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第一章 お腹の中の蝶 Avoir des papillons dans le ventre
1.
しおりを挟む二階の小さな室内窓から、夜明け前の薄闇に浸された、吹き抜けの客間を見下ろす。
すでに使われなくなって久しいその場所は、僕の記憶にあるかぎりでは、白と黒の市松模様に敷かれた床と、白い壁の大理石がひんやりした、アール・デコ様式のだだっぴろい空虚なようすだった。
ところが今は、暖炉の前に絨毯が敷かれ、洒落た調度品がしつらえられて、ひとの住むところらしく、すっかり様変わりしていた。フランス窓をおおうカーテンを、夜空藍から淡いシャンパン色に掛けかえただけでも、空間が若返るのを知る。
客間にしては厳しすぎると訝っていたけれど、内装しだいで素敵になるのだ、泉に、お前の水は飲まぬと言うべからず、ってこのことなんだと、僕は感じいった。
「葉、ご感想は? すごいでしょう」
すぐ隣にある、もう一つの室内窓にもたれかかっていた従姉の花が、得意そうに言った。
格別、花の手柄ではないはずだ(ヒッコリー生地の半袖のつなぎなんか着て、本人は美術制作部員のつもりらしい)。癪に触る言い草だけれど、兎に角、映画の撮影を見学できるのは、彼女がここへ呼んでくれたおかげなのだった。
僕は、憎まれ口をたたきそうになるのをこらえた。
「そうだね。これだけで、なにか魔法に酔ってしまいそうだね」
「クルーが働きはじめると、もっとすごいんだから」
「もっと近くで見た?」
「少しね。セットのコロマンデルの屏風のかげに隠れたりしなんかして。メイクさんに聞いたんだけど、今日は、自然光で撮る予定なんだって。午前中のお肌がきれいに映る時間帯に、邸のあちこちでシューティングするみたい」
自慢げに、鼻にしわをよせて笑う。
僕はあらためて、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。見るというよりは、観察だ。太い眉毛、くっきりした二重だが、まぶたが重くて眠そうな眼、短い鼻に、厚みのある脣。
「なによ、急に。そんなに睨まないでよ」
「睨んでなんかないよ。同じ顔立ちだなあって、思ってさ。一族の血が濃いなって」
「ちっとも似てないし」と花は眉をしかめ、窓のほうを向いた。
夏の終わりの朝は、少し肌寒かった。湿った草と朝露のにおいが鼻腔をかすめるようだ。辺りが、じょじょにほの明るくなってきた。薄暗がりに眼が慣れただけかもしれないが。
大祖父の残した無駄に大きな古い洋館は、手入れも維持費や固定資産税なども負担になるばかりで、買い手もなかなか見つからず、親族でも押しつけあってばかりいた。それを、孫娘の夫にあたる花の父親が、受け継ぎたいと言い出した。予約制のレストラン兼貸しスタジオとして、営業するつもりらしい。
花の母親の知り合いに映画関係者がいて、ちょうど「侯爵夫人」の居室を探していたとかで、この邸での撮影が決まったのだった。
「従兄弟姉妹の中で、僕だけ誘ってくれて嬉しかった」
あからさまにではなく、機嫌を取るように、僕も再び窓から客間を眺めながら言った。
「大学生になっても、夏休みに暇をもてあましてるだろうと思ってね」と彼女は振りむき、「喉がかわいた。葉は?」
言いながら、部屋の隅に置かれた黒い小型冷蔵庫に歩いて行くと、ガラス・ドアを開け、きれいに並んだevianのペットボトルを一本取りだした。喉を鳴らさんばかりに大慌てで飲みはじめる。
自分だって、たいした予定はなかったくせに。
以前は祖父の書斎だった部屋は、書庫どころか、古書の物置のように雑然としていた。本を片寄せ、中央にティーテーブルと、デレクターズチェアが三脚ほど持ち込まれている。もちろん、新品の冷蔵庫も。
「すごく冷たい。お腹が冷える」
「もう、勝手に飲んじゃって。冷たいのを一気に飲んだら、お腹が痛くなるよ」
花に注意をしつつ、ふと気配を感じ、ぼくはもう一度室内窓を覗きこんだ。
背の高いほっそりした人影が、幽霊のような足どりで、ゆっくりとホールを横切っている。バニラ色なTシャツに、薄い灰色のスウェットを身につけた、若い男性だ。どうやら裸足らしい。
彼は出演者なのか。
夢遊病患者なのだろうか。
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