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第六章 袋小路 L’amour est avenge
11.
しおりを挟む網膜に焼きつけた彼の姿と、鼓膜を震わせた彼の声が、崩れて消失しないよう、気分を高揚させながらも、ゆっくり呼吸しながら、僕は眼を閉じ、先程の場面を心の中で反芻して幾度も味わった。
腕組みするふりをして、彼の触れた箇所に手を当てる。感触の保存と、彼と指をつなぐ代替として。
リハーサルの準備が整い、空気が張り詰める前に、僕はその場から退散した。セットの屏風の裏に隠れて撮影を見学したとか言う、花の神経を疑う。彼女と僕に、同じ血が流れているなんて。
彼女が羨ましくなくもないが、正直、そこまで無神経になりたくはない。
トワレットを使ったついでに鏡で自分の顔を見ると、寝不足のせいか眼の下に黒い隈ができて、嫌になるほど醜かった。こんな顔を彼に見られたとは、自分のだらしなさを思い知らされる。
花を非難してる場合じゃないや。
台所は、まだ避けたかったので、evianは二階の田坂さんの部屋に置いてある冷蔵庫のを貰いに行くことにした。
扉はやっぱり開けっぱなしだった。今度は衣装部のユキちゃんが、忙しないようすで探し物をしている。煩いな、と感じた拍子に、僕の眉間は自然と険しくなった。
僕に気がついた彼女は、安心したように笑った。
「なんだ、葉くんが着てたんだ。また失くしたのかと慌てた。それ、田坂の上着だよね? クリーニングに出しておくから」と、彼女はこちらに腕を伸ばした。
「……これ?」と僕は、彼女の言わんとする意味が分からないふりをして、首を傾げた。
僕が素早く反応しなかったので、彼女の顔色が微妙に変わった。従順でない態度が信じられないとばかりに——実際、彼女には有り得べからざる事態なので——、反射的に、ほんの一瞬だけ眼を剝いて、非難をこめた眼差しを僕に投げた。
返事すらすぐに出来ないうえに、二度までも指示を出さなければ理解出来ないウスノロだと、判断したに違いなかった。
衣装部の——なのか、プライベートだか判然としないが——仕事を邪魔しているのだから、彼女に僕を責める権利はある。だけど、僕にしたって、無条件に彼女の言いなりになるつもりはなかった。
「早く脱いで」とユキちゃんは幼い子どもに言い聞かせるように言った。「他のお洋服とまとめて、クリーニング屋さんに持って行かなくちゃ」
「それなら大丈夫。汗をつけてしまって、申し訳ないから、僕が出しておきます」と、僕はあくまで、空気の読めない無神経さを装って言った。
「そんな、申し訳ないよ、お気遣いなく」と、彼女は僕に近寄って、上着を脱がそうとした。
「これ、衣装でしたっけ?」と僕は、わざとらしく驚いて訊ねた。
何か言いかけたが、今度は彼女が口をつぐんだ。あっさり私物だと認めるのが、よほど悔しかったらしい。
「実は私物だけど」と、彼女はすぐに自信を持ちなおし、愛想良く言った。「経費で落としてるのは内緒にしてね」
「いつもお疲れさまです」と僕もにっこりして目礼した。
僕はもう、田坂さんの上着については触れず、冷蔵庫を開けてペットボトルを取り、部屋を後にした。
ユキちゃんを相手に、ささやかな抵抗を試みたところで、憂さ晴らしの真似事にもならなかった。何故なら、これからもビジネスで係り続ける彼女に敵いはしないからだ。だからこそ、従順になりたくなかったのだが。
屋根裏部屋に戻り、evianを飲んでから、スマルトフォンのアラームを三時に設定し、仰向けで寝床に横たわった。船上か、桟橋にでもいるみたいに、わずかに揺籃している気がした。彼の上着は着たままで、彼の(なるべく大判で重みのある)本を抱えて。
まぶたを伏せる。脣をわずかに開いて、感じやすい薄い皮膚(粘膜移行部)の上に、彼の脣の感触をうっとりと蘇らせる。そして、呪文のように、おまじないのように唱えた、上下の脣を微かに触れ合わせながら。
キスしたい、彼とキスしたい、彼にキスされたい、うんざりするほど、飽きるほど、キスしたい、彼を嫌いになってしまうまで、執拗に、キスして、田坂佳思、キスしに来て、佳思くんキスして。
熱く、優しく、大好きな、彼のあの脣……。
——Embrasse-moi(アンブラッス モア)……
うつらうつらするうちに、ごく短い夢を見た。
田坂さんと、ごく近い距離で向かい合っている。でも、彼の顔は陰になっていて、表情は分からない。それどころか、灰色の濃い霧がわだかまり、相貌の凹凸がないみたいでもある。
彼が低い声で宣告する。
『風を撒き、嵐を刈り取れ *』
* フランスの諺で、正しくは『風を蒔く者は嵐を収穫する』。
Qui sème le vent récolte la tempête.
意味は、身から出た錆、自業自得。
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