上 下
28 / 87
第三章 海辺の光線 Boire la mer

7.

しおりを挟む

 疲れてぼんやりしていたからなのか、あるいは、いつもの癖なのか、僕は興味を持って彼を眺めた。
 いずれにせよ、食餌を与えるのが愉しい行為であることに違いはない。彼を見下ろすのは、奇妙な感覚だった。

「美味しい、でしょう?」

「うん、血糖値が上昇して、細胞が活発になる感じ」と田坂さんは僕を見上げ、「あの、さっき玄関の処で言ってたことだけど。もし、暇があって、迷惑じゃなかったら、お願いしたいことがあって」
 
 どことなく、口調に神経質さが滲んでいる気がする。こちらまで緊張しそうになる。それなのに、フライパンで油が跳ねる音がして、溶き卵が焼かれる、仕合わせな甘いにおいがただよってきた。

「何でも……と言うか、僕にできることなら」

 僕は期待しすぎないよう、自分を戒める。いつも空騒ぎをしてしまうから。

「資料として使いたい書籍を読んで、内容とか、まとめてもらえたらな、って」

「そのくらいなら、出来ると思う。全然、迷惑じゃないし」

「ほんと?」と彼は文字通り眸を輝かせ、「ありがとう。すごく助かる。それじゃあね——」

 田坂さんが言いかけるのを、衣装係のユキちゃんの足音と声が遮った。

「予定が変更になりました。すぐにも再開です。おむすびは、お弁当箱に詰めて、持って来るよう頼みました」

「Aye,aye,captain(アイ、アイ、キャプテン)!*」と田坂さんは彼女に敬礼してから、僕の右手首をつかんで引き寄せ、持ったままだった“クルミッ子”をくわえた。
 自分の指でお菓子をつまみなおして立ち上がると、「拘束は十二時間、なので、躰が空くのは、だいたい午後七時から午前五時くらいかな。話のつづきはその時に。僕の部屋が映写室に移動したって、言ってたっけ?」

 口早に言い終えると、ユキちゃんを追って台所キュイジーヌから走り去った。

 僕も慌てて、調理台の桃音ももねちゃんの方へ駆けて行く。お弁当を届ける役回りを、他のひとに譲りたくない。
 何より、僕は彼から頼られているんだし。

 お盆プラトウに載せられた、小判形をした曲げわっぱのお弁当箱に、梅干しのおむすびと、厚焼き玉子、ピーマンとちりめんじゃこの炒め物、彩りに赤いウィンナーが、詰められていた。三寸小鉢には、黒葡萄と白葡萄。

「こぼれるといけないから、お味噌汁はスープジャーによそうね」と桃音ちゃんはポットの蓋をひねり、「まだ熱いから、お弁当箱の蓋は開けたままだよ」と念を押した。

「Aye,aye,captain!」と僕は田坂さんの真似をして敬礼した。「どこに持ってけばいい?」

「二階の書斎へ。グラスはあるはず。お茶も冷蔵庫に入ってる。待って、あと、お箸」と布巾トルションも掛けてくれた。

「正面のバルコニーで撮影してるから、大きい階段の方か……」

客間サロンの方から上がるよ」

 彼に選ばれ、彼に必要とされ、彼の役に立つことすらできるのだ。もしかしたら、これから書かれる、未来の映画の脚本の協力者になるのかも知れない。
 僕が有頂天になったところで、軽薄さを咎められはしないだろう。

 僕はなるべく急いで、だけど慎重に運んだ。書斎へ続く階段の上り口に来ると、鳩尾のあたりが、微かにざわついた。お盆プラトウを落とさないよう指先に力をこめ、階段を踏み外さないよう意識を集中させる。
 彼が待っているわけではないのに、じょじょに心臓まで締めつけられるのを感じる。扉の脇の小さな卓子ターブルにお盆を置き、居ないと分かっているのに、ノックフラップして部屋の中に入った。

 この前の夜のまま、デレクターズチェアはあったけれど、一脚だけで、寝台代わりの寝椅子カナぺが運び込まれている。卓子がないので、お盆はとりあえず冷蔵庫の上に置くことにした。
 落ち着かない気持で、部屋を見回す。ノワールに塗った祖父の衣桁屏風いこうびょうぶに、シャツや上衣が掛けてある。僕は忍足で近づいて、鼻をよせる。懐かしくて優しい、バニラとサンダルウッドの『SANTAL』の香り。

 上衣のポケットポッシュから、白色ブランシュの封筒が覗いているのが、ふと眼に留まった。

『やっと見つけた』とだしぬけに閃いた。

 いくら探してもなかった、屋根裏部屋の扉の下から差し込まれたはずの封筒は、まだ配達されずに、田坂さんの元にあったのだ。



* 『ミリレポ』と言うサイトによると、「アイ、アイ、サー」を使い始めたのは英国王立海軍で、海賊は「アイ、アイ、キャプテン」と答えていたのだとか🏴‍☠️



 
しおりを挟む
感想 51

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

教え子に手を出した塾講師の話

神谷 愛
恋愛
バイトしている塾に通い始めた女生徒の担任になった私は授業をし、その中で一線を越えてしまう話

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ネオンと星空

Rg
現代文学
歓楽街で生まれ育った家出少女は、汚れきったその街で何を思うのだろう?

処理中です...