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第3話
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夏休みを目前に控えた週明け。
三枝を見舞う理由も探せない僕は、夏休みはとりあえず勉強に力を入れよう、と考えていた。すっかり予備校通いにも慣れてきていたし、予備校の授業は分かりやすく、すんなりと内容が頭に入った。ようやく勉強そのものに手応えを感じられてきたような気がすると同時に、そうしている間だけは三枝の事を思い出さなくて済むことに、心の何処かでホッとしたりした。美術部にも、予備校までの時間つぶしに通うのみになっていた。
そんなある日。
部室に向かう僕を、背後から知らない声が呼び止めた。
「有藤、ってお前か」
振り向くと、いつか三枝の具合が悪かった時に昇降口でちょっと見かけただけの、あの上級生が立っていた。
「何でしょう」
思わず身構え、僕の声が硬くなる。
「あいつが欠席し始めた日の前日、偶然お前とあいつが一緒にバスに乗るのを見たんだ。お前、何か知ってるんじゃないのか」
「“あいつ”って、三枝さんのことですか?」
「それ以外に誰がいるんだよ」
「“何か”って言われても……。大体、名乗りもしないでいきなり何なんですか?」
突然話し始めた上級生に戸惑ったけれど、僕の中の何かが“引きたくない、負けたくない”と強がっていた。
これは自分だけのエゴかもしれないけれど、あの日のことは誰にも話したくない。
ていうか、どこからどこまで見られていたんだろう。この強い口調といい、それは本当に“偶然”なんだろうか。
「三年の秋月だ。…………言いたくない、か。じゃあ、あいつの容体は聞いてるか」
そんなの知るか。
「知りませんよ。単なるクラスメイトの僕が知ってるわけないでしょう。彼女の容体が心配なら、見舞いにでも行ったらいいんじゃないですか?幼馴染の特権とやらで」
秋月が目を見開く。見た目が随分大人びているこの男を本気で怒らせたらどうなるか、なんてその時は思いもせず、僕はただ、背の高いこの男に精一杯の虚勢を張りたかった。
「幼馴染なのは知ってるのか。結菜はお前に一体どこまで話してるんだろうな。ーーーそうだ。お前にいいこと教えてやるよ。あいつさ、大人しそうに見えて、結構悪い女だぜ。中学の時なんて色んな男を手玉に取って……」
「あの、だから何なんですか?それ僕にはいらない情報ですけど。……他に用が無ければ忙しいので失礼します」
「おい……ーーー」
なんだあいつ。
随分低俗な話をするやつだな。
僕は“今”の三枝しか知らないし、知りたくない。男を手玉に取るような女はこの胸の中には居ないんだ。
僕は部室へ向かう廊下を足早に抜け、職員室に急いだ。まだ担任はいるだろうか。
「失礼します。金子先生はいらっしゃいますか」
デスクに見当たらない担任を探していることを他の教員に尋ねると、ちょうど校長室から出てくるところで目が合い、僕は軽く会釈した。
「ようクラス委員。やっとクラスメイトの見舞いに行く気になったか?」
校長室から出て来た時の無表情から一転、担任は僕を見てからかうように笑っている。
「ええと、まあ、そんなところです」
「市立病院にいるよ」
「え、あ、はい」
「内科病棟の二階。病室は変わっているかもしれないから病棟の看護師にでも聞いてみろ」
「…………」
「何だ」
「僕なんかが行っても大丈夫なんでしょうか」
「バカ。たとえクラスの奴には言うなって口止めされてたとしてもお前くらい強引に行かなくてどうする」
「口止め、されてたんですか?」
担任が苦い顔で笑う。
「そうだとしても。お前は行きたいだろ?」
「…………はい」
