68 / 82
第六章 袋小路 L’amour est avenge
10.
しおりを挟むスマルトフォンの着信音で我に返った。
LINEにメッセージが届いている。単館系の映画館で知り合った、同い年の友達だ。フレンチ・ノワール映画祭が始まるので、早く戻って来い、と命令口調で記されていた。
僕の嗜好に敵うのを見越して、ジャン=ピエール・メルヴィル(コクトー原作の『恐るべき子供たち』の監督)の『賭博師ボブ』(カメラが『恐るべき子供たち』や『大人は判ってくれない』などのアンリ・ドカエ)と『仁義』は絶対観るべき、とも。
ジャン・ドラノアの『寄宿舎 悲しみの天使』を上映していた日だった。その映画館にやって来るのは、大概年配客なのに、珍しく若い男の子がロビーに坐っていた。FRED PRRYの臙脂のポロシャツにチノを合わせたシンプルな着こなしがとても垢抜けていて、しつこく眺めていたつもりはなかったけれど、視線に気付かれてしまったようで、彼が不意に顔を上げたのだった。
眼が合った瞬間、僕が考えたのは、なるべく不自然でなく眼を逸らせる方法だった。
「俺は、フレンチ・ノワールが好きなんだよね」と、彼は出し抜けに言った。
ドラノアは、ジャン・ギャバン主演のフィルム・ノワール作品でも有名な監督である。が、『寄宿舎』は、少年たち——上級生と年の離れた下級生——の、特別な友情を主題に描いているので、僕を牽制する意味があるのだろうと推察した。
けれども彼は、警戒するどころか頓着せず僕に話しかけて来て、上映後は近くの古いケーキ屋さん(二階が喫茶部だった)へ歩いて移動し、映画について遅くまで語り合った。大気の緩い、春の宵だった。
それから、面白い作品がかかっていると、連絡を取り、一緒に映画を観に行くようになったのだった。
彼を思い出したせいで、僕は、田坂さんとは、ほとんど映画の話をしたことがないのに気がついた。彼の出演作について、彼が今まで影響を受けた作品や監督、俳優について。僕だって、映画は嫌いじゃないから、詳しくないなりにお喋りくらいは出来るはずなのだが。
もちろん、それを生業にしているひととは、気安く話題にするのは憚られるんだけれども。しかし、抑制しているつもりはなくて、実のところ、僕の関心は、すぐ眼の前にいる彼の実体に向いており、彼のキャリア(の全部が全部)に対しては、同じほどの熱量を持てないのである、田坂さんには内緒だけれど。
映画館で知り合った男の子は、身長はそんなに高くないけど、アパレルのお店で働いてて、人あしらいが上手で、女の子にもモテるほうだ。彼から連絡をもらうと、得意にならなくもないくらいなのだ、いつもなら。それなのに今は、短く返信するのさえ億劫だった。
現在の僕は、薄情にも、田坂さん以外の人物には、まるきり興味を失っている。
しかし、その興味とは、僕にとってどれほどのものなのだろう。これまでの彼の活動さえ、熱心に追いかける気もないなんて。僕に関心があるのは、ただ彼の傍にいること、彼に触れられたり、触れたりすることだけ。
彼にレポートの作成を頼まれた書籍すら、まともに読んでやしない(本人の依頼にもかかわらず!)。シェイクスピア、彼の地球劇場、マクベス、スコットランドの自然、歴史、王族の系譜et cetera……僕の手に余る、と放り出したなり。彼が愛してやまない事柄を、彼をより理解するためにも、知りたいと思ってしかるべきなのに。
つまり、彼に惹かれるのは、キャリアと容姿の美しさが、友達たちに自慢出来るからに過ぎず、その証拠が彼の内面への関心の薄さなのだ。自分の浮薄さが嫌になる!
彼がいないと、自分を平静に保てないほど、好きなんじゃないのか、僕は。
彼に会いたい。兎に角、せめてその姿を一眼見なければ収まりがつかない。
今朝のパントリーで、彼が、僕を抱きしめながら、『今日一日分の、困難に打ち勝てる勇気をチャージしているから』と言った言葉を思い出す。充電が必要なのは、僕の方だ。
部屋を飛び出して西の小階段を駆け下り、裏口から、設営するスタッフでごった返す、花盛りの東屋の周辺に視線を巡らせた。まだひどく眩い残暑の日射しに眉をしかめ、眼を細くして。
藤棚の下の卓子には大倉陶園の『ブルーローズ』の紅茶セットが並び、まだ演者もいないのに、この暑さの中、すでに生クリームや果物を使ったケーキとかタルトとかムースなどを盛り付けているが、もしかしたら、食品模型なのかも知れない。
キャメラに映らない脇から大きな扇風機を回すと、長く垂れた白い藤の花が柔らかくなびいた。
大勢が行き来するのに、田坂さんは見当たらなかった。諦めきれぬまま、しばらく立ち尽くしていると、僕の視線の反対方向、裏庭の東側から男のひとたちの話し声が聞こえてきた。僕の耳が懐かしがる、穏やかで繊細な声も混じっていた。
田坂さんは、茶色のシャツがシックでよく似合っていて、一三〇センチはありそうな特大の黒い筒型の図面ケースを二つまでも肩にかけ、相手の男性が喋っていてもお構いなしに、かぶせて話し出した。その、ただ歩いているだけの動作さえ、何とも言われないほど洒脱で見惚れてしまった。
僕は感動しつつ彼を凝視めた、反射的に取りすがりそうになりながら。迷いも、ためらいも、後悔も消え去っていた。
だが、彼は僕を見ることもなく足速に行き過ぎようとし、すれ違いざまこちらを向いて、僕の前腕に数瞬、指先を置くと、さりげない口調で小さく言った。
「出かける前に寄るところがあるから。ドレスコードは気にしないで大丈夫」
「了解です」と僕は、人目に配慮して、いささか他人行儀な口調でささやくように言った。
彼は再び連れの男との会話をつづけ、すぐに去って行った。
彼の触れた腕から熱い血液が循環し始め、僕はやっと、楽に呼吸が出来るようになった気がした。
20
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる