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第七章 無分別ざかり Vie de rêve

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 県内で大手百貨店に行くならば、いわゆる都心部まで出なければならない。それでも、到着した時点で、閉店までの猶予は三十分どころじゃないはずだ。もっと遠くまで行くつもりなのだろうか。
 いや、それよりも、何を買うのかが問題だ。三十分かけても選びきれない物……おそらくは、高価な品?……僕が最初に思いついたのはお揃いの指環で、思いついてしまうと、もう、それしか考えられなくなってしまった。

『無理だよ』と僕は伏せた横眼で彼を窺った。『そんな大切な物、すぐには選べない。それでなくても優柔不断なのに』

「百貨店で、絶対、すぐ決めないと駄目?」と訊ねたかったが、彼は、僕のことも窓の外も見ておらず、スマルトフォンを操作していた。

「事故もないし、電車の遅延は大丈夫そうだね」と彼は言った。「ちょっと、何件か返信しておきたいメールがあるから、ごめんね」

「ううん、どうぞ、気を遣わなくていいよ」

「大至急、終わらせる」

 そうして彼の意識はEメールクリエルに没入し、傍にいるのに、いないひとになる。が、その気兼ねしない態度が、馴れ合いの関係らしく、かえって僕の自尊心をくすぐらないでもなかった。彼は、紛れもなく連れなのだ。
 一駅ごとに乗客が増えるようで、車内はすっかり混雑していた。ストラップサングルで肩からかけた彼のポートフォリオバッグが、後ろに立つ学生のバックパックサカドゥに当たっていたので、一瞬ためらいはしたものの、邪魔にならないよう、僕はバッグの角を押さえた。本音としては、彼に触れて欲しくなかっただけなのだが。

 注意を促されたと思ったのか、彼が僕にどうしたのか、柔らかく訊ねた、スマルトフォンの画面から、真剣な眼差しを外して。

「バッグ、後ろのひとに、当たってるから」と僕は頭を寄せて言った。

 彼はありがとうを言い、僕はどういたしましてと答え、バッグから手を放さず、頭ももたせかけたままにした。

 彼は僕を選び、僕のために計画し、誘い出し、導いているのだ、二人きりの夜のランデヴーに。出かけるまでは、あんなに葛藤したけれど、かりそめとは言え、恋人と一緒にいると、めずらしくもない日常の世界が明るんで見えた。

 それでいて(黙りこくっているせいか)、僕は先走った空想が押さえきれず、動転もしていた。
 もしも、指環を贈られて、地元に帰らないで欲しいとせがまれたらどうしよう、と……まさか、そんなこと、落ち着け、僕の物じゃなくて、佳思けいしくんの物を、二人で選ぶのかも知れないし。そもそも、単純に、夜遊びに行くだけなのだ。

「よかった、電車、あんまり遅れないで着いたね」と彼が言った。スマルトフォンの画面で、時間を確認したのだろう。

「次で降りる?」目的地は、最寄りの百貨店みたいだ。

「うん、次の駅。ちょうど混む時間帯に当たっちゃったね」結局、乗車している間、彼は沈黙したまま、ほぼメールの遣り取りを続けた。「電車を降りてから、百貨店に行く経路、解る?」

「うろ覚え。確か、地下に降りるんだよね」

「そう、地下二階まで」と彼は僕の手を取った。「はぐれないよう、ついておいで」

 その口調はいささか、恋人よりか、冒険に向かう少年めいていた。

 扉が開くと、彼は僕の手を強く握りしめ、肩で人波を切るように、大股でさっさと歩きだした。僕は彼の歩調に合わせるために、小走りでついて行くのが精一杯だった。

 プラットフォームから階段を降りて角を曲がり、改札を通り抜け、また角を曲がって、雑踏する中央通路を真っ直ぐに進んだ。
 彼は、普通に歩いたら四分かかるらしい、とか、実は僕もうろ覚えだからネットで道順を検索した、とか、次の角を左折、とか、口早に喋った。僕はうろたえ、繋いでいない方の手で肩掛けバッグサコッシュを抱え、頭上の案内標識の文字すら、まともに読めなかった。
 鉄とガラスヴェールで出来た地下街の門を潜って、下りエスカレーターエスカラトールに乗り、インフォメーションアンフォルマスィヨンを遣り過ごして直進すると、正面に百貨店の入り口が見えて来た。

「十八時四十六分か。今のところ、予定の範囲内だ。むしろ奇跡かも」と、正面入り口の左手にある、からくり時計台を指差して彼が言った。そして、僕を見下ろし、「ごめんね、怖かった?」

 彼は、握りしめていた手の力を緩めた。手のひらが汗でしめっている。彼の体温は僕のより高い。きっと、僕の汗だ。僕は表情を引き攣らせていただろうことを反省し、なるべく笑顔で首を横に振った。

「ううん、全然。地下でお菓子とか、見る?」

 緊張のあまり、胸やお腹が痺れたようになって——指環を贈られるかも知れないから、地元には戻らないでくれと懇願されるかも知れないから——、僕は自分をはぐらかすために、思ってもいないことを言った。

「お菓子は別の場所で」彼は無関心な調子で言った。「エレベーターを使うから、入ったら、すぐ右方向ね」

 彼は手を離し、僕の腰に腕を回した。護衛するみたいに、からだをぴったりとつけ、歩度をあげる。
 それでも僕は、鮮やかで美しくて美味しそうなお菓子が陳列されたガラスのショーケースヴィトリヌを愛おしく眺めずにいられなかった。
 ほんのちょっぴりだけ残された、十円玉の上に載りそうな小さな小さなカヌレット、味はプレーンと紅茶と……読むのも間に合わない速度で通過する。隣のお店は、これもプティットなエクレーヌが並んでおり、ショコラや色とりどりのフォンダンに覆われたエクレーヌは、フランボワーズとか砂糖漬けのスミレとかナッツノワ、アザランで飾られている。

「待ってるひと、けっこういる」と彼が言った、切迫した口調で。

 それでようやく僕は、前を向いた。エレベーターアッソンスールの前には、十人以上が立っている。どれが先に降りて来るか、インジケーターの階数表示を見上げた。各階で止まるのがもどかしい。あんまり身を寄せているので、彼の焦燥が伝わるようだった。
 一番手前のエレベーターが、地下一階まで降りて来た。もう少し。

「やっとだ。急いでるときは、長い。急いでないときも、長いけど」と彼は拗ねたように呟いた。

 扉が開き、幾人ものひとが流れ出し、待っていたお客たちは緩慢な歩調で乗り込む。狭い中で、たちまち大勢に取り囲まれた。

 行き先階ボタンに手が届かないので、彼が操作盤の前に立つひとに呼びかけた。

「すみません、五階をお願いします」

 五階は、紳士服・ゴルフ/スポーツ・旅行用品売り場だ。


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