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第六章 袋小路 L’amour est avenge
12.
しおりを挟むあまりの息苦しさに、アラームが鳴るより先に眼が醒めた。三時二十分前だ。蒸し暑く、扇風機から流れるのはむしろ熱風だった。ぼんやりとした気分の悪さが、心を重くしていた。頭もはっきりしない。
午前のうちは風もあり、日陰なら、さほど暑くはなかったはずだけれど。ガーデン・パーティの撮影は、無事に終わっただろうか。
浴室で汗を流した。浴槽に水を張って身体を沈める。ここに来てから、水浴びしてばかりだ。エアコンは設置されていないし、屋根裏で暑いし。
佳思くんの部屋は、エアコンどころか窓もなくて、Dysonの羽のない扇風機を置いていたっけ? 向こうは造りが大理石だから、ここより涼しい気はする。
喉を仰け反らせ、ため息をついた。俯いて、こめかみに指先を押し当て、くすぶる嫌な気分を腑分けしてみる、つまり、僕の振る舞いについて、ユキちゃんは、思い出しては舌打ちをしているだろうか、ニコラは、あきれて軽蔑していないだろうか、とか。桃音ちゃんや花のママは、僕が押しかけて、実際には困っているんじゃないだろうか、とかも。
花は、僕に憤っていて、きっと嫌味を言うだろうし、何か意地悪を仕掛けて来そうな予感がする。
人間関係を拗らせ、居心地を悪くするつもりなんかなかった。ここで映画の撮影が行われていて、しかも見学させてもらえると花が連絡をくれた時、その幸運が信じられなかった。期待だけ抱いてやって来たのに。
自分では、大人や周囲のひとに迷惑をかけず、強く主張もしない、聞き分けのいい人間として生きて来たつもりだったけど——何故なら、そうした方が、ひとと拘らなくてすむから——、自分を買いかぶっていた、ぜんぜん我儘だ。
夢もまた、知識のない者が自己分析をするのは、間違った解釈しか出来ないから、有害無益なんだけろうけど、風の種ばかり撒いている自覚が、僕にはあるらしい。
身体を拭き、裸にタオルをかぶったまま部屋に戻ると、時刻はすでに四時を回っていた。約束の時間まで、あと、まだ二時間近くはある。それなのに、もう気が急いて、じっとしていられなかった。何を着て行くのかも、決まっていないし。
焦燥が、お腹の辺りではためいた。
どんな場所に連れて行かれるにせよ、服装の規定がなくても、あまりにカジュアルなのはためらわれる。子どもじゃないんだから。そうなると、COMME des GARÇONSの白いシャツに黒のテーパードパンツを合わせ、桃音ちゃんから借りっぱなしのモカシンを履くのが無難かも知れない。
朝から栗のジェラートくらいしか口にしていないので、少しくらいは食べておこうと思う、空腹ではなくとも。せっかくご馳走してもらっても、胃が受け付けないと困るから。
パントリーなら、ビスキュイか、何か焼き菓子があるはず、と、僕は急いでとりあえずTシャツとチノを身につけた。
台処を覗くと、よりによって会いたくない二人が、パントリーの前の卓子に腰かけて、ビー玉の音を響かせながらサイダーを飲んでいた。
そう、不思議なことに、顔を合わせたくないひとに限って、よく出会してしまうものなのだ。
僕は、花もユキちゃんも視界の隅に入れただけで、パントリーの棚に眼線を遣ったまま、「お疲れです」と小さく言った。
「ねえ、ねえ、葉くん」と、からかうような口調の花に呼びかけられた。くん付けなんて、厭な感じ。「これから、田坂っちとナイトクラビングなんでしょう? ドレスコードのないお店だよって、教えてあげた方が助かるかな、って話してたの。あ、ごめん、クラブに行くってとこ、聞かなかったことにしてね」
「お気遣いどうも」僕はやっぱり彼女たちを見ないで答えた。「ドレスコードの件は知ってるから、ご心配なく」
二人は笑いをこらえて、『知ってるんじゃんよ』『だって、それは、さすがに、ねぇ』などと、聞こえよがしにひそひそ話し出した。
田坂さんから内緒にされているので、僕は知らないはずだけれど、自分たちは知っている——もしかしたら、行き先について、彼女らが相談された可能性だって、全くないとは決めつけられない——と、自慢して、どうしても優位に立ちたいようだ。呆れる。
が、鳩サブレーの黄色い缶を見つけた僕は機嫌を直し、二十五枚入りの缶と和紅茶のペットボトルを抱え、女子たちへの挨拶は省略して部屋に戻った。
寝台に坐りもせず、落ち着かなげに部屋を歩き回りながら、サブレをかじった。
「到頭、出かけるんだな、彼と、二人きりで」と自分に言い聞かせるように、僕は声に出してつぶやいた。沈黙が続いて、気不味くならないよう、話題も用意しておかないと。「だけど、クラブなんて……彼の友達や知り合い、業界の関係者なんかが、集まっていませんように」
出かける準備を終えて、五時半になると、すっかり我慢出来なくなり、僕は廊下をうろつき、階段の手摺りから身を乗り出して二階の様子を窺ったり、浴室(タイル張りだから、屋根裏部屋よりちょっとは涼しい気がする)の鏡を睨んで髪を整えたり、表情を作ったり、姿勢を正したりして、時計から気を逸らせようと努めた。
そうやって、何度目か、前髪を櫛で梳かしていると、階段を駆け上がって来る足音が聞こえた。スマルトフォンの画面に視線を投げると、六時二分前だった。
浴室から飛び出し、「お疲れさま」を言おうとした途端、不意を突かれ、僕は立ちすくんだ。
息を切らしながら、そこに立っていたのは、田坂さんではなかった。
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