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第五章 スイミング・プール・サイド Swimming Pool
3.
しおりを挟むひどい夢を見たのにもかかわらず、目覚めはとてもすっきりしていた。だが、しばらくすると、胃が痛むことに気がついた。昨夜は胃がもたれるほども食べられてはいないので、田坂さんに嫌われたかもしれないことが、自分で思っている以上に気にかかっているようだ。
起き上がって、鏡台の鏡を覗き込む。泣き過ぎで浮腫んだ、醜い顔が写る。誰にも会わず、このまま消えてしまいたい。田坂さんには嫌われたし、こんなに見っともない姿をして、生ている甲斐がない。
夜の闇に包まれていたなら、あんなに前向きになれるのに、明るい太陽に晒されると、現実の容赦なさから逃げ出してしまいたくなる。だけど、嫌いになられるなら、いっそ、もっとうんざりさせて、彼の記憶に刻み込ませてやろう。
愛されないなら、憎まれるほうがまだまし、だ。
浴室へ行き、浴槽にお湯をためる。ぬるめのお湯につかると、欝屈までも洗い流され、心が晴れやかになった。午前の透明な光にゆらめく湯気。石鹸の匂い。終わらない夏休み。
さっきまで、生きていたくなかったのに。
眼を閉じ、お湯の浮力に身をまかせながら、今日の時間割を考えた。
まずは、二階のリネン室にまとめてもらった空瓶をゴミ置き場へ持って行き、絨毯とクッションはクリーニング店に出すかどうか、花のママと相談しよう。
そのまま、台所を手伝っていたら、田坂さんがブランチか昼食を摂りに来るだろう、お弁当を運ぶ機会だってあるだろうし。
誠実な印象を持たれるには、保守的な紺色の衣服が有効らしい。それで僕は、紺色で半袖の、綿の丸首カーディガン——着丈の短い、身体にぴったりしたデザイン——を選んだ。衿元の釦は二つ、裾は一つ外す。ボトムスはタータン柄のあまり目立たないベイジュ。ベイジュもまた、保守性と安心感をもたらす色だ。
田坂さんにも効果があればいいけれど。
空瓶を捨てて台所へ向かうと、桃音ちゃんと花が、大騒ぎをしながら小麦粉をこねていた。
「ちょっとちょっと」と花が、僕を呼び寄せるように粉まみれの手を振った。「お使いを頼まれてちょうだい。何種類か、ソーセージを買って来てよ」
「チーズナンが食べたいって、リクエストされてね」と桃音ちゃんが言った。「だったら、ナンドッグにしたら、食事でも、おやつでも、どっちもいけるでしょう?」
「それでさ」と、また花が。「試作品を作ってるから、焼き上がらないうちに、さっさと買って来い」
花の命令口調にむっとして、
「お菓子泥棒の花に言われたから行くんじゃないからね、ナンドッグが食べたいからだからね」と僕はきつい調子で言った。
撮影や資材の運搬の邪魔にならない経路を探し、裏口から邸を出る。裏門は施錠されているから、警備員を探して開けてもらうか、正面を通るかしなければならない。
庭では撮影も、準備もされていないのを確認する。僕はなるべく建物から離れた大回りで門へ急いだ。視界の端に、鮮やかなブル・コバルトが斜めに横切った。それと認めないうちに、田坂さんであることが僕には分かった。
『取り返しがつかなくなる前に、今すぐに伝えておかないと』
僕は彼の後を追った。しかし、何をどう伝えれば良いのか、まとまってなどなかった。それでも、せめて、彼が僕にどんな風に接するのか、確かめておきたかった。
関係者の往来する、正面玄関の広間。田坂さんの後姿。今朝の夢と違うのは、彼の進行方向と服装。白いスーツだったが、現実の彼は、眼に沁みるようなブル・コバルトの夏用のセーター——光沢と柔らかさから、綿と麻の混紡糸で編まれたものと推察できた——に、白色のクロップド、そして何時の下駄を履いている。
『まさか、夢が本当になる訳がない』
再び、鳩尾の辺りが痛み始める。田坂さんは、客間に居る誰かに向けて、腕を伸ばす。胸がざわつく。
髪の短い、すらりと長身の男の子が現れて、田坂さんと並んで歩きだした。Tシャツは濃い水色と黒の幅広のボーダー柄、膝丈の黒っぽいカーゴ、CONVERSE。骨格はしっかりしているものの華奢で、高校生か、あるいは中学生かもしれない。
田坂さんは、彼の腰に腕をまわし、抱き寄せる。
あの夢は、僕の不安の投影だと思っていたのに、正夢だったとは。
*フランス語でスニーカーって何? と検索すると、「バスケット」と出てきました。バスケットボールで履くから?
『クイズで楽しむ森羅万象』なるサイトによると、現在では「バスケット」は、ほぼ使われておらず、そのメーカーの名前で呼んでいるんですって👟
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