて出会った人。多分二、三歳は年上だと思うのだけれど、困ったことに毎月会議の度に私の隣に座ろうとするのだ。
月一とはいえ、会議の回を重ねる毎に少しずつ仲良くしてくれるようになった女性の先生方に、さりげなく守られてはいるけれど、会議後の食事に頻繁に誘われたりして、どうやらあからさまな好意を寄せられているらしいことだけは流石に理解できた。
けれども元々私の好みでも何でもなかったし、進藤さんへの想いを自覚してしまった今は、その好意はもはや私にとっては嫌悪以外の何ものでもない。
少しでも早く会議を終えて帰りたい。
側に他人がいても堂々と誘いをかけるこの男を見れば私の自意識過剰だという人はいないだろう、というくらいしつこいこの男をどうにか撒いてさっさと帰りたい。
「佐藤さん、この後一緒にお昼でもどうですか?」
ほら来た。
うわぁ、他の先生の同情するような視線が居たたまれないよ。ていうか、同情するなら助けて欲しい。
「すみません、まだこれから寄るところがあって」
嘘じゃない。下の店舗に寄って生徒たちの楽譜を探すのだ。
私は急いで階段を駆け下りるようにして店舗に飛び込んだ。けれど、敵もしつこく付いてきている。
勘弁して。
「お付き合いしますよ。佐藤さんとはなかなかお会いできないし、こんな時でないと誘えないですからね」
やめて、他の先生だって遠巻きに見てるのに。
ああ、この場から走って逃げられたらどんなにいいか。
ーーーその時。
「奏!ごめん、お待たせ。さて、行こうか」
「え。し、進藤さん?!」
目を丸くして固まるのは、しつこい男性講師だけじゃない、私もだ。
けれども口をパクパクしながら進藤さんに手を取られて歩き始める私のことを、もう男性講師はそれ以上追っては来なかった。
私、助かった、の………?
いや、それよりちょっと待って。どうして進藤さんがここにいるの?
「あ、あのっ!」
気持ち足早に歩いていた進藤さんは、少し歩調を弱めると、チラリと私を見た。
「ごめんね、嫌がってるように見えたから。違った?」
「あ、いえ、助かりました、けど………」
「たまたまお店の前を通りかかったんだけど、どうも迷惑しているようにしか見えなかったから」
いや、確かにそうなんだけど、そんなことより。
さっき、この人私のこと“奏”って呼んだ。
それに、口調がいつもと………。
「さて、お昼でも食べようか。俺も丁度食べに行こうと思ってたんだ」
お、“俺”?!“俺”って言った、今“俺”って言ったよね?!ていうか、手!
「ん、カモフラージュとはいえ手を繋ぐのも駄目だった?」
手元に視線を落とした私に気付いてするりと解けた手に、一瞬の寂しさがよぎる。
嫌だなんて思ってない、だけど。
「いえ。でも、あの、進藤さん、お仕事…………」
「あぁ、言ってなかったかな。俺、時間に自由のきく営業職。さっき奏先生を見かけたのは本当に偶然だよ。………で、さっきの人、誰?」
「えっと、余所の教室の講師です」
「………まずいな、あんなのがいるのか………」
「はい?」
「いや、何でもない。奏先生、あの先生に隙を見せたらダメだよ。嫌なら毅然とした態度でいないと」
「分かってますよぅ。でも、いくら断ってもしつこいんですもん」
思わず口が尖ってしまう。
そんなこと言ったって私だって閉口してるのだ。
「ごめん、説教するつもりはなかった。余計なお世話だよね」
「いえ、いいですけど……。それより進藤さん、教室の中と随分違いませんか?」
「ん?まあ教室の外だし、一応奏先生より年上の男なんで。使い分けようと思ったんだけど、不快なら教室と同じようにお話ししますよ、奏先生」
私の目線に屈んで覗き込むその顔には満面の笑み。
進藤さん、何だか意地悪だ。
「や、不快なんてことは………」
ただ、あまりにも砕けていて、それがとても自然だから戸惑ってるだけなの。
「奏先生、和食でもいい?」
「?……は、はい」
誘われたのは私も時々来ているお店。
ランチタイムのレディースセットはかなり好きだ。程よく少なめでデザートまで付いているのにお値段もお手頃なのだ。
「奏先生は、レディースセット?女性はこんな風に少しずつ色々食べられるのがいいのかな」
「あ、はい。大体いつもそれです」
「じゃあ、これを一つと、後は和風かつ膳のセットを」
進藤さんはご飯とお味噌汁のお代わりが自由といういかにも男性の好みそうなボリュームのあるセットを注文していた。
急にこんな事態になって慌ててはいるけれど、とりあえず朝ご飯抜きのお腹はしっかりきっかり空いていた。目の前の彼の綺麗な箸さばきに見とれつつ、他愛ない話をしながら二人とも食が進む。
こんなに普通に食事ができるなんて、我ながら恥じらいも何もないよね、なんて思った時にはデザートまで完食した後だった。
「あの、ご馳走さまでした」
「いえいえ、どう致しまして」
奢って頂くつもりはなかったのに、彼は私の分の支払いも一緒に済ませてしまった。お店の外で自分の分を出そうとしたけれど、どうしても受け取って貰えないらしい。
「俺のペースにつられてたみたいだったけど、大丈夫?」
「え?」
「いや、若干目を白黒しながら食べてたように見えたから」
「そ、そんなことは………」
……あったかもしれない。
恥ずかしい。確かにつられたかもしれない。
彼が可笑しそうにくすくすと笑っている。
「まぁ、そんな奏先生が可愛いな、って見てたんだけどね」
「え、…………え?」
「ところで奏先生、自宅っていうか教室からどうやって来たの?」
「あ、今日は電車で………」
「じゃあ、車、この近くに停めてるし、このまま送っていくよ」
さっきからこの状況が飲み込めない私をよそに、ニコニコとご機嫌な彼に促され、コインパーキングへと向かう彼に、慌てて早足で追いついた。
車に乗り込んだら、暫く二人とも無言だった。
車内には、クラシックのピアノ曲が静かに流れている。ぽかぽか陽気とスムーズな運転、それに控えめな芳香剤の香りの漂う心地良い空間に、こんな状況じゃなければ眠くなってしまいそう。
進藤さんの運転する車の助手席、なんてところに乗っているのでなければ。
「このままどこかに遊びに行きたいくらいなんだけど。残念、俺もまだこれから夕方まで仕事なんで」
「あ、お仕事があるのに送って頂いて、申し訳ないです………」
「俺が送りたかったんだから、気にしないで」
「でも………」
ご飯までご馳走になっちゃったし。
「………お礼なんていらないけど。代わりにひとつ、お願い、聞いてくれるかな」
「何でしょう?」
「発表会の曲なんだけど。………俺と、連弾でカノンを一緒に弾いて欲しい」
進藤さんと、私が、連弾………?
「え……………」
私の思考は、停止した。
「考えておいて。出来たら前向きにね、奏先生」
「……………ほぇ?」
「………っくく。可愛いな」
「な、………!」
からかってるの?!
本当、レッスンの時と大違いなんですけど!!