「じゃあ行けよ“委員長”。行ってそののんびりした顔でも見せてやれよ」
「“のんびり”って失礼な」
「まあまあ」
そうか、僕はクラス委員なんだし堂々と行けばいいんだ。大義名分なんてそれで充分だ。
「ありがとうございます。今から行ってきます!」
僕ははやる気持ちを抑えて学校を飛び出した。
見舞いには何がいいだろう。そうだ、僕なら寝込んでいる時はゼリーが嬉しかったから途中で買っていこう。
横になっていても食べられるように、それから気を使わせないように、ごく普通の“飲むゼリー”みたいなやつなんかどうかな。
かといって、気の利いた店などよくわからなくて結局病院の中の売店で物色すると、可愛らしいパッケージの飲むタイプのゼリーが冷蔵ケースに並んでいる。どれが好みか分からないから、桃、白ぶどう、オレンジなどをとりあえず一つずつ手に取り、あとは一口サイズのクッキーの入った小袋をレジ横で見つけたのでふたつ追加して、それらの会計を済ませた。
さあ、なるべく明るい調子で顔を出してみよう。大丈夫、硬い顔はせず、いつもののんびり顔でいってみよう。
内科病棟の二階、ナースステーションで三枝の部屋を聞くと、気のせいか生温い目で見られたような気がした。まあそれはともかく、つまりはそんなに深刻な病状でもないということかもしれない。
コンコンとノックをすると、中から「はあい」と彼女の声が聞こえる。引き戸になっているドアを開けけると、ベッドの背もたれを起こし、四人部屋の窓際にぽつんと一人でベッドに座っている姿が見えた。
「あれっ、有藤?ビックリした~。てっきり母親かと思ったよ」
「突然ごめん。金子先生から“入院した”って聞いて……」
「あー、バレちゃったかぁ。ま、有藤なら口が固いからいっか」
「おお、絵、描いてたんだ」
「あっ、見ちゃダメだよ!これは有藤にも内緒ー」
慌ててサイドテーブルの引き出しにスケッチブックをしまっている。あれは三枝が部室で水彩画の練習に使っていたやつだ。
「別に勝手に見たりしないから大丈夫なのに……。ああ、そうだこれ、お見舞い。何がいいかわからなくて飲むゼリーとか……」
「わ、嬉しい。ベッドでも飲みやすくていいよね。これ大好き」
「良かった。こういうのなら逆に気を使わせたりしなくていいかなって思って」
「もう。有藤優しすぎるよー」
「これくらい普通だろ」
“優しく”なんかない。少しでも好感度を上げようって割と本気で考えてるんだ。
「………元気そうだな」
「え?うん。ちょっとね、大げさだと思ったんだけど、両親がうるさくて」
僕がポツリと呟いた言葉を拾って、彼女は明るく笑っている。
「ーーーなんてね。本当はね、私、今回の入院で骨髄移植することになったんだ。…………えへ、結構重症だったみたい」
「そう、なんだ…………」
こんな時、気の利いた言葉のひとつも出てこない自分が歯がゆい。けれど的外れな慰めは、きっと彼女を傷つけてしまうから。
「大学生の姉と、型が合ったの。だから…………」
「ーーーうん」
頷いて見せるのが精一杯で。
僕は、ゆっくりと噛みしめるように話す彼女の声を遮らないよう、相槌だけで聞いていた。
「移植の前にね、ちょっと色々治療があってね。それが今一番怖い、かな」
「うん」
「暇だから、自分で調べちゃうのね。上手くいかなかった同じ病気の人の例とか」
上手くいかないことなんてあるのか。
悔しいけれど、僕はこんな風に彼女の病気について調べたことがない。そんな自分はなんて無力で鈍感なんだろう。
「みんな、“上手くいくよ”って言うの。小さい子とは違って抵抗力もあるし、もう少し頑張れるよねって。でもね、私も“大丈夫”なんて言ってみせたって、ーーーーやっぱり、怖いものは怖いの…………っ」
「三枝……!」
そんな風に周りに気を使わなくていい。もっと、もっと我儘言っていいんだ。
