境界のクオリア

山碕田鶴

文字の大きさ
上 下
49 / 65

49.月明

しおりを挟む
 ……ルル……ラーラ……
 ……ララ、ラ……

 歌……歌声が聴こえる気がする。
 ささやくような声は、風に流され静かに消えていく。
 祈りにも似た音。
 どこからだろう。
 繰り返し、繰り返し、波のように……
 ……この曲を僕は知っている……
 目を開けた晴久は、街灯の薄明かりに照らされたペデストリアンデッキの床をぼんやりと見た。
 花びらが落ちている。
 過去の記憶や夢ではない。
 花びらが、赤い。

「あら、やだ。落ちちