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第三章 海辺の光線 Boire la mer

7.

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 疲れてぼんやりしていたからなのか、あるいは、いつもの癖なのか、僕は興味を持って彼を眺めた。
 いずれにせよ、食餌を与えるのが愉しい行為であることに違いはない。彼を見下ろすのは、奇妙な感覚だった。

「美味しい、でしょう?」

「うん、血糖値が上昇して、細胞が活発になる感じ」と田坂さんは僕を見上げ、「あの、さっき玄関の処で言ってたことだけど。もし、暇があって、迷惑じゃなかったら、お願いしたいことがあって」
 
 どことなく、口調に神経質さが滲んでいる気がする。こちらまで緊張しそうになる。それなのに、フライパンで油が跳ねる音がして、溶き卵が焼かれる、仕合わせな甘いにおいがただよってきた。

「何でも……と言うか、僕にできることなら」

 僕は期待しすぎないよう、自分を戒める。いつも空騒ぎをしてしまうから。

「資料として使いたい書籍を読んで、内容とか、まとめてもらえたらな、って」

「そのくらいなら、出来ると思う。全然、迷惑じゃないし」

「ほんと?」と彼は文字通り眸を輝かせ、「ありがとう。すごく助かる。それじゃあね——」

 田坂さんが言いかけるのを、衣装係のユキちゃんの足音と声が遮った。

「予定が変更になりました。すぐにも再開です。おむすびは、お弁当箱に詰めて、持って来るよう頼みました」

「Aye,aye,captain(アイ、アイ、キャプテン)!*」と田坂さんは彼女に敬礼してから、僕の右手首をつかんで引き寄せ、持ったままだった“クルミッ子”をくわえた。
 自分の指でお菓子をつまみなおして立ち上がると、「拘束は十二時間、なので、躰が空くのは、だいたい午後七時から午前五時くらいかな。話のつづきはその時に。僕の部屋が映写室に移動したって、言ってたっけ?」

 口早に言い終えると、ユキちゃんを追って台所キュイジーヌから走り去った。

 僕も慌てて、調理台の桃音ももねちゃんの方へ駆けて行く。お弁当を届ける役回りを、他のひとに譲りたくない。
 何より、僕は彼から頼られているんだし。

 お盆プラトウに載せられた、小判形をした曲げわっぱのお弁当箱に、梅干しのおむすびと、厚焼き玉子、ピーマンとちりめんじゃこの炒め物、彩りに赤いウィンナーが、詰められていた。三寸小鉢には、黒葡萄と白葡萄。

「こぼれるといけないから、お味噌汁はスープジャーによそうね」と桃音ちゃんはポットの蓋をひねり、「まだ熱いから、お弁当箱の蓋は開けたままだよ」と念を押した。

「Aye,aye,captain!」と僕は田坂さんの真似をして敬礼した。「どこに持ってけばいい?」

「二階の書斎へ。グラスはあるはず。お茶も冷蔵庫に入ってる。待って、あと、お箸」と布巾トルションも掛けてくれた。

「正面のバルコニーで撮影してるから、大きい階段の方か……」

客間サロンの方から上がるよ」

 彼に選ばれ、彼に必要とされ、彼の役に立つことすらできるのだ。もしかしたら、これから書かれる、未来の映画の脚本の協力者になるのかも知れない。
 僕が有頂天になったところで、軽薄さを咎められはしないだろう。

 僕はなるべく急いで、だけど慎重に運んだ。書斎へ続く階段の上り口に来ると、鳩尾のあたりが、微かにざわついた。お盆プラトウを落とさないよう指先に力をこめ、階段を踏み外さないよう意識を集中させる。
 彼が待っているわけではないのに、じょじょに心臓まで締めつけられるのを感じる。扉の脇の小さな卓子ターブルにお盆を置き、居ないと分かっているのに、ノックフラップして部屋の中に入った。

 この前の夜のまま、デレクターズチェアはあったけれど、一脚だけで、寝台代わりの寝椅子カナぺが運び込まれている。卓子がないので、お盆はとりあえず冷蔵庫の上に置くことにした。
 落ち着かない気持で、部屋を見回す。ノワールに塗った祖父の衣桁屏風いこうびょうぶに、シャツや上衣が掛けてある。僕は忍足で近づいて、鼻をよせる。懐かしくて優しい、バニラとサンダルウッドの『SANTAL』の香り。

 上衣のポケットポッシュから、白色ブランシュの封筒が覗いているのが、ふと眼に留まった。

『やっと見つけた』とだしぬけに閃いた。

 いくら探してもなかった、屋根裏部屋の扉の下から差し込まれたはずの封筒は、まだ配達されずに、田坂さんの元にあったのだ。



* 『ミリレポ』と言うサイトによると、「アイ、アイ、サー」を使い始めたのは英国王立海軍で、海賊は「アイ、アイ、キャプテン」と答えていたのだとか🏴‍☠️



 
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