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第六章 袋小路 L’amour est avenge

10.

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 スマルトフォンの着信音で我に返った。
 LINEにメッセージが届いている。単館系の映画館で知り合った、同い年の友達だ。フレンチ・ノワール映画祭が始まるので、早く戻って来い、と命令口調で記されていた。
 僕の嗜好に敵うのを見越して、ジャン=ピエール・メルヴィル(コクトー原作の『恐るべき子供たち』の監督)の『賭博師ボブ』(カメラが『恐るべき子供たち』や『大人は判ってくれない』などのアンリ・ドカエ)と『仁義』は絶対観るべき、とも。

 ジャン・ドラノアの『寄宿舎 悲しみの天使』を上映していた日だった。その映画館にやって来るのは、大概年配客なのに、珍しく若い男の子がロビーホワイエに坐っていた。FRED PRRYの臙脂のポロシャツにチノを合わせたシンプルサーンプルな着こなしがとても垢抜けていて、しつこく眺めていたつもりはなかったけれど、視線に気付かれてしまったようで、彼が不意に顔を上げたのだった。
 眼が合った瞬間、僕が考えたのは、なるべく不自然でなく眼を逸らせる方法だった。

「俺は、フレンチ・ノワールが好きなんだよね」と、彼は出し抜けに言った。

 ドラノアは、ジャン・ギャバン主演のフィルム・ノワール作品でも有名な監督である。が、『寄宿舎』は、少年たち——上級生と年の離れた下級生——の、特別な友情を主題に描いているので、僕を牽制する意味があるのだろうと推察した。
 けれども彼は、警戒するどころか頓着せず僕に話しかけて来て、上映後は近くの古いケーキ屋さん(二階が喫茶部だった)へ歩いて移動し、映画について遅くまで語り合った。大気のぬるい、春の宵だった。
 それから、面白い作品がかかっていると、連絡を取り、一緒に映画を観に行くようになったのだった。
 
 彼を思い出したせいで、僕は、田坂さんとは、ほとんど映画の話をしたことがないのに気がついた。彼の出演作について、彼が今まで影響を受けた作品や監督、俳優について。僕だって、映画は嫌いじゃないから、詳しくないなりにお喋りくらいは出来るはずなのだが。
 もちろん、それを生業にしているひととは、気安く話題にするのは憚られるんだけれども。しかし、抑制しているつもりはなくて、実のところ、僕の関心は、すぐ眼の前にいる彼の実体に向いており、彼のキャリア(の全部が全部)に対しては、同じほどの熱量を持てないのである、田坂さんには内緒だけれど。

 映画館で知り合った男の子は、身長はそんなに高くないけど、アパレルヴェトモンのお店で働いてて、人あしらいが上手で、女の子にもモテるほうだ。彼から連絡をもらうと、得意にならなくもないくらいなのだ、いつもなら。それなのに今は、短く返信するのさえ億劫だった。
 現在の僕は、薄情にも、田坂さん以外の人物には、まるきり興味を失っている。

 しかし、その興味とは、僕にとってどれほどのものなのだろう。これまでの彼の活動さえ、熱心に追いかける気もないなんて。僕に関心があるのは、ただ彼の傍にいること、彼に触れられたり、触れたりすることだけ。
 彼にレポートの作成を頼まれた書籍すら、まともに読んでやしない(本人の依頼にもかかわらず!)。シェイクスピア、彼の地球劇場、マクベス、スコットランドの自然、歴史、王族の系譜et cetera……僕の手に余る、と放り出したなり。彼が愛してやまない事柄を、彼をより理解するためにも、知りたいと思ってしかるべきなのに。

つまり、彼に惹かれるのは、キャリアと容姿の美しさが、友達たちに自慢出来るからに過ぎず、その証拠が彼の内面への関心の薄さなのだ。自分の浮薄ふはくさが嫌になる!
 彼がいないと、自分を平静に保てないほど、好きなんじゃないのか、僕は。

 彼に会いたい。兎に角、せめてその姿を一眼見なければ収まりがつかない。
 今朝のパントリーで、彼が、僕を抱きしめながら、『今日一日分の、困難に打ち勝てる勇気をチャージしているから』と言った言葉を思い出す。充電ルシャルジェが必要なのは、僕の方だ。

 部屋を飛び出して西の小階段を駆け下り、裏口から、設営するスタッフペルソネルでごった返す、花盛りの東屋ガゼボの周辺に視線を巡らせた。まだひどく眩い残暑の日射しに眉をしかめ、眼を細くして。

 藤棚の下の卓子ターブルには大倉陶園の『ブルーローズ』の紅茶セットセルヴィ・サ・テが並び、まだ演者もいないのに、この暑さの中、すでに生クリームクレーム・フゥエテや果物を使ったケーキガトーとかタルトとかムースなどを盛り付けているが、もしかしたら、食品模型なのかも知れない。
 キャメラに映らない脇から大きな扇風機ヴァンティラトゥールを回すと、長く垂れた白い藤の花が柔らかくなびいた。

 大勢が行き来するのに、田坂さんは見当たらなかった。諦めきれぬまま、しばらく立ち尽くしていると、僕の視線の反対方向、裏庭の東側から男のひとたちの話し声が聞こえてきた。僕の耳が懐かしがる、穏やかで繊細な声も混じっていた。
 田坂さんは、茶色マロンのシャツがシックでよく似合っていて、一三〇センチはありそうな特大の黒い筒型の図面ケースケスを二つまでも肩にかけ、相手の男性が喋っていてもお構いなしに、かぶせて話し出した。その、ただ歩いているだけの動作さえ、何とも言われないほど洒脱で見惚れてしまった。

 僕は感動しつつ彼を凝視みつめた、反射的に取りすがりそうになりながら。迷いも、ためらいも、後悔も消え去っていた。

 だが、彼は僕を見ることもなく足速に行き過ぎようとし、すれ違いざまこちらを向いて、僕の前腕に数瞬、指先を置くと、さりげない口調で小さく言った。

「出かける前に寄るところがあるから。ドレスコードは気にしないで大丈夫」

「了解です」と僕は、人目に配慮して、いささか他人行儀な口調でささやくように言った。

 彼は再び連れの男との会話をつづけ、すぐに去って行った。

 彼の触れた腕から熱い血液が循環し始め、僕はやっと、楽に呼吸が出来るようになった気がした。


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