上 下
60 / 63
番外編

幸福なルシア②

しおりを挟む



「遠路はるばる悪いね。平民の間で随分と話題になっている薬屋の話を友人伝いに聞いたもんでさ」

「まさか侯爵様にご注文いただけるなんて、光栄でございます」


やって来た彼は当主にしては随分と若々しく、メイと同じくらいに見えた。

記憶を失ってはっきりとした自分の年齢はわからないけれど、大体二つ三つ上程度だろうか。




「改めて、俺はこの家の当主で、ウォルター・マクベルね。君には期待してるよ」


「薬師のメイと申します。ご期待に添えるよう精進いたします」


貴族にしてはなんだか砕けた口調のマクベル侯爵にメイの緊張も少しだけ解れてきたように思える。


ほっと一安心していると、目の前の侯爵の瞳がくるりとこちらを捉えるのがわかった。





「ところで、隣のお嬢さんは君の恋人?」


「…ええ、妻です」

「ふうん、そっか~」



口元の笑みはそのままに、すっと細められた瞳で見つめられると背筋がひんやりと冷たくなる。

後ろめたいことなんてないはずなのに、どこかいたたまれないような気持ちがした。




「なんて言うの?」

「っ、ルシア、です」



「へえ、素敵な名前だ」



へらへらと笑いながら感情のこもらない言葉を口にする侯爵が何を考えているのかさっぱり理解できない。

正直、逃げ出したくてたまらなかった。



背中を嫌な汗がつたう。






「…あの、妻がどうかしましたか?」


助け舟を出してくれたのはメイだった。





「いいや、ただ…似てたからさ」

「似てた?」



「俺の友人の、大切な妹に、君の奥さんがそっくりなんだよ」




大切な、妹…?




「名前は、ミレイユ・フォージャー。血は繋がっていないけど、友人にとっては今も昔も変わらない大切な妹なんだと」




_____ひどく、胸が痛んだ。






「それは、確かフォージャー侯爵家の養女だった…」

「そ。実の娘なんかよりずっと可愛がられていた……憐れな少女の話は、流石に聞いたことがあるだろう?」




記憶を失ってからしばらく、外界との接触を完全に閉ざしていた時期がある。

自分の存在すらわからないのに、不思議と知ろうとさえ思わなくて…



メイの善意に甘えて、ただただ堕落した生活を送っていた。


寄り添ってくれる彼の優しさに甘え、ようやく前を向き始めたのはつい最近のことだ。




だからだろうか…


ミレイユ・フォージャー、その名前には強く心を震わされるほど聞き覚えがあるのに、彼女のことを私はちっとも知らない。







「俺の友人、サイラスとセイラ嬢が彼女のことをひどく気にしていてね」


呆れたように肩を竦めて言葉を続けるマクベル侯爵。




「手に入れた幸福の光が強ければ強いほど、差した影はより色濃くなって、心を蝕む。彼らが安寧を手に入れるほど、脳裏には生死すら知れない妹の存在がこびり付いて離れないってわけ」



「…放っておけばいいのに」



口をついて出た言葉は、本心だった。






「俺もそう思うよ。諸悪の根源はあいつらの父親であって、気がつけず放置したあいつらではない。それでも、根が善人だからさ…自分が幸せを感じる時、二人は決まって救えなかった妹のことを思い出すんだ…本当めんどくさい奴らだよな~」


眉を下げて笑うマクベル侯爵に、なんと返したらいいかわからず黙ってしまう。



じくじくと胸が痛んだ。






「ま、結局のところ俺も、彼らが大好きだから…こんなことまでしちゃってるわけなんだけど、」


「え?」





「あいつらが心の底から幸せを実感するためには、ミレイユ・フォージャーが幸せでなければならない。どんなに時間がかかったって、俺は二人の幸せのために、幸せに生きるミレイユ嬢を見つけるって決めてたんだよ」