「俺は本気ですよ、奏先生。ーーーはい、到着っと」
「………どうして、連弾………」
「うん、動画サイトで見て、“これだ!”って思ったんだ」
「分かっていて、言ってるんですか?カノンの連弾は、ーーーいや、何でもありません。少し、考えさせて下さい」
「勿論。でもちょっとでも多く練習したいから、なるべく早く返事が欲しいかな」
「わ、分かりました。あの、送って頂いてありがとうございました」
「どう致しまして」
車を降りると、進藤さんは笑いながら手を振り、ハイブリッドカーを静かに発進させた。
カノンの連弾は、お互いの手が何度も重なる、連弾としてはなかなか難しい曲だ。発表会ではきょうだいで演奏されることが多く、他人同士でもできるだけ近しい関係の人との調和が美しい。
けれど、私たちがお互いの理解もなくこのまま連弾をするのなら、どんなに練習を積んだとしても演奏は最後まで続かない。きっと途中で止まってしまうだろう。
進藤さんは、それを分かっていてそれでも弾きたいのか。それとも何も分かっていないのか。
家の玄関ドアを開けると、昨日の夜に姉が焼いたパウンドケーキのバターの香りがまだ家中に残っていた。その匂いを吸い込んだら、朝とは違う重い気持ちが少しだけ和らいでいく。
「ただいまー」
「おかえり」
迎えてくれたのは、従兄であり義兄でもある、瑛士お兄ちゃん。
「珍しいね、お兄ちゃんがこんな時間に家にいるなんて」
「部活がなければこんなもんだよ。今日こそこっちで律を捕まえようと思ってさ」
「やだ、お兄ちゃん!束縛しすぎると嫌われるよー」
「バカ、お前から離れられないんだろ」
「なんで?」
「最近、“奏のピアノが元気がない”って言って、できるだけここに居ようとしてるみたいなんだけど。……思い当たる節、ある?」
子供の頃は姉も一緒にピアノを習っていたし、姉がやめてからも私はずっと弾き続けていたから、きっと些細な違いにも気付くんだろう。
でも、私ももう社会人なんだし、そんなに心配しなくてもいいのに。
「思い当たる節……。無いこともない……けど、もう大人なんだし自分で解決できるよ。もしどうにもならなくなったらお姉ちゃんに相談する。……って言っといて」
「OK。捕獲したら今日は何も作らせないで、そのままあっちの家に連行するよ」
「そうして」
義兄をリビングに残し、レッスン室を通り過ぎて自分の部屋に上がり、ベッドに座った。
お姉ちゃん、大丈夫だよ。ちゃんと自分で答えを出すから。
ただ、今までと違う恋をしてるだけなの。
でも、今はこれでももう社会人なんだから。とりあえずお仕事優先で、ね。
楽器店全体で企画される発表会。その開催日はいくつかに分割されている。
大手だけあって、全ての生徒が一堂に会したら、きっと丸一日かかっても演奏が終わらない。おまけに教室の場所もバラバラだから、結局近隣の二、三教室ごとにまとめて開催されるのが通常だ。
発表会まで丁度一年の時間が取られている中で、今日は一緒に発表会をする教室の先生方との顔合わせを兼ねた初回の会議があり、私は重い足を引き摺るようにして、呼び出された本店の会議室に向かっていた。
普段、定例の毎月の会議で顔を合わせているので、どの先生の教室と一緒に発表会をするのか、というのは本当は顔合わせをするまでもなく分かっているけれど、そのうちのある男性講師が私はどうしても苦手だ。
卒業した音大も違う彼は、就職してからここで初めて出会った人。多分二、三歳は年上だと思うのだけれど、困ったことに毎月会議の度に私の隣に座ろうとするのだ。
月一とはいえ、会議の回を重ねる毎に少しずつ仲良くしてくれるようになった女性の先生方に、さりげなく守られてはいるけれど、会議後の食事に頻繁に誘われたりして、どうやらあからさまな好意を寄せられているらしいことだけは流石に理解できた。
けれども元々私の好みでも何でもなかったし、進藤さんへの想いを自覚してしまった今は、その好意はもはや私にとっては嫌悪以外の何ものでもない。
少しでも早く会議を終えて帰りたい。
側に他人がいても堂々と誘いをかけるこの男を見れば私の自意識過剰だという人はいないだろう、というくらいしつこいこの男をどうにか撒いてさっさと帰りたい。
「佐藤さん、この後一緒にお昼でもどうですか?」
ほら来た。
うわぁ、他の先生の同情するような視線が居たたまれないよ。ていうか、同情するなら助けて欲しい。
「すみません、まだこれから寄るところがあって」
嘘じゃない。下の店舗に寄って生徒たちの楽譜を探すのだ。
私は急いで階段を駆け下りるようにして店舗に飛び込んだ。けれど、敵もしつこく付いてきている。
勘弁して。
「お付き合いしますよ。佐藤さんとはなかなかお会いできないし、こんな時でないと誘えないですからね」
やめて、他の先生だって遠巻きに見てるのに。
ああ、この場から走って逃げられたらどんなにいいか。
ーーーその時。
「奏!ごめん、お待たせ。さて、行こうか」
「え。し、進藤さん?!」
目を丸くして固まるのは、しつこい男性講師だけじゃない、私もだ。
けれども口をパクパクしながら進藤さんに手を取られて歩き始める私のことを、もう男性講師はそれ以上追っては来なかった。
私、助かった、の………?
