リスの森

犬束

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 真夜中に目醒めると、あのひとが消えているのに気がつきました。ベッドのしたにひそんでいた鰐にさらわれてしまったのかと、覗いてみても無駄でした。天蓋の柱に糸をくくりつけ、迷子にならないように糸巻きをもち、不安にあおられながら、暗い森の奥を走りまわってあのひとを探しました。
 黒い闇の支配する世界で、生い茂った蕁草いらくさいばらにからまる白い糸が錯綜するばかり、あのひとは見つかりません。空にうかぶのは傷あとめいた青い三日月。
 疲れはて、あのひとは帰ってこないという絶望にうちひしがれ、ぼくはらせん階段の頂で、みじめに立ちすくんでいました。




 意識をとりもどしたのは、何時ごろだったでしょうか。森の空気はすがすがしく、樹木のあいだから白く透き通った光のすじが射して、あたりを平和にかがやかせていました。
 ぼくは部屋の真ん中にうつぶせたまま朝日を呪い、うすく瞼をあけると、視界のはしに、あのひとの後ろ姿を見出しました。
 昨夜とおなじあわいクリームいろのドレスがまぶしく、ふりそそぐ日差しのせいというよりか、あのひとから光が放たれているようでした。ふりむいたあのひとは葉巻をくわえていて、片手でスカートをひろげると、たぶんに芝居がかった慎ましいしぐさでお辞儀しました。

 どこからもちだしたのか、白布をかけたテーブルと二脚の椅子があり、焚き火ではコーヒーが湧いています。カマドは、トマトとじゃがいもと小玉ねぎでまわりをかこんだ兎を焼いていることでしょう。
 ぼくは飛び起きてあのひとに駆けより、きつく抱きしめて、あのひとの匂いを胸いっぱいに吸いこみました。葉巻の煙がたちのぼり、澄んだ大気とか、みずみずしい草花だとか、果実や獣肉などの、ゆたかな自然の恵みがあふれ、埃とカビと香水くさいドレスにしみつき、わかい男の汗とまざりあい、体温であたためられた、ぼくが永いこともとめていた匂い、それゆえに怖れていた、身もだえさせるような匂いがしました。




 あのひとはぼくをなだめ、よりそったままビロードのソファに腰を落ち着けました。どれほどつらい思いでいたか、告白しているうちに涙がこぼれ、ぼくは嗚咽によじれた声でいいつのりました。どうか、どこへも行かないでほしい、と。
 まさか、とあのひとは、軽やかに打ち消しました。だって、わたしはおまえの幻なんだから、夢を見つづけるかぎり、おまえに仕えるだろう。ぼくは意外な返答にとまどい、あのひとの顔を見すえ、胴にまわした腕に力をこめました。
 あなたが幻だなんて。わたしはおまえが思い描いた理想の恋人。おまえが願う通りにふるまいもすれば、姿をかくしもするのさ。ぼくがこれから、ずっと一緒にいたいと、ともに幸福をわかちあいたいと希むなら? ぼくがたずねると、あのひとは必ず叶うと誓いました。

 ぼくはあのひとの指にじぶんの指をからめ、あのひとの脈うつ手首の裏がわに口づけをしました。理想の恋人が、ドレスの似合う男のひとだったなんて、考えたこともありませんでしたが、つまらない分析はどうでもいい。ぼくはあのひとが大好きなのだから、それでじゅうぶんでした。

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