彼は心の底から友人を大切に思っているのだろう。

そんな気持ちがひしひしと伝わってくる。





「…その、ミレイユ嬢は見つかったのですか?」





「いや、いなかった」

「…そうですか」





「けど、まあ…悪くはなさそうだな」




言い回しが不思議で小さく首を傾げる。







「ちなみに君は、今幸せ?」



唐突な問いに困惑するけれど、その答えは明白だった。






「…はい、幸せです」


これだけは、胸を張って言える。




メイと出会って、彼の優しさに触れ…思いを通わせることができた私は、心の底から幸せだった。






「お、いいじゃん。旦那さんに愛情たっぷり注いでもらってるんだ?」


真正面からそんなことを口にされると照れてしまうが、否定はできなかった。




「ルシアは僕の宝物ですから」


「はっ、ぞっこんだね~」



愉快そうに笑う侯爵にメイが優しい笑みを返す。







「よかったよ、幸せそうで。きっと二人も喜ぶ」


「へ?」







「サイラスは侯爵の地位を追われたけど、小さな村で子どもに学問を教えてる。以前よりもずっと生き生きとして幸せそうだ」


嬉しそうに話すマクベル侯爵の言葉にただただ耳を傾けた。




「セイラ嬢はさ、最愛の夫にうんと甘やかされて、穏やかな顔で笑うようになった。前はあんなに強ばった表情を浮かべてたのに驚きだ」


彼が話す内容に、どうしてか心が温かくなる。

ほっとしたような、不思議な気持ちだ。





「もうすぐ、子どもが生まれるんだ。セイラ嬢の腹の中に、新しい命がいるんだって、すごいよなぁ」


「…そう、なんですね」








「二人とも、嘘みたいに幸せそうなんだ」






「ルシア…?」


驚いたように私の名前を呼ぶメイの声が聞こえて、ようやく私は自分の頬が濡れていることに気がついたのだ。


涙を流している理由に心当たりなんてなかった。





誰かの幸せにここまで心が揺さぶられることなんて、初めてだった。





私は、マクベル侯爵の友人である彼らの幸福を心底祝福しているらしい。

それは、安堵と少し似ている。






「俺の友人のために泣いてくれてありがとう」


「っ、いえ…そんな」




「きっと二人も喜ぶはずだ」




てきとうな言葉であるはずなのに、それが彼の本心のように思えてならない。



私は一体どうしてしまったのだろうか。






公爵の言葉や態度、その節々に違和感を覚える。

それはまるで散りばめられたパズルのピースをかき集めるかのようだった。



あと一歩で何かが掴めそうなのに、頭の中で鳴り響く警報が思考を邪魔する。





どうしていいかわからずぐっと唇を噛み締めていた時、目の前の彼が再度口を開いた。







「二人も、君の幸せを心から願っている」








「っあ…」


ああ、思い出してしまう、









私がめちゃくちゃにしてしまった彼らは、私を憎むどころか、私の幸せを願ってくれているのだという。


にわかには信じがたい話だけれど、嘘だと簡単に言ってのけることもしたくなかった。




憎んだっていいはずなのに、いったいどこまでお人好しなのか…








優しい彼らを思い出して、また一筋雫が流れる。







滝のように流れ込んでくる記憶に目眩がした。




失ってしまった本当の両親、殺したいほど憎かったあの男、



汚された身体





償いきれない自身の罪





罰も受けずに逃げ出した愚かな自分。







あの子から家族を奪って、ダメになったら全て忘れて新しい人生だなんて、本当に虫が良すぎるだろう。











…メイはどう思うだろうか。




こんな時まで考えるのは、自身の保身だった。








■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫






お久しぶりです。

更新が開きすぎて申し訳ありません。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】好きでもない私とは婚約解消してください

里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。 そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。 婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。

あなたの嫉妬なんて知らない

abang
恋愛
「あなたが尻軽だとは知らなかったな」 「あ、そう。誰を信じるかは自由よ。じゃあ、終わりって事でいいのね」 「は……終わりだなんて、」 「こんな所にいらしたのね!お二人とも……皆探していましたよ…… "今日の主役が二人も抜けては"」 婚約パーティーの夜だった。 愛おしい恋人に「尻軽」だと身に覚えのない事で罵られたのは。 長年の恋人の言葉よりもあざとい秘書官の言葉を信頼する近頃の彼にどれほど傷ついただろう。 「はー、もういいわ」 皇帝という立場の恋人は、仕事仲間である優秀な秘書官を信頼していた。 彼女の言葉を信じて私に婚約パーティーの日に「尻軽」だと言った彼。 「公女様は、退屈な方ですね」そういって耳元で嘲笑った秘書官。 だから私は悪女になった。 「しつこいわね、見て分かんないの?貴方とは終わったの」 洗練された公女の所作に、恵まれた女性の魅力に、高貴な家門の名に、男女問わず皆が魅了される。 「貴女は、俺の婚約者だろう!」 「これを見ても?貴方の言ったとおり"尻軽"に振る舞ったのだけど、思いの他皆にモテているの。感謝するわ」 「ダリア!いい加減に……」 嫉妬に燃える皇帝はダリアの新しい恋を次々と邪魔して……?

