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52.合縁 三
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「うわー、十年って自分で言ってびっくり。ササイさんと出会って、ケンたちと活動して、居候して歌姫になって。ササイさんにいつも助けてもらって、歌わせてもらって、一緒にいてもらって。それがアタシの十年。全部、ササイさんの思い出ばっかりね。その十年、お客君は何をしていたの?」
ふいに問われて、晴久は答えに詰まった。
「こっちに引っ越して来て……何も……何もない十年です」
「ふうん……でも」
急に不穏な空気になるのを感じて、晴久は後ずさりした。背後は出入口ドアで逃げ場がない。
「明美、さん?」
目が、座っている。
バンッ。
明美は晴久の顔の真横でドアに手をついた。
「アタシの十年を……君は簡単に持って行っちゃうのね」
「簡単……」
少し寂しげな強い視線を晴久は黙って見返した。
何度も自らを棄て、その度に生きることを強く意識していった晴久の十年には、明美にように積み上げてきたものは何もない。
それでも、先の未来に簡単に手を伸ばしたわけではない。
「……お客君ってホント、こういう時強気なんだよね。ま、いいや。アタシのひがみだから気にしないで」
明美は晴久を見たまま深い溜息をついた。
「ササイシンを知りたくて、ここに来たのでしょう? ようやく、ササイさんを知る気になった?」
晴久は黙ってうなずいた。
明美の顔が近くて緊張する。晴久の顔の真横には、ドアに手をついた明美の腕が伸びている。逃げ場もなく追い詰められたようで落ち着かない。
「予習はしてきた?」
責めるような問いかけに晴久が首を横に振って答えると、明美の目が更に怖くなった。
「ササイシン、調べなかったの? 教えてあげたじゃない、ネットで検索したら少しくらい出てくるわよって」
「……そういう調べ方をしたら、益々遠い人になりそうで、怖かったんです。本当は直接石崎さんに訊くべきだと思っています。でも……今すぐ知りたくなって……石崎さんを直接知っている憲次郎さんに教えてもらうことしか考えませんでした」
「ケン?」
意外だという顔で覗き見られ、晴久ははっとした。
「はい、その……前に憲次郎さんが、ライブハウスに遊びにおいでって言ってくれて……それがすごく嬉しかったこともあって……」
「なあによ、それ。あんたたち、いつのまにそんなに親密になっちゃったのよ。しっかも、嬉しそうに」
明美は明らかに拗ねている。
明美を最初に頼るべきだったのだ。石崎のことで晴久を気にかけてくれたのは明美だ。
どうしよう。
「お客君」
呼ばれて晴久は動けなくなった。体が硬直したのは、正面からの怒気をはらんだ女性の声に条件件反射したようなもので、仕方がないと理解している。それよりも、自分の言葉が明美を不快にさせたことに晴久は緊張した。やはり、明美は怒っている。
「ごめんなさいは?」
「え?」
「ごめんなさい、でしょう?」
「は?」
「は? アタシがムカついたの。だから謝るのよ」
「え……と。その理屈はちょっと……」
「もうっ。しまった! っていう顔をしたのはお客君の方でしょう? 気にしたのなら、さっさと謝れば済むことでしょう? なんでそんなにビクビクするのよ。そんな、いきなり捨てられるみたいな顔をされても困るんだけど」
「……ごめんなさい」
「……。お客君は、いちいち人の反応を気にし過ぎなのよ。もっとテキトーに流しなさいよね。特に、アタシ」
「明美、さん?」
「そうよ。アタシはいつだって好き勝手に思うまま言いたい放題なの。アタシの気分のムラに合わせていちいちビクビクされていたら、この先アタシがケンたちに怒られ続けるじゃないの」
「この先……続ける……」
「ああっ⁉︎ ササイさんと仲良くなったら、アタシたちなんかとは縁を切るつもりでいたのぉ? そうはさせないわよ、お客君は半分アタシのモノなんだから!」
「イタタタッ、ちょっと離れて下さいって」
明美の頭で額を擦りつけられて晴久が抵抗していると、急に明美が真顔になって頭を離した。
「あー、これ何だっけ? このシチュエーション」
明美の気分は本当に乱高下する。きっと元々の性格だけではなく、常に周りの状況を見た処世術や気遣いなのだろう。
「はい? えと……か、かべ……」
「そう! 壁ドンだ! あはっ、昔憧れて、これもやってみたかったの。ラッキー」
明美は素直に嬉しそうだった。
「これ……ポジションが逆ではないでしょうか……」
「んー。細かいことはいいや。どお? ドキドキする?」
明美の顔が近づいて、黒髪が晴久の頬をくすぐる。化粧品なのか、甘い匂いに包まれる。
至近距離で明美を見ながら、晴久は背筋にぞくりとするものを感じた。ここまで近づいても、やはり女性にしか見えない。
明美は片手で晴久の髪を優しくなでている。濃く彩られた唇が、誘うように「お客君」と呼びかける。
ああ、これはダメだ。
晴久は気が遠くなりそうだった。
「あの……僕……女の人、苦手かもしれません」
「は?」
「女の人にこんなに接近されたことがないのでわからなかったんですが……アキヨシさんに抱きつかれた時は平気だったんですけど……その、今は……鳥肌が……」
「ト、リ? はあ? トリ⁉︎ 」
明美は晴久から飛び退いた。
「なんって失礼な子なのよ! 失礼にもほどがあるでしょ! ありえない信じられない! この明美様に鳥肌? しっかもなに冷静に言っちゃっているの? アタシを拒絶するなら、僕は美女より熟女が趣味ですくらい言いなさいよ!」
「わあ、ごめんなさい。……僕は美女より熟女が趣味です……」
「⁉︎」
明美は驚いたように晴久を見ると、肩を震わせながらうつむいて笑いをこらえた。
「……お客君、バカ素直。おっかしぃー、ああもうヤダ。……アタシ、体はいじっていないから物理的には男なんだけどな。見る?」
「見ませんっ」
あははは。晴久の胸に顔をうずめるようにして、明美は今度は思い切り笑った。だが、晴久の両肩をつかむ手は震えていた。
「アタシが女だから……それで嫌がられるなんて信じられない。アタシの十年を一瞬で蹴散らしたお客君に……十年で諦めたはずのことを……こんな当たり前みたいに……。アタシ、お客君といるとおかしくなりそう。わけがわからなくなる。それでまたお客君に酷いことをしたくなって、傷つけて……」
明美の声はどんどん弱く小さくなっていった。
「明美さん、僕は明美さんに酷いことをされても傷つきませんから。大丈夫です。言っていましたよね? ボロボロの僕は幸せそうに倒れているって」
明美は顔を上げた。
「……マゾ?」
「酷いことをしてほしいとは言っていません」
たくさん傷ついて、たくさん落ち込んで、それでも明美は笑っている。
僕が水底に沈んで今日を捨てるように、明美はここで空を見上げて歌っている。
静かに笑った明美を残して、晴久は先にビルを下りた。ほうきとちりとりを受け取り、明美の代わりに階段を掃除しながら十年を思った。
発声練習をする明美の声が遠くに聞こえる。
十年。僕は、いつか出会わなければいけない運命の相手を信じて、自分の未来に手を伸ばした。星の友情を心の支えにして、明日を掴み続けた。
偶然。
それは、運命を信じさせるほどの偶然。僕にとっての奇跡だった。
石崎さんは僕の世界を変えるきっかけをくれた。明美さんたちとの出会いをくれた。
僕は、きっと新しい世界を生き始めている。
晴久は、自分が何に泣いているのかわからなかった。
ふいに問われて、晴久は答えに詰まった。
「こっちに引っ越して来て……何も……何もない十年です」
「ふうん……でも」
急に不穏な空気になるのを感じて、晴久は後ずさりした。背後は出入口ドアで逃げ場がない。
「明美、さん?」
目が、座っている。
バンッ。
明美は晴久の顔の真横でドアに手をついた。
「アタシの十年を……君は簡単に持って行っちゃうのね」
「簡単……」
少し寂しげな強い視線を晴久は黙って見返した。
何度も自らを棄て、その度に生きることを強く意識していった晴久の十年には、明美にように積み上げてきたものは何もない。
それでも、先の未来に簡単に手を伸ばしたわけではない。
「……お客君ってホント、こういう時強気なんだよね。ま、いいや。アタシのひがみだから気にしないで」
明美は晴久を見たまま深い溜息をついた。
「ササイシンを知りたくて、ここに来たのでしょう? ようやく、ササイさんを知る気になった?」
晴久は黙ってうなずいた。
明美の顔が近くて緊張する。晴久の顔の真横には、ドアに手をついた明美の腕が伸びている。逃げ場もなく追い詰められたようで落ち着かない。
「予習はしてきた?」
責めるような問いかけに晴久が首を横に振って答えると、明美の目が更に怖くなった。
「ササイシン、調べなかったの? 教えてあげたじゃない、ネットで検索したら少しくらい出てくるわよって」
「……そういう調べ方をしたら、益々遠い人になりそうで、怖かったんです。本当は直接石崎さんに訊くべきだと思っています。でも……今すぐ知りたくなって……石崎さんを直接知っている憲次郎さんに教えてもらうことしか考えませんでした」
「ケン?」
意外だという顔で覗き見られ、晴久ははっとした。
「はい、その……前に憲次郎さんが、ライブハウスに遊びにおいでって言ってくれて……それがすごく嬉しかったこともあって……」
「なあによ、それ。あんたたち、いつのまにそんなに親密になっちゃったのよ。しっかも、嬉しそうに」
明美は明らかに拗ねている。
明美を最初に頼るべきだったのだ。石崎のことで晴久を気にかけてくれたのは明美だ。
どうしよう。
「お客君」
