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奇、黒羽左衛門
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「どこだ、ここは」
伊賀同心、飯岡黒羽左衛門は目を剥いた。
一日の仕事を終えた夕時。組屋敷の自宅に戻って刀を置き、さて一風呂浴びようかと思い、廊下に出た……。
――軽く一杯ひっかけたが、深酒ってほどじゃねえんだがな。
黒羽左衛門は思わず自分の頬っぺたを武骨な手で引っぱたいた。
「痛ッ」
どうやら夢を見ているわけではないようだった。
――さもなきゃ、狐にでも化かされてンのか。
黒羽左衛門がそんな風に思ったのも無理はなかった。
廊下と自室を隔てる障子を開けたのだが、そこにあるはずの廊下がない。
代わりにそこには見覚えのない書斎が広がっていた。
「まさか、かかあと婆の仕業じゃないだろうな」
その部屋がなんとなく南蛮風であるとは分かるが、黒羽左衛門は生来、海外の文明などには興味のない男である。それが阿蘭陀の物なのか葡萄牙の物なのか、はたまた魯西亜の物であるかなどということは、とんと見当がつかなかった。
すなわち、自分の住居を南蛮風に飾る趣味などは持ち合わせていない。
それで自分が出ている間に家の者が勝手に改装したのではないか、と思ったのだが、それにしても妙である。
――いや、俺は確かに廊下を通って部屋に入ったはずだ。
「じゃあ。おかしいじゃねえか」
黒羽左衛門は左手を右肘に、顎に右手を当てると、狐につままれたような顔して首を捻った。
首を捻りながら辺りを見回す。
後方には畳張りの見慣れた自室。障子を開けた前方には、生まれてこの方、見たこともない南蛮の調度品が揃えられた書斎が広がっている。
書斎の中へ一歩足を踏み出すと、毛むくじゃらの敷物――絨毯が素足を柔らかく包み込んだ。
前方には扉が一つ。両脇に設えられた本棚には革装丁の書籍が並び、部屋の隅には書き物机が置かれている。
黒羽左衛門は机に近寄ると、机上に置かれていた一冊の本を手に取った。机の上に置かれた洋灯の灯りに、本の表紙をかざして見る。
――読めん。
皮の表紙に彫られているのは異国風の文字。浅学菲才の黒羽左衛門に読めるはずもなかった。
ふっと、部屋が暗くなった。
背後へ振り返ると、あったはずの障子が消えていた。
「どうなってやがる」
手にしていた本を机に戻し、代わりに洋灯を手に取る。
洋灯をかざし、障子があったはずの場所を念入りに見直すが、何度見てもそこには木製の壁があるだけだった。
悪戦苦闘の末、見知らぬ取っ手付きの扉を開けた黒羽左衛門は、部屋の外へ出た。
外は暗闇に近い。
部屋から持ち出した洋灯をかざすと、どうやらそこは廊下のようだった。部屋の左右に長く伸びた通路の先は、洋灯の弱弱しい光では見通すことはできない。
――さて、どっちに行くか。
行く当てもない探索であるから別にどちらでも良かったのだが、刀を振るう習慣から、黒羽左衛門は左手の壁に沿って歩き始めた。
五間ほど(9メートル)進んだ所で、
「奇奇ィ阿阿阿阿ァ」
女の嬌声にも似た音色の声を上げて、逆さまになった首長の頭が天井から不意に顔を出した。真っ赤な長い舌がべろんと口から眉間に垂れている。顔は人間のようでもあるが、漂白したような肌の色と言い、顔から左右にはみ出した巨大な目玉と言い、それは異相であった。
「なんだてめぇは。ここは化け物屋敷か」
黒羽左衛門は押し殺した声を漏らした。
本来なら悲鳴の一つも上げる所であったが、黒羽左衛門は恐怖と云うものに鈍い所があった。
「ぎゃあ嗚呼」
それと同時に、黒羽左衛門の真後ろから悲鳴が上がった。
黒羽左衛門、どちらかと言えば、この悲鳴の方に驚いて思わず振り返った。
「新吉じゃねえか」
いつの間にか、中間の新吉がすぐ後ろで腰を抜かしてへたり込んでいた。
「おめぇ、いつから隠密の技を身に着けやがった」
