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第七章 無分別ざかり Vie de rêve
7.
しおりを挟む「田坂くんも来てるとは思わなかった」とキャスケットを逆かぶりにした、大柄な五十がらみの男性が、低い声で言った。「撮影、ひどく押してるんだって?」地味なシャツを着ていたが、何か超然としていて、ひとの眼を引きつける人物だった。
僕は彼を知っているかも知れない。
「ごぶさたしてます」と佳思くんは、輝かせた眸を見開き、立ち上がった。その男性に僕を紹介し、僕に彼を紹介した。画家であり、版画家、彫刻家でもある芸術家だった(やっぱり!)。
彼は気さくに手を差し出し(大きくて、あたたかく、皮膚の厚い、働く手!)、僕が、友人に連れられて行った展覧会で、巨大な彫刻作品に圧倒されたことを伝えると(緊張のあまり、語順を乱しつつ)、彼はひどく嬉しがり、僕が映画の撮影を手伝っているのか訊ね、まだ高校生のころ、大祖父の邸で短い映画を撮影した話をしてくれた。
オードブルが運ばれて来たのを潮時に彼は席を離れかけ、佳思くんが「メイシー・グレイ、いましたか?」と訊ねると、一瞬不思議そうな表情をしたが、すぐに優しく微笑んで、「見かけたら、すぐに教えてあげるよ」と言いながら去って行った。
「あのひとの娘さんに、ラバーソールの下駄をもらったんだ」と言って、佳思くんは着席した。
かの芸術家の二人の娘たちも、絵画や彫刻や映像作品を制作し、絵本を出版していた、各々で、あるいは協力して。
「それとね」と彼はささやくように言い足した。「ソウルやジャズやR&Bのシンガー、メイシー・グレイがお忍びで観に来るって噂されててね」
カリフラワーのムースの(雲丹と同じほどの)濃厚さを、驚きつつ堪能している間も、おそらく夕食を他所で済ませて来たお客たちが到着し、空席だった卓子も埋まってゆく。
つまり、その中には田坂佳思の友人や知人も含まれており(メイシー・グレイはどうだろう?)、次々と挨拶やお喋りをしに僕らのボックス席を訪問した。
真新しいスーツを着せられ、見ず知らずの人物たち(写真家、俳優や歌手の卵、構成作家、飲食店の経営者etc.etc.)に紹介されながら、忙しなくセロリラヴのスープを、甘鯛のポワレを口に運び、気の利いた言葉も思いつかないものだから、「この、こっくりしたスープ!」とか、「鱗がこんなにもパリパリしていて」とか、「魚のお出汁の旨味が最高です」とか、反射的に応対した、愛想笑いと混乱の馬鹿笑いの区別もつかなくなっていた。
実際、僕は浮かれていたのだ、ジャズ・クラブの夜の雰囲気、当たり前のように紹介される業界のひとたち、内輪話、何が起こっているのか、自分の役割が何か、把握しきれなくて。
公演が始まるのと、デセールが運ばれるのとは、ほとんど同時だった。客電が落ちかけるなり、佳思くんは上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。それから僕の方を向いて、喉をのけ反らせるように示し、「カラーピン外して」と甘えた。
「カクテルか、ビールか、何かアルコールを頼む?」と言いながら、僕は襟に通したピンを外した。「失くさないようにね」と、ピンを渡そうとしたら、彼は「持ってて」と手のひらで僕の手を包むようにして押し戻し、「今夜はお酒は飲まないから」と宣言した。
舞台中央に据えられたマイクの前に、二人の男性が並んでギターを爪弾き始めた、アイリッシュっぽい哀愁を帯びた旋律だった。その間を割って、ウエスタンハットをかぶった、きゃしゃで小柄なミドルティーンほどの女の子が現れた。
アメリカの連続テレビドラマの『フルハウス』で次女のステファニーを演じたジョディ・スウィーティンに似た、あごのとがった、生意気そうな顔つきをしている。
コバルトブルーのウエスタンシャツをはおり、ほとんど黒に見える濃い藍色のデニムのワンピースはシャツよりも丈が短くて、ウエスタンブーツもシャツと同じく目に染みるほど鮮やかなコバルトブルーだ。
従えたバンドのメンバーは、彼女の父親くらいの年齢に見えた。ギターやウッドベース、フィドルなど、アコースティックな編成だった。
冷静に観察出来たのは、歌い出すまでで、彼女の声が耳に届いた瞬間、心を奪われ引き込まれた。周囲のかすかなノイズさえ鳴り止んだ、魔法にかけられたみたいに。深く、まろやかな響きをともなった、少しかすれた穏やかな歌声、かつて聴いたことのない、誰にも似ていない、この場が、その声が描く宇宙に侵蝕されてゆく。
佳思くんも、同じ衝撃を受けたのだと思う。彼は僕の肩を抱きよせ、こめかみに口づけし、前を向いたまま、「葉くんと一緒で良かった」と吐息だけでささやいた。僕は無言で頷き、整髪料で彼のシャツを汚さないよう頸をかしげ、彼の腰に腕をまわした。眼をつむると、軽い眩暈がした。
人生の中で、時間よ止まれ、と願うことは数えきれないほどある、叶えられないと知っていながら、何故、繰り返し(愚かにも)希求せずにいられないのか……。
日本のお客へのサービスなのか、有名な楽曲も演奏された、ロイ・オービソンの『オンリー・ザ・ロンリー』とか、デヴィッド・ボウイの『ファイヴ・イヤーズ』とか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『スウィート・ジェーン』、あと、エルヴィス・プレスリーの『好きにならずにいられない』だとか。
曲が終わるたび、腰に回した腕を背凭れの間から抜いて拍手をするのが面倒になり、彼の膝に手を置くようにした。彼は拍手のかわりに歓声を送り、指笛を吹き、足を踏み鳴らした。
ステファニー(それが彼女の名前ではないけれど)が軽快にフィドルを弾き始めると、佳思くんは僕の腕をつかんで立ち上がり、踊りだした。ステフも弓で客席を煽り、つられて何組も立ち上がるのを、僕は眼の端で認めた。
彼はとても陽気で、ご機嫌だった。音楽がからだの中で弾むままに飛び跳ね、アリーナ席の友達と手を振り合い、近くで踊っていた若いアヴェックと調子を合わせ、流行りの振付でおどけたり(残念ながら、彼はずっと僕の肩を拘束していたから、その様子を離れて眺めることは出来なかったし、彼のせいで狭くなった視界は揺れっぱなしだった)、卓子にデセールのお皿がなければ、その上で躍っていただろう、しかも裸足で(彼が靴も、あんなに長い靴下も、いつの間に脱いでいたのか、気がつかなかった、まったくもう、油断も隙もない。Vraiment! マジで!!)。
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