そう口に出せないまま、僕は彼女の頭を抱き寄せた。
「三枝の席は僕が守るから、必ず帰ってきて。席替えがあっても、僕の隣は空けておくから」
こんな時にまで学校の事しか持ち出せないとか本当に自分が情けない。もっと気の利いたこと、言えないのか。
だけどいいんだ。ここぞとばかりにクラス委員の特権を行使してやるんだ。
「あは。有藤の声って、なんか落ち着くなぁ。……うん、頑張って学校に行けるようになってみせるよ。ありがとう」
無意識に抱き寄せた頭から、僕が腕を外すタイミングを完全に失っていたところへ、ドアをノックする音が聞こえて慌てて離れた。ドアを開けて入ってきたのは、三枝に面影がよく似ている女性。
「あれっ、お客さまだった?」
「うん、えっと、クラスメイトの……」
「お邪魔してます。クラス委員の有藤です」
「あらご丁寧に。結菜の姉です、よろしくね」
どちらかというと可愛い系の美人だった。三枝もメイクをしたらこんな感じになるのかな。
「…………お邪魔しちゃった?」
「い、いえいえっ。もう失礼しますからっ」
家族に会ってしまうことを何故想定しなかったんだろう。自分の顔が熱くなるのが分かる。“クラス委員の”と強調したつもりがからかわれてしまうとは。
「じゃあ三枝、もう行くよ。…………待ってるから」
最後の方は声が小さくなってしまったから届いたかどうか分からないけど、三枝は、僕の目を見て確かに頷いたような気がするんだ。
信じて待とう。きっと、大丈夫。
そして彼女が登校できるようになったら、僕の気持ちを打ち明けよう。
もう、とうに知られているかもしれないけれど。
夏休みは美術部の活動日も無かったので予備校の夏期講習に明け暮れ、並行して学校の宿題をこなし、それなりに忙しく過ごした。赤点も取っていなかったから学校に登校することもなく、クラス委員だからといって、特に担任からの呼び出しもないまま新学期を迎えた。
新学期早々に、昇降口で相変わらず女子とつるんでいる秋月を見かけて気が滅入ったけれど、残暑というよりはまだまだ真夏のような暑さの階段を昇り、教室に向かう。
開けっ放しの入り口から自分の席と隣の空席をなんとなく目にした。
三枝は退院出来たんだろうか。心配で頭が一杯になる。
椅子に座り、落ち着かないままそわそわしていると、じきに担任がやってきて体育館に向かうよう指示が出された。
担任はすれ違いざまに僕と目が合った気がするけれど、その意味までは図ることはできなかった。
退屈な始業式が終わり、続いて各クラスでのホームルーム。担任が話し始め、クラスメイトはしんと静まり返ってその言葉に耳を傾ける。九月の行事予定を簡単に説明したあと、担任は口調を変えた。
「三枝の入院が長引いている。会いたいやつもいるかもしれないが、今はとりあえず家族以外は会えない状態だ。退院してもすぐには登校できないと伝えて欲しい、とご家族から聞いている」
担任はゆっくりと言葉を選びながら、皆ではなく僕の目を見て話していた。少なくとも僕はそう感じた。
「ていうか先生、俺たち三枝さんが入院してることすら知らなかったんですけど」
「そんなに悪いんですか?」
誰からとなく質問が飛ぶ。
「そうだな。彼女の意思で知らせなかったからな。でも、俺は入院自体は皆が知っていてもいいと思ったんだ。まあ、そのうち元気になって登校してくるはずだし、どうせならいい知らせが来るまでもう少し待ってやろう」
三枝について担任が話したのは、結局それだけだった。後は翌日の実力テストについての説明があり、そこでホームルームが終わった。
ほどなく解散となり、下校しようとしていた僕は担任に呼び止められた。
「有藤、ちょっといいか」
「はい」
三枝についての話だろうか。
担任の表情は読めないが明るい話でないことは分かった。
廊下に出て端によると、その重い口が開く。
「三枝なんだけどな。今、あまり良くない状態らしいんだ。けどクラスメイトの見舞いは本人が固く拒否しているって聞いてる。もちろんお前もだ」
「そう、ですか…………」
「随分辛い治療だそうだ。ご家族としても苦しんでいる娘さんのことは誰にも見せたくない、と………」
「わかりました。……あの、三枝は大丈夫ですよね?移植をして、治って帰ってくるんですよね?」
「お前、どこまで病状を聞いてんだよ」
「一応本人からなんとなく……」
「大丈夫だよ。家族も、俺も、お前だって信じてるだろ?気長に待ってやれよ」
「…………はい…………」
肩をポンと叩かれ、涙が出そうになった。
そうだ、信じるしかないんだ。
九月の半ば、僕は放課後に細々とした雑用に追われていた。文化祭を控えて実行委員と共に忙しく動き回っているので部活に顔を出す暇もない。美術部恒例の看板描きは免除され、クラスの仕事に専念していいと言われ、正直助かっていた。
そんなある日、あまりの疲労感にぐったりと一人、机に突っ伏していると次第に瞼が重くなってきた。幸い予備校の授業もない日だし、万が一眠ってしまっても、普段から眠りの浅い僕は、すぐに目を覚ます自信があった。
『有藤、有藤…………』
夢の中で三枝が僕を呼んでいる。
『ここだよ』と言いたいのに何故か声が出なくて気持ちが焦る。
彼女の声は次第に遠ざかり、僕の声は益々届かない。
三十分程うたた寝をしていただろうか。
目覚めた僕は、ゆっくりと身体を起こす。
視界がぼやけ、堪えきれない涙が一筋零れた。哀しい夢を見ていたような気がして、本当は人目も憚らず大きな声で無性に泣きたかった。けれど、小心者の僕は結局それすらも出来ないんだ。
翌日、いつもより早く目が覚めてしまい、仕方なく起きて支度をしている僕の元へ、担任が電話をかけてきた。
担任の声が、まるで水の中で聞いているように遠かった。
三枝はまだ暗い明け方、混濁した意識が次第に戻らなくなり、静かに永遠の眠りについたという。
三枝を見舞う理由も探せない僕は、夏休みはとりあえず勉強に力を入れよう、と考えていた。すっかり予備校通いにも慣れてきていたし、予備校の授業は分かりやすく、すんなりと内容が頭に入った。ようやく勉強そのものに手応えを感じられてきたような気がすると同時に、そうしている間だけは三枝の事を思い出さなくて済むことに、心の何処かでホッとしたりした。美術部にも、予備校までの時間つぶしに通うのみになっていた。
そんなある日。
部室に向かう僕を、背後から知らない声が呼び止めた。
「有藤、ってお前か」
振り向くと、いつか三枝の具合が悪かった時に昇降口でちょっと見かけただけの、あの上級生が立っていた。
「何でしょう」
思わず身構え、僕の声が硬くなる。
「あいつが欠席し始めた日の前日、偶然お前とあいつが一緒にバスに乗るのを見たんだ。お前、何か知ってるんじゃないのか」
「“あいつ”って、三枝さんのことですか?」
「それ以外に誰がいるんだよ」
「“何か”って言われても……。大体、名乗りもしないでいきなり何なんですか?」
突然話し始めた上級生に戸惑ったけれど、僕の中の何かが“引きたくない、負けたくない”と強がっていた。
これは自分だけのエゴかもしれないけれど、あの日のことは誰にも話したくない。
ていうか、どこからどこまで見られていたんだろう。この強い口調といい、それは本当に“偶然”なんだろうか。
「三年の秋月だ。…………言いたくない、か。じゃあ、あいつの容体は聞いてるか」
そんなの知るか。
「知りませんよ。単なるクラスメイトの僕が知ってるわけないでしょう。彼女の容体が心配なら、見舞いにでも行ったらいいんじゃないですか?幼馴染の特権とやらで」