「そんなんじゃありやせんよ。勝手口開けたら、旦那の背中が見えたんで、中入った途端に今のですよ。おっかねえのなんのって」
「ほぅ。それでおめぇが入っ……」
言いかけて黒羽左衛門は不意にしゃがみ込むと、足元にいる新吉の脇差を抜いて背後に斬り上げた。
「欺ィ耶阿阿阿阿ァ」
今度、叫び声を上げたのは、先ほど天井から跳び出して来た化け物だった。出血した腕を庇いながらも、さらにもう片方の腕を伸ばして黒羽左衛門に襲い掛からんとしている。
振り返り様、黒羽左衛門は脇差をもう一振りした。
一閃。
化け物の首がぼとりと落ちた。首は床を転がって、刀の鍔ほどもある目玉が二人の方を見上げた。
「旦那、怖くねえんでやすか」
「怖がったってしょうがねえ」
黒羽左衛門は脇差の血を振り落とすと、新吉の腰に引っかかったままの鞘に刀身を押し込んだ。
「それよりも、刀の手入れはもうちっとマメにやりな。おめぇの刀ぼろぼろじゃねえか」
「いつも竹光差してる旦那には言われたくねえですよ。これは安く譲り受けたもんで、ぼろなのは最初からでやんす」
起き上がった新吉は、黒羽左衛門の顔を見上げながら下唇を突き出した。
偉丈夫の黒羽左衛門と小柄な新吉が並ぶと、大人と子供のように見えた。そう見えるのは、幾らか年嵩の黒羽左衛門の武骨な顔立ちと、まだ若い新吉の童顔のせいでもあるだろう。
「今はその竹光もねぇや。ハハッ」
黒羽左衛門は声を上げて笑った。刀――竹光――は、帰宅して自室に置いてきたところである。
「へっ、どうするんですかい。また、あんなのが出て来たら」
「出て来ねえのを祈るんだな」
「そんなぁ」
「それより新吉、おめぇが入って来た勝手口ってのはどこにあるんだ」
「そりゃ、あっしのすぐ後ろに」
言って新吉は振り向くが、その目に映ったのは虚ろな廊下だけだった。
「あれ。確かにここから……」
「お前の入って来た戸口も消えちまったようだな」
「そういや旦那、いつの間に建て替えたんでやす……いや、どこでやすここは」
「俺が聞きてえよ」
そこへ、
「あなたー、どこにいるの。あなたー」
廊下の先から女の声が聞こえて来た。
黒羽左衛門にはそれが誰の声がすぐに分かった。
「旦那、ありゃ奥方の声じゃねえでやすか」
黒羽左衛門は黙って頷き、妻、律の声のした方へと急いだ。
廊下の端には光が漏れており、先は広く開けていた。天井も高く、二階建てか三階建てほどの高さがあった。何か大邸宅の玄関のようである。
玄関広間の反対側、外へと続くと思われる大きな両扉の前には、中年女と老婆が立っていた。
「それにしてもここはどこなんでしょうね。なんだか狐につままれたような」
「ほんとうに。訳が分かりませんわ。とにかくあの人が来るまで、ここで待ちましょう」
「あんな独活の大木のような人が何かの役に立つんでしょうか」
「あら酷いわ、お母さま。戸口のつっかえ棒くらいにはなりましてよ」
天井からは硝子細工の燭台が吊り下げられていて、部屋全体を明るく照らしている。
黒羽左衛門は手にしていた洋灯を新吉に押し付けると、女たちの方へ駆け寄った。
「律。義母上」
一方、声を掛けられた当の本人たち、――黒羽左衛門の妻である律と、その母親の千はその場を動かず、じっと黒羽左衛門を見据えた。
「あら、あなた。やっぱりいらっしゃるんじゃありませんか」
「婿殿。何をもたもたしているんですか。早くこちらへいらっしゃい」
「ねえ、あなた。ここは一体なんなんですの」
「普段はぬぼーっとして役に立たないんですから、こういう時ぐらい役に立っていただかないと」
律と千は交互に言いたいことを言った。
「いや、そんなこと言われましてもね」
黒羽左衛門は頭を掻きながっら、こんな時に述べるいつもの口上を口にした。だが……。
――何か妙だな。
違和感を覚えた。
確かに律と千の口さがない態度に普段との違いはない。口を開けば黒羽左衛門への説教、小言ばかりであり、面と向かって悪態をつくことも厭わない。
だが何かがいつもと違うのだ。
「おい、新吉」
「へぇ」
黒羽左衛門は、遅れて来た新吉に一声掛けると、その腰から脇差を引き抜いた。
「借りるぞ」
「へッ、いったい何をなさるんで」
伊賀同心、飯岡黒羽左衛門は目を剥いた。
一日の仕事を終えた夕時。組屋敷の自宅に戻って刀を置き、さて一風呂浴びようかと思い、廊下に出た……。
――軽く一杯ひっかけたが、深酒ってほどじゃねえんだがな。
黒羽左衛門は思わず自分の頬っぺたを武骨な手で引っぱたいた。
「痛ッ」
どうやら夢を見ているわけではないようだった。
――さもなきゃ、狐にでも化かされてンのか。
黒羽左衛門がそんな風に思ったのも無理はなかった。
廊下と自室を隔てる障子を開けたのだが、そこにあるはずの廊下がない。
代わりにそこには見覚えのない書斎が広がっていた。
「まさか、かかあと婆の仕業じゃないだろうな」
その部屋がなんとなく南蛮風であるとは分かるが、黒羽左衛門は生来、海外の文明などには興味のない男である。それが阿蘭陀の物なのか葡萄牙の物なのか、はたまた魯西亜の物であるかなどということは、とんと見当がつかなかった。
すなわち、自分の住居を南蛮風に飾る趣味などは持ち合わせていない。
それで自分が出ている間に家の者が勝手に改装したのではないか、と思ったのだが、それにしても妙である。
――いや、俺は確かに廊下を通って部屋に入ったはずだ。
「じゃあ。おかしいじゃねえか」
黒羽左衛門は左手を右肘に、顎に右手を当てると、狐につままれたような顔して首を捻った。
首を捻りながら辺りを見回す。
後方には畳張りの見慣れた自室。障子を開けた前方には、生まれてこの方、見たこともない南蛮の調度品が揃えられた書斎が広がっている。
書斎の中へ一歩足を踏み出すと、毛むくじゃらの敷物――絨毯が素足を柔らかく包み込んだ。
前方には扉が一つ。両脇に設えられた本棚には革装丁の書籍が並び、部屋の隅には書き物机が置かれている。
黒羽左衛門は机に近寄ると、机上に置かれていた一冊の本を手に取った。机の上に置かれた洋灯の灯りに、本の表紙をかざして見る。
――読めん。
皮の表紙に彫られているのは異国風の文字。浅学菲才の黒羽左衛門に読めるはずもなかった。
ふっと、部屋が暗くなった。
背後へ振り返ると、あったはずの障子が消えていた。
「どうなってやがる」
手にしていた本を机に戻し、代わりに洋灯を手に取る。
洋灯をかざし、障子があったはずの場所を念入りに見直すが、何度見てもそこには木製の壁があるだけだった。
悪戦苦闘の末、見知らぬ取っ手付きの扉を開けた黒羽左衛門は、部屋の外へ出た。
外は暗闇に近い。
部屋から持ち出した洋灯をかざすと、どうやらそこは廊下のようだった。部屋の左右に長く伸びた通路の先は、洋灯の弱弱しい光では見通すことはできない。
――さて、どっちに行くか。
行く当てもない探索であるから別にどちらでも良かったのだが、刀を振るう習慣から、黒羽左衛門は左手の壁に沿って歩き始めた。
五間ほど(9メートル)進んだ所で、
「奇奇ィ阿阿阿阿ァ」
女の嬌声にも似た音色の声を上げて、逆さまになった首長の頭が天井から不意に顔を出した。真っ赤な長い舌がべろんと口から眉間に垂れている。顔は人間のようでもあるが、漂白したような肌の色と言い、顔から左右にはみ出した巨大な目玉と言い、それは異相であった。
「なんだてめぇは。ここは化け物屋敷か」
黒羽左衛門は押し殺した声を漏らした。
本来なら悲鳴の一つも上げる所であったが、黒羽左衛門は恐怖と云うものに鈍い所があった。
「ぎゃあ嗚呼」
それと同時に、黒羽左衛門の真後ろから悲鳴が上がった。
黒羽左衛門、どちらかと言えば、この悲鳴の方に驚いて思わず振り返った。
「新吉じゃねえか」
いつの間にか、中間の新吉がすぐ後ろで腰を抜かしてへたり込んでいた。
「おめぇ、いつから隠密の技を身に着けやがった」
「そんなんじゃありやせんよ。勝手口開けたら、旦那の背中が見えたんで、中入った途端に今のですよ。おっかねえのなんのって」
「ほぅ。それでおめぇが入っ……」
言いかけて黒羽左衛門は不意にしゃがみ込むと、足元にいる新吉の脇差を抜いて背後に斬り上げた。
