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第六章 袋小路 L’amour est avenge

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 僕は彼にこう言いたかった。「キスしてほしい」と。しかし、言えなかった。慎みよりか、羞恥、今にもニコラや花、あるいは他の誰かに覗かれそうで。
 それで、ただ、脣の端に、彼のシャツの感触を覚えさせるにとどめた。僕は、彼の皮膚を全身で包みこむシャツにすら、嫉妬を覚えずにいられなかった。あの、無惨に終わったバルコニーでのピクニックの別れ際、彼に渡したデセール——比喩メタファではなくそのままの意味で、彼に持ち帰られて食べられた——も、すでに嫉妬の対象となっていたのだが。

「そろそろ戻らないと……」と僕は名残惜しく思いながら言った。

「あと少しだけ、このままで」と彼はすぐに言った。「今日一日分の、困難に打ち勝てる勇気をチャージしてるから」

 彼の気弱な言葉はとても意外であり、頼られて嬉しい気持と、直接には彼の力になれない悲しい気持とを起こさせた。

「今度」と彼はささやいた。「無制限にベッドで怠けられるとき、ずっと抱きしめていてくれる?」

「うん、約束する」

 次の休日まで、ここに滞在できるのだろうか。そうして、例えば、僕の屋根裏部屋で、誰にも何にも邪魔されずに、二人きりで、ずっと微睡まどろみつづけられると言うのか。そんなときが来るのだろうか、夢ではなく、現実に?
 いっそのこと、彼の方から誓ってもらいたいくらいだった。

 僕たちが卓子ターブルに戻るなり、花が言った。

「もっとゆっくりしてて良いのに」

「僕らに隠れて悪巧み?」と僕は、花を斜めに睨みながら言った。彼女が持っていたお弁当箱は、ニコラの前に置かれていた。

「自惚れないでよ、あなた方は関係ない」花は軽くあしらうように答えた。「女子だけで、恋バナしてたの」

 田坂さんは慌てて、心配そうにニコラの肩に手を置いた。

「ボーイフレンドがいるの? 僕に紹介してくれてないよね?」

「パパだけで充分うっとうしいのに」とニコラは、あからさまにうんざりして言った。「そんな風にからむから、まだどっか行ってて欲しかったの」

佳思けいしくん、ふられちゃったね」と桃音ちゃんが、トレイプラトーを持って近づいて来た。「さつま芋のポタージュだよ。玉ねぎも、お水も使ってないから、お芋の美味しさを味わって食べてね」

「どうもありがとう」田坂さんは桃音ちゃんににこやかに言ったが、スープには興味がなさそうだった。

「召し上がれ」と桃音ちゃんは言い、喉元を示す仕草をしながら、「ようくん、きれいなシャツを汚さないように、ナプキンをかけてあげて」

 壁際の食器棚ビュフェの引き出しから、ナプキンセルヴィエットを取る。

「ごめんね、子ども扱いして。私物のシャツにしても、染みになるといけないから」と、僕は田坂さんのシャツの襟元にナプキンの角をはさみ込んだ。

「これじゃあ、ホームズよりか、ポワロみたいだ」と彼が面白そうに言った。

「ポワロみたいに食通グルメになったら、楽しみも増えるよ」と僕は彼に言い、「甘くて、すごくいい匂いなんだけど、もしかして、焼き芋にしてからスープを作った?」と桃音ちゃんに訊ねた。

「そう、大当たり」と桃音ちゃんは嬉しそうに、「最高に美味しいお芋を見つけたの。葉くんも食べる?」

「食べる食べる!」

 僕たちが興奮している傍で、田坂さんはほとんど反応なしにスプーンキュイエールを使っていた。その様子を見て、花がニコラに言った。

「もう幾らか食事に興味を持つよう、教育してやってよ、ほんとに甲斐がない」

「無理」とニコラは答えた。「まるで上の空。全く響かない」

「駄目ねえ」と花が顔をしかめる。「ひとの意見も聴かなくちゃ、何時いつ何時いつも自分勝手じゃあ、支障をきたすでしょう? ランチミーティングとか、接待とか、困るでしょうに」

「花だって、叱られているとき、ちっとも響いてないけど」と僕は不満げに言ったが、やはり彼女には伝わらなかった、全く。

「夕べは、スペイン料理だったって?」と花が含み笑いで言った。「あたしは、フレンチ。幹也くんのレストランで。誰と一緒だったと思う?」


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