アリシアの恋は終わったのです。

ことりちゃん
恋愛
昼休みの廊下で、アリシアはずっとずっと大好きだったマークから、いきなり頬を引っ叩かれた。 その瞬間、アリシアの恋は終わりを迎えた。 そこから長年の虚しい片想いに別れを告げ、新しい道へと歩き出すアリシア。 反対に、後になってアリシアの想いに触れ、遅すぎる行動に出るマーク。 案外吹っ切れて楽しく過ごす女子と、どうしようもなく後悔する残念な男子のお話です。 ーーーーー 12話で完結します。 よろしくお願いします(´∀`)

【完】前世で種を疑われて処刑されたので、今世では全力で回避します。

112
恋愛
エリザベスは皇太子殿下の子を身籠った。産まれてくる我が子を待ち望んだ。だがある時、殿下に他の男と密通したと疑われ、弁解も虚しく即日処刑された。二十歳の春の事だった。 目覚めると、時を遡っていた。時を遡った以上、自分はやり直しの機会を与えられたのだと思った。皇太子殿下の妃に選ばれ、結ばれ、子を宿したのが運の尽きだった。  死にたくない。あんな最期になりたくない。  そんな未来に決してならないように、生きようと心に決めた。

貴方を捨てるのにこれ以上の理由が必要ですか?

蓮実 アラタ
恋愛
「リズが俺の子を身ごもった」 ある日、夫であるレンヴォルトにそう告げられたリディス。 リズは彼女の一番の親友で、その親友と夫が関係を持っていたことも十分ショックだったが、レンヴォルトはさらに衝撃的な言葉を放つ。 「できれば子どもを産ませて、引き取りたい」 結婚して五年、二人の間に子どもは生まれておらず、伯爵家当主であるレンヴォルトにはいずれ後継者が必要だった。 愛していた相手から裏切り同然の仕打ちを受けたリディスはこの瞬間からレンヴォルトとの離縁を決意。 これからは自分の幸せのために生きると決意した。 そんなリディスの元に隣国からの使者が訪れる。 「迎えに来たよ、リディス」 交わされた幼い日の約束を果たしに来たという幼馴染のユルドは隣国で騎士になっていた。 裏切られ傷ついたリディスが幼馴染の騎士に溺愛されていくまでのお話。 ※完結まで書いた短編集消化のための投稿。 小説家になろう様にも掲載しています。アルファポリス先行。

悪役令嬢の残した毒が回る時

水月 潮
恋愛
その日、一人の公爵令嬢が処刑された。 処刑されたのはエレオノール・ブロワ公爵令嬢。 彼女はシモン王太子殿下の婚約者だ。 エレオノールの処刑後、様々なものが動き出す。 ※設定は緩いです。物語として見て下さい ※ストーリー上、処刑が出てくるので苦手な方は閲覧注意 (血飛沫や身体切断などの残虐な描写は一切なしです) ※ストーリーの矛盾点が発生するかもしれませんが、多めに見て下さい *HOTランキング4位(2021.9.13) 読んで下さった方ありがとうございます(*´ ˘ `*)♡

裏切りのその後 〜現実を目の当たりにした令嬢の行動〜

AliceJoker
恋愛
卒業パーティの夜 私はちょっと外の空気を吸おうとベランダに出た。 だがベランダに出た途端、私は見てはいけない物を見てしまった。 そう、私の婚約者と親友が愛を囁いて抱き合ってるとこを… ____________________________________________________ ゆるふわ(?)設定です。 浮気ものの話を自分なりにアレンジしたものです! 2つのエンドがあります。 本格的なざまぁは他視点からです。 *別視点読まなくても大丈夫です!本編とエンドは繋がってます! *別視点はざまぁ専用です! 小説家になろうにも掲載しています。 HOT14位 (2020.09.16) HOT1位 (2020.09.17-18) 恋愛1位(2020.09.17 - 20)

妹がいなくなった

アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。 メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。 お父様とお母様の泣き声が聞こえる。 「うるさくて寝ていられないわ」 妹は我が家の宝。 お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。 妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?

処理中です...