いや、それよりちょっと待って。どうして進藤さんがここにいるの?
「あ、あのっ!」
気持ち足早に歩いていた進藤さんは、少し歩調を弱めると、チラリと私を見た。
「ごめんね、嫌がってるように見えたから。違った?」
「あ、いえ、助かりました、けど………」
「たまたまお店の前を通りかかったんだけど、どうも迷惑しているようにしか見えなかったから」
いや、確かにそうなんだけど、そんなことより。
さっき、この人私のこと“奏”って呼んだ。
それに、口調がいつもと………。
「さて、お昼でも食べようか。俺も丁度食べに行こうと思ってたんだ」
お、“俺”?!“俺”って言った、今“俺”って言ったよね?!ていうか、手!
「ん、カモフラージュとはいえ手を繋ぐのも駄目だった?」
手元に視線を落とした私に気付いてするりと解けた手に、一瞬の寂しさがよぎる。
嫌だなんて思ってない、だけど。
「いえ。でも、あの、進藤さん、お仕事…………」
「あぁ、言ってなかったかな。俺、時間に自由のきく営業職。さっき奏先生を見かけたのは本当に偶然だよ。………で、さっきの人、誰?」
「えっと、余所の教室の講師です」
「………まずいな、あんなのがいるのか………」
「はい?」
「いや、何でもない。奏先生、あの先生に隙を見せたらダメだよ。嫌なら毅然とした態度でいないと」
「分かってますよぅ。でも、いくら断ってもしつこいんですもん」
思わず口が尖ってしまう。
そんなこと言ったって私だって閉口してるのだ。
「ごめん、説教するつもりはなかった。余計なお世話だよね」
「いえ、いいですけど……。それより進藤さん、教室の中と随分違いませんか?」
「ん?まあ教室の外だし、一応奏先生より年上の男なんで。使い分けようと思ったんだけど、不快なら教室と同じようにお話ししますよ、奏先生」
私の目線に屈んで覗き込むその顔には満面の笑み。
進藤さん、何だか意地悪だ。
「や、不快なんてことは………」
ただ、あまりにも砕けていて、それがとても自然だから戸惑ってるだけなの。
「奏先生、和食でもいい?」
「?……は、はい」
誘われたのは私も時々来ているお店。
ランチタイムのレディースセットはかなり好きだ。程よく少なめでデザートまで付いているのにお値段もお手頃なのだ。
「奏先生は、レディースセット?女性はこんな風に少しずつ色々食べられるのがいいのかな」
「あ、はい。大体いつもそれです」
「じゃあ、これを一つと、後は和風かつ膳のセットを」
進藤さんはご飯とお味噌汁のお代わりが自由といういかにも男性の好みそうなボリュームのあるセットを注文していた。
急にこんな事態になって慌ててはいるけれど、とりあえず朝ご飯抜きのお腹はしっかりきっかり空いていた。目の前の彼の綺麗な箸さばきに見とれつつ、他愛ない話をしながら二人とも食が進む。
こんなに普通に食事ができるなんて、我ながら恥じらいも何もないよね、なんて思った時にはデザートまで完食した後だった。
「あの、ご馳走さまでした」
「いえいえ、どう致しまして」
奢って頂くつもりはなかったのに、彼は私の分の支払いも一緒に済ませてしまった。お店の外で自分の分を出そうとしたけれど、どうしても受け取って貰えないらしい。
「俺のペースにつられてたみたいだったけど、大丈夫?」
「え?」
「いや、若干目を白黒しながら食べてたように見えたから」
「そ、そんなことは………」
……あったかもしれない。
恥ずかしい。確かにつられたかもしれない。
彼が可笑しそうにくすくすと笑っている。
「まぁ、そんな奏先生が可愛いな、って見てたんだけどね」
「え、…………え?」
「ところで奏先生、自宅っていうか教室からどうやって来たの?」
「あ、今日は電車で………」
「じゃあ、車、この近くに停めてるし、このまま送っていくよ」
さっきからこの状況が飲み込めない私をよそに、ニコニコとご機嫌な彼に促され、コインパーキングへと向かう彼に、慌てて早足で追いついた。
車に乗り込んだら、暫く二人とも無言だった。
車内には、クラシックのピアノ曲が静かに流れている。ぽかぽか陽気とスムーズな運転、それに控えめな芳香剤の香りの漂う心地良い空間に、こんな状況じゃなければ眠くなってしまいそう。
進藤さんの運転する車の助手席、なんてところに乗っているのでなければ。
「このままどこかに遊びに行きたいくらいなんだけど。残念、俺もまだこれから夕方まで仕事なんで」
「あ、お仕事があるのに送って頂いて、申し訳ないです………」
「俺が送りたかったんだから、気にしないで」
「でも………」
ご飯までご馳走になっちゃったし。
「………お礼なんていらないけど。代わりにひとつ、お願い、聞いてくれるかな」
「何でしょう?」
「発表会の曲なんだけど。………俺と、連弾でカノンを一緒に弾いて欲しい」
進藤さんと、私が、連弾………?