「欺ィ耶阿阿阿阿ァ」
今度、叫び声を上げたのは、先ほど天井から跳び出して来た化け物だった。出血した腕を庇いながらも、さらにもう片方の腕を伸ばして黒羽左衛門に襲い掛からんとしている。
振り返り様、黒羽左衛門は脇差をもう一振りした。
一閃。
化け物の首がぼとりと落ちた。首は床を転がって、刀の鍔ほどもある目玉が二人の方を見上げた。
「旦那、怖くねえんでやすか」
「怖がったってしょうがねえ」
黒羽左衛門は脇差の血を振り落とすと、新吉の腰に引っかかったままの鞘に刀身を押し込んだ。
「それよりも、刀の手入れはもうちっとマメにやりな。おめぇの刀ぼろぼろじゃねえか」
「いつも竹光差してる旦那には言われたくねえですよ。これは安く譲り受けたもんで、ぼろなのは最初からでやんす」
起き上がった新吉は、黒羽左衛門の顔を見上げながら下唇を突き出した。
偉丈夫の黒羽左衛門と小柄な新吉が並ぶと、大人と子供のように見えた。そう見えるのは、幾らか年嵩の黒羽左衛門の武骨な顔立ちと、まだ若い新吉の童顔のせいでもあるだろう。
「今はその竹光もねぇや。ハハッ」
黒羽左衛門は声を上げて笑った。刀――竹光――は、帰宅して自室に置いてきたところである。
「へっ、どうするんですかい。また、あんなのが出て来たら」
「出て来ねえのを祈るんだな」
「そんなぁ」
「それより新吉、おめぇが入って来た勝手口ってのはどこにあるんだ」
「そりゃ、あっしのすぐ後ろに」
言って新吉は振り向くが、その目に映ったのは虚ろな廊下だけだった。
「あれ。確かにここから……」
「お前の入って来た戸口も消えちまったようだな」
「そういや旦那、いつの間に建て替えたんでやす……いや、どこでやすここは」
「俺が聞きてえよ」
そこへ、
「あなたー、どこにいるの。あなたー」
廊下の先から女の声が聞こえて来た。
黒羽左衛門にはそれが誰の声がすぐに分かった。
「旦那、ありゃ奥方の声じゃねえでやすか」
黒羽左衛門は黙って頷き、妻、律の声のした方へと急いだ。
廊下の端には光が漏れており、先は広く開けていた。天井も高く、二階建てか三階建てほどの高さがあった。何か大邸宅の玄関のようである。
玄関広間の反対側、外へと続くと思われる大きな両扉の前には、中年女と老婆が立っていた。
「それにしてもここはどこなんでしょうね。なんだか狐につままれたような」
「ほんとうに。訳が分かりませんわ。とにかくあの人が来るまで、ここで待ちましょう」
「あんな独活の大木のような人が何かの役に立つんでしょうか」
「あら酷いわ、お母さま。戸口のつっかえ棒くらいにはなりましてよ」
天井からは硝子細工の燭台が吊り下げられていて、部屋全体を明るく照らしている。
黒羽左衛門は手にしていた洋灯を新吉に押し付けると、女たちの方へ駆け寄った。
「律。義母上」
一方、声を掛けられた当の本人たち、――黒羽左衛門の妻である律と、その母親の千はその場を動かず、じっと黒羽左衛門を見据えた。
「あら、あなた。やっぱりいらっしゃるんじゃありませんか」
「婿殿。何をもたもたしているんですか。早くこちらへいらっしゃい」
「ねえ、あなた。ここは一体なんなんですの」
「普段はぬぼーっとして役に立たないんですから、こういう時ぐらい役に立っていただかないと」
律と千は交互に言いたいことを言った。
「いや、そんなこと言われましてもね」
黒羽左衛門は頭を掻きながっら、こんな時に述べるいつもの口上を口にした。だが……。
――何か妙だな。
違和感を覚えた。
確かに律と千の口さがない態度に普段との違いはない。口を開けば黒羽左衛門への説教、小言ばかりであり、面と向かって悪態をつくことも厭わない。
だが何かがいつもと違うのだ。
「おい、新吉」
「へぇ」
黒羽左衛門は、遅れて来た新吉に一声掛けると、その腰から脇差を引き抜いた。
「借りるぞ」
「へッ、いったい何をなさるんで」
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