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春宵一刻
しおりを挟む私の乗ったバスが駅に着いたのは、定刻よりニ十分も遅れた、友人たちとイタリア料理店に集まる少し前の時刻であった。
世間は桜祭りらしく、会社を退けた人々と相俟って、駅前は混雑していた。機種の古い携帯電話を意地になって使い続けているから、あっと云う間に電池が減ってしまい、肝心な折りに用を成さない。遅刻する旨を早く友人に詫びねばならないのに、構内に設置された唯一台の公衆電話には、学生らしいグループが群がっていた。私は苛々しながら、小走りでレストランへ向かった。
アーケード街を通り過ぎ、信号を渡り、お濠端の遊歩道を駆ける。確かここらに電話ボックスがあったはずだ。暮れなずむ藍色の空に白っぽい花の霞が滲んだように拡がり、既に花弁がひらりひらりと舞いながら散っている。美しいことは美しいが、映画のセットみたいに整いすぎて、一寸馬鹿馬鹿しいくらいだった。
さて、やっと辿り着いた電話ボックスは、ガラスの壁が汚れて曇り、ぼんやり灯りの点ったようすが、いかにも怪しげであった。しかし、怯んでいる暇はない。私は中に入って大急ぎ、料理店の番号を探して、電話帳を捲りはじめた。不意に、若い娘の華やいだ笑い声が耳元を掠める。なんと面妖な。どうもガラス越しの声らしくないのである。ボックス内は私一人、受話器も上げていないのだから、声の聞こえる訳がないではないか。
辺りを見回してみると、先刻まで居なかったはずなのに、ぼやかったガラスの向こうに人影が見えた。お濠の柵に、大正時代風の和装をした小娘が二人、寄り添うように腰をかけ、何やら愉快そうにお喋りしている。してはいるのだが、よく見なくとも、彼女らの頭は三毛と黒斑の猫なのである。お祭りの仮装だろうかと凝視してみても、被り物どころか、猫そのものの表情で口を開け、鳴いているんだか、話だかしている。袖口から伸びた肉球のある前足も、下駄を履いた丸っこい後ろ足も、みっしりと毛が生えて、全く歌川国芳の錦絵から現れ出たようであった。
あんまり吃驚したものだから、暫く茫然と、直立した猫どもを眺めていた。あんなに大柄だから、うっかり怒らせたら、頸動脈くらいは簡単に掻き切ってしまうだろう。怯えつつ、好奇心を抑えきれなくなって、よく観察しようと、私は扉を開き、着飾った雌猫の方へ身を乗り出した。だが、可笑しなことに、外へ出ると、正に猫の子一匹居やしない。眼の錯覚か知らと扉を閉めたら、やっぱり柵に腰かけた二匹が、柔らかそうな身体をくねらせて、相手の耳を舐めたりしながら、いかにも楽しそうに談笑していた。
〈 了 〉
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