「え……………」
私の思考は、停止した。
「考えておいて。出来たら前向きにね、奏先生」
「……………ほぇ?」
「………っくく。可愛いな」
「な、………!」
からかってるの?!
本当、レッスンの時と大違いなんですけど!!
「俺は本気ですよ、奏先生。ーーーはい、到着っと」
「………どうして、連弾………」
「うん、動画サイトで見て、“これだ!”って思ったんだ」
「分かっていて、言ってるんですか?カノンの連弾は、ーーーいや、何でもありません。少し、考えさせて下さい」
「勿論。でもちょっとでも多く練習したいから、なるべく早く返事が欲しいかな」
「わ、分かりました。あの、送って頂いてありがとうございました」
「どう致しまして」
車を降りると、進藤さんは笑いながら手を振り、ハイブリッドカーを静かに発進させた。
カノンの連弾は、お互いの手が何度も重なる、連弾としてはなかなか難しい曲だ。発表会ではきょうだいで演奏されることが多く、他人同士でもできるだけ近しい関係の人との調和が美しい。
けれど、私たちがお互いの理解もなくこのまま連弾をするのなら、どんなに練習を積んだとしても演奏は最後まで続かない。きっと途中で止まってしまうだろう。
進藤さんは、それを分かっていてそれでも弾きたいのか。それとも何も分かっていないのか。
家の玄関ドアを開けると、昨日の夜に姉が焼いたパウンドケーキのバターの香りがまだ家中に残っていた。その匂いを吸い込んだら、朝とは違う重い気持ちが少しだけ和らいでいく。
「ただいまー」
「おかえり」
迎えてくれたのは、従兄であり義兄でもある、瑛士お兄ちゃん。
「珍しいね、お兄ちゃんがこんな時間に家にいるなんて」
「部活がなければこんなもんだよ。今日こそこっちで律を捕まえようと思ってさ」
「やだ、お兄ちゃん!束縛しすぎると嫌われるよー」
「バカ、お前から離れられないんだろ」
「なんで?」
「最近、“奏のピアノが元気がない”って言って、できるだけここに居ようとしてるみたいなんだけど。……思い当たる節、ある?」
子供の頃は姉も一緒にピアノを習っていたし、姉がやめてからも私はずっと弾き続けていたから、きっと些細な違いにも気付くんだろう。
でも、私ももう社会人なんだし、そんなに心配しなくてもいいのに。
「思い当たる節……。無いこともない……けど、もう大人なんだし自分で解決できるよ。もしどうにもならなくなったらお姉ちゃんに相談する。……って言っといて」
「OK。捕獲したら今日は何も作らせないで、そのままあっちの家に連行するよ」
「そうして」
義兄をリビングに残し、レッスン室を通り過ぎて自分の部屋に上がり、ベッドに座った。
お姉ちゃん、大丈夫だよ。ちゃんと自分で答えを出すから。
ただ、今までと違う恋をしてるだけなの。
でも、今はこれでももう社会人なんだから。とりあえずお仕事優先で、ね。
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