呼ばれて晴久は動けなくなった。体が硬直したのは、正面からの怒気をはらんだ女性の声に条件件反射したようなもので、仕方がないと理解している。それよりも、自分の言葉が明美を不快にさせたことに晴久は緊張した。やはり、明美は怒っている。
「ごめんなさいは?」
「え?」
「ごめんなさい、でしょう?」
「は?」
「は? アタシがムカついたの。だから謝るのよ」
「え……と。その理屈はちょっと……」
「もうっ。しまった! っていう顔をしたのはお客君の方でしょう? 気にしたのなら、さっさと謝れば済むことでしょう? なんでそんなにビクビクするのよ。そんな、いきなり捨てられるみたいな顔をされても困るんだけど」
「……ごめんなさい」
「……。お客君は、いちいち人の反応を気にし過ぎなのよ。もっとテキトーに流しなさいよね。特に、アタシ」
「明美、さん?」
「そうよ。アタシはいつだって好き勝手に思うまま言いたい放題なの。アタシの気分のムラに合わせていちいちビクビクされていたら、この先アタシがケンたちに怒られ続けるじゃないの」
「この先……続ける……」
「ああっ⁉︎ ササイさんと仲良くなったら、アタシたちなんかとは縁を切るつもりでいたのぉ? そうはさせないわよ、お客君は半分アタシのモノなんだから!」
「イタタタッ、ちょっと離れて下さいって」
明美の頭で額を擦りつけられて晴久が抵抗していると、急に明美が真顔になって頭を離した。
「あー、これ何だっけ? このシチュエーション」
明美の気分は本当に乱高下する。きっと元々の性格だけではなく、常に周りの状況を見た処世術や気遣いなのだろう。
「はい? えと……か、かべ……」
「そう! 壁ドンだ! あはっ、昔憧れて、これもやってみたかったの。ラッキー」
明美は素直に嬉しそうだった。
「これ……ポジションが逆ではないでしょうか……」
「んー。細かいことはいいや。どお? ドキドキする?」
明美の顔が近づいて、黒髪が晴久の頬をくすぐる。化粧品なのか、甘い匂いに包まれる。
至近距離で明美を見ながら、晴久は背筋にぞくりとするものを感じた。ここまで近づいても、やはり女性にしか見えない。
明美は片手で晴久の髪を優しくなでている。濃く彩られた唇が、誘うように「お客君」と呼びかける。
ああ、これはダメだ。
晴久は気が遠くなりそうだった。
「あの……僕……女の人、苦手かもしれません」
「は?」
「女の人にこんなに接近されたことがないのでわからなかったんですが……アキヨシさんに抱きつかれた時は平気だったんですけど……その、今は……鳥肌が……」
「ト、リ? はあ? トリ⁉︎ 」
明美は晴久から飛び退いた。
「なんって失礼な子なのよ! 失礼にもほどがあるでしょ! ありえない信じられない! この明美様に鳥肌? しっかもなに冷静に言っちゃっているの? アタシを拒絶するなら、僕は美女より熟女が趣味ですくらい言いなさいよ!」
「わあ、ごめんなさい。……僕は美女より熟女が趣味です……」
「⁉︎」
明美は驚いたように晴久を見ると、肩を震わせながらうつむいて笑いをこらえた。
「……お客君、バカ素直。おっかしぃー、ああもうヤダ。……アタシ、体はいじっていないから物理的には男なんだけどな。見る?」
「見ませんっ」
あははは。晴久の胸に顔をうずめるようにして、明美は今度は思い切り笑った。だが、晴久の両肩をつかむ手は震えていた。
「アタシが女だから……それで嫌がられるなんて信じられない。アタシの十年を一瞬で蹴散らしたお客君に……十年で諦めたはずのことを……こんな当たり前みたいに……。アタシ、お客君といるとおかしくなりそう。わけがわからなくなる。それでまたお客君に酷いことをしたくなって、傷つけて……」
明美の声はどんどん弱く小さくなっていった。
「明美さん、僕は明美さんに酷いことをされても傷つきませんから。大丈夫です。言っていましたよね? ボロボロの僕は幸せそうに倒れているって」
明美は顔を上げた。
「……マゾ?」
「酷いことをしてほしいとは言っていません」
たくさん傷ついて、たくさん落ち込んで、それでも明美は笑っている。
僕が水底に沈んで今日を捨てるように、明美はここで空を見上げて歌っている。
静かに笑った明美を残して、晴久は先にビルを下りた。ほうきとちりとりを受け取り、明美の代わりに階段を掃除しながら十年を思った。
発声練習をする明美の声が遠くに聞こえる。
十年。僕は、いつか出会わなければいけない運命の相手を信じて、自分の未来に手を伸ばした。星の友情を心の支えにして、明日を掴み続けた。
偶然。
それは、運命を信じさせるほどの偶然。僕にとっての奇跡だった。
石崎さんは僕の世界を変えるきっかけをくれた。明美さんたちとの出会いをくれた。
僕は、きっと新しい世界を生き始めている。
晴久は、自分が何に泣いているのかわからなかった。
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