秋月が目を見開く。見た目が随分大人びているこの男を本気で怒らせたらどうなるか、なんてその時は思いもせず、僕はただ、背の高いこの男に精一杯の虚勢を張りたかった。
「幼馴染なのは知ってるのか。結菜はお前に一体どこまで話してるんだろうな。ーーーそうだ。お前にいいこと教えてやるよ。あいつさ、大人しそうに見えて、結構悪い女だぜ。中学の時なんて色んな男を手玉に取って……」
「あの、だから何なんですか?それ僕にはいらない情報ですけど。……他に用が無ければ忙しいので失礼します」
「おい……ーーー」
なんだあいつ。
随分低俗な話をするやつだな。
僕は“今”の三枝しか知らないし、知りたくない。男を手玉に取るような女はこの胸の中には居ないんだ。
僕は部室へ向かう廊下を足早に抜け、職員室に急いだ。まだ担任はいるだろうか。
「失礼します。金子先生はいらっしゃいますか」
デスクに見当たらない担任を探していることを他の教員に尋ねると、ちょうど校長室から出てくるところで目が合い、僕は軽く会釈した。
「ようクラス委員。やっとクラスメイトの見舞いに行く気になったか?」
校長室から出て来た時の無表情から一転、担任は僕を見てからかうように笑っている。
「ええと、まあ、そんなところです」
「市立病院にいるよ」
「え、あ、はい」
「内科病棟の二階。病室は変わっているかもしれないから病棟の看護師にでも聞いてみろ」
「…………」
「何だ」
「僕なんかが行っても大丈夫なんでしょうか」
「バカ。たとえクラスの奴には言うなって口止めされてたとしてもお前くらい強引に行かなくてどうする」
「口止め、されてたんですか?」
担任が苦い顔で笑う。
「そうだとしても。お前は行きたいだろ?」
「…………はい」
「じゃあ行けよ“委員長”。行ってそののんびりした顔でも見せてやれよ」
「“のんびり”って失礼な」
「まあまあ」
そうか、僕はクラス委員なんだし堂々と行けばいいんだ。大義名分なんてそれで充分だ。
「ありがとうございます。今から行ってきます!」
僕ははやる気持ちを抑えて学校を飛び出した。
見舞いには何がいいだろう。そうだ、僕なら寝込んでいる時はゼリーが嬉しかったから途中で買っていこう。
横になっていても食べられるように、それから気を使わせないように、ごく普通の“飲むゼリー”みたいなやつなんかどうかな。
かといって、気の利いた店などよくわからなくて結局病院の中の売店で物色すると、可愛らしいパッケージの飲むタイプのゼリーが冷蔵ケースに並んでいる。どれが好みか分からないから、桃、白ぶどう、オレンジなどをとりあえず一つずつ手に取り、あとは一口サイズのクッキーの入った小袋をレジ横で見つけたのでふたつ追加して、それらの会計を済ませた。
さあ、なるべく明るい調子で顔を出してみよう。大丈夫、硬い顔はせず、いつもののんびり顔でいってみよう。
内科病棟の二階、ナースステーションで三枝の部屋を聞くと、気のせいか生温い目で見られたような気がした。まあそれはともかく、つまりはそんなに深刻な病状でもないということかもしれない。
コンコンとノックをすると、中から「はあい」と彼女の声が聞こえる。引き戸になっているドアを開けけると、ベッドの背もたれを起こし、四人部屋の窓際にぽつんと一人でベッドに座っている姿が見えた。
「あれっ、有藤?ビックリした~。てっきり母親かと思ったよ」
「突然ごめん。金子先生から“入院した”って聞いて……」
「あー、バレちゃったかぁ。ま、有藤なら口が固いからいっか」
「おお、絵、描いてたんだ」
「あっ、見ちゃダメだよ!これは有藤にも内緒ー」
慌ててサイドテーブルの引き出しにスケッチブックをしまっている。あれは三枝が部室で水彩画の練習に使っていたやつだ。
「別に勝手に見たりしないから大丈夫なのに……。ああ、そうだこれ、お見舞い。何がいいかわからなくて飲むゼリーとか……」
