微熱の午後 l’aprés-midi(ラプレミディ)

犬束

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第一章 お腹の中の蝶 Avoir des papillons dans le ventre

3.

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「ああ、どうしよう、花ちゃん。どうしよう、あのひと! 早く救急車を呼ばなくちゃ!」と僕は動転して叫んだ。

「心配することないってば」と花は平静に言った。「気を失った人間は、躰をまっすぐにした姿勢で、頭の重みで倒れるから。でしょう? あれは演技、心配いらない」

 彼女が指摘した点なら知ってはいる。だけど、意識はあっても具合が悪くて、持ちこたえられなくなったのだとしたら。

 考えるまもなく、僕は室内窓の右手にあるドアをあけ、狭く長く、急な階段を駆けおりた(僕らがまだ幼く、祖父がここに住んでいたころ、祖父はこの階段を休みなく、素早く上り下りできることを自慢したものだ)。
「大丈夫ですか」と声をかけながら近寄っても、彼の反応はなかった。うつ伏せた体勢で、乱れた前髪が顔にかかり、とがった鼻先がのぞいている。僕はひざまずき、彼を仰向けた。頬を叩いて眼を覚まさせようとしたが、そこに、気絶した(おそらく)、非常に端正な顔が現れたので、おじけづいて身じろぎもできなくなってしまった。

 深く印象に残り、ずっと後になっても、何度も記憶を反芻させた、あの顔。硬い大理石の床の上で、早朝の透明なブルの薄闇の中で青ざめた、白皙はくせきの青年の顔。死者のようにノーブルな美しい顔ーー。

「おはようございます、田坂氏」と花が、のんびりした調子で言うのが背後から聞こえた。

 すると彼は薄く片眼をあけ、僕に鋭い一瞥をくれると、だしぬけに、あまりにも無防備な、はにかんだ微笑を浮かべた。一瞬にして生き還ったひとのようだった。奇妙なことに、その表情には、僕をよく知ってでもいるかのような含みがあった。

「その子が、従弟のよう」と花はつづけて言った。「自宅から夜中中よなかじゅうスクーターを飛ばして来て、さっき到着したばっかり」

「すぐ分かった」と青年はうれしげに言った。「だって、そっくりだから」

「どこが? 似てないでしょうが」と花が即座に反論した。

 さっきまで黄泉の世界を漂っていた若い男は、起きなおり、僕にむけて握手を求めて手を差し出した。

「田坂です。田坂佳思けいし。シナリオ・ライター兼、ゴースト・ライター」

 端正な顔立ちに、奥二重で切れ長の眸の、眼差しだけはたじろぐほど強かった。

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