「わ、嬉しい。ベッドでも飲みやすくていいよね。これ大好き」
「良かった。こういうのなら逆に気を使わせたりしなくていいかなって思って」
「もう。有藤優しすぎるよー」
「これくらい普通だろ」
“優しく”なんかない。少しでも好感度を上げようって割と本気で考えてるんだ。
「………元気そうだな」
「え?うん。ちょっとね、大げさだと思ったんだけど、両親がうるさくて」
僕がポツリと呟いた言葉を拾って、彼女は明るく笑っている。
「ーーーなんてね。本当はね、私、今回の入院で骨髄移植することになったんだ。…………えへ、結構重症だったみたい」
「そう、なんだ…………」
こんな時、気の利いた言葉のひとつも出てこない自分が歯がゆい。けれど的外れな慰めは、きっと彼女を傷つけてしまうから。
「大学生の姉と、型が合ったの。だから…………」
「ーーーうん」
頷いて見せるのが精一杯で。
僕は、ゆっくりと噛みしめるように話す彼女の声を遮らないよう、相槌だけで聞いていた。
「移植の前にね、ちょっと色々治療があってね。それが今一番怖い、かな」
「うん」
「暇だから、自分で調べちゃうのね。上手くいかなかった同じ病気の人の例とか」
上手くいかないことなんてあるのか。
悔しいけれど、僕はこんな風に彼女の病気について調べたことがない。そんな自分はなんて無力で鈍感なんだろう。
「みんな、“上手くいくよ”って言うの。小さい子とは違って抵抗力もあるし、もう少し頑張れるよねって。でもね、私も“大丈夫”なんて言ってみせたって、ーーーーやっぱり、怖いものは怖いの…………っ」
「三枝……!」
そんな風に周りに気を使わなくていい。もっと、もっと我儘言っていいんだ。
そう口に出せないまま、僕は彼女の頭を抱き寄せた。
「三枝の席は僕が守るから、必ず帰ってきて。席替えがあっても、僕の隣は空けておくから」
こんな時にまで学校の事しか持ち出せないとか本当に自分が情けない。もっと気の利いたこと、言えないのか。
だけどいいんだ。ここぞとばかりにクラス委員の特権を行使してやるんだ。
「あは。有藤の声って、なんか落ち着くなぁ。……うん、頑張って学校に行けるようになってみせるよ。ありがとう」
無意識に抱き寄せた頭から、僕が腕を外すタイミングを完全に失っていたところへ、ドアをノックする音が聞こえて慌てて離れた。ドアを開けて入ってきたのは、三枝に面影がよく似ている女性。
「あれっ、お客さまだった?」
「うん、えっと、クラスメイトの……」
「お邪魔してます。クラス委員の有藤です」
「あらご丁寧に。結菜の姉です、よろしくね」
どちらかというと可愛い系の美人だった。三枝もメイクをしたらこんな感じになるのかな。
「…………お邪魔しちゃった?」
「い、いえいえっ。もう失礼しますからっ」
家族に会ってしまうことを何故想定しなかったんだろう。自分の顔が熱くなるのが分かる。“クラス委員の”と強調したつもりがからかわれてしまうとは。
「じゃあ三枝、もう行くよ。…………待ってるから」
最後の方は声が小さくなってしまったから届いたかどうか分からないけど、三枝は、僕の目を見て確かに頷いたような気がするんだ。
信じて待とう。きっと、大丈夫。
そして彼女が登校できるようになったら、僕の気持ちを打ち明けよう。
もう、とうに知られているかもしれないけれど。
夏休みは美術部の活動日も無かったので予備校の夏期講習に明け暮れ、並行して学校の宿題をこなし、それなりに忙しく過ごした。赤点も取っていなかったから学校に登校することもなく、クラス委員だからといって、特に担任からの呼び出しもないまま新学期を迎えた。
新学期早々に、昇降口で相変わらず女子とつるんでいる秋月を見かけて気が滅入ったけれど、残暑というよりはまだまだ真夏のような暑さの階段を昇り、教室に向かう。
開けっ放しの入り口から自分の席と隣の空席をなんとなく目にした。
三枝は退院出来たんだろうか。心配で頭が一杯になる。
椅子に座り、落ち着かないままそわそわしていると、じきに担任がやってきて体育館に向かうよう指示が出された。
担任はすれ違いざまに僕と目が合った気がするけれど、その意味までは図ることはできなかった。
退屈な始業式が終わり、続いて各クラスでのホームルーム。担任が話し始め、クラスメイトはしんと静まり返ってその言葉に耳を傾ける。九月の行事予定を簡単に説明したあと、担任は口調を変えた。
「三枝の入院が長引いている。会いたいやつもいるかもしれないが、今はとりあえず家族以外は会えない状態だ。退院してもすぐには登校できないと伝えて欲しい、とご家族から聞いている」
担任はゆっくりと言葉を選びながら、皆ではなく僕の目を見て話していた。少なくとも僕はそう感じた。
「ていうか先生、俺たち三枝さんが入院してることすら知らなかったんですけど」
「そんなに悪いんですか?」
誰からとなく質問が飛ぶ。
「そうだな。彼女の意思で知らせなかったからな。でも、俺は入院自体は皆が知っていてもいいと思ったんだ。まあ、そのうち元気になって登校してくるはずだし、どうせならいい知らせが来るまでもう少し待ってやろう」
三枝について担任が話したのは、結局それだけだった。後は翌日の実力テストについての説明があり、そこでホームルームが終わった。
ほどなく解散となり、下校しようとしていた僕は担任に呼び止められた。
「有藤、ちょっといいか」
「はい」
三枝についての話だろうか。
担任の表情は読めないが明るい話でないことは分かった。
廊下に出て端によると、その重い口が開く。
「三枝なんだけどな。今、あまり良くない状態らしいんだ。けどクラスメイトの見舞いは本人が固く拒否しているって聞いてる。もちろんお前もだ」
「そう、ですか…………」
「随分辛い治療だそうだ。ご家族としても苦しんでいる娘さんのことは誰にも見せたくない、と………」
「わかりました。……あの、三枝は大丈夫ですよね?移植をして、治って帰ってくるんですよね?」
「お前、どこまで病状を聞いてんだよ」
「一応本人からなんとなく……」
「大丈夫だよ。家族も、俺も、お前だって信じてるだろ?気長に待ってやれよ」
「…………はい…………」
肩をポンと叩かれ、涙が出そうになった。
そうだ、信じるしかないんだ。
九月の半ば、僕は放課後に細々とした雑用に追われていた。文化祭を控えて実行委員と共に忙しく動き回っているので部活に顔を出す暇もない。美術部恒例の看板描きは免除され、クラスの仕事に専念していいと言われ、正直助かっていた。
そんなある日、あまりの疲労感にぐったりと一人、机に突っ伏していると次第に瞼が重くなってきた。幸い予備校の授業もない日だし、万が一眠ってしまっても、普段から眠りの浅い僕は、すぐに目を覚ます自信があった。
『有藤、有藤…………』
夢の中で三枝が僕を呼んでいる。
『ここだよ』と言いたいのに何故か声が出なくて気持ちが焦る。
彼女の声は次第に遠ざかり、僕の声は益々届かない。
三十分程うたた寝をしていただろうか。
目覚めた僕は、ゆっくりと身体を起こす。
視界がぼやけ、堪えきれない涙が一筋零れた。哀しい夢を見ていたような気がして、本当は人目も憚らず大きな声で無性に泣きたかった。けれど、小心者の僕は結局それすらも出来ないんだ。
翌日、いつもより早く目が覚めてしまい、仕方なく起きて支度をしている僕の元へ、担任が電話をかけてきた。
担任の声が、まるで水の中で聞いているように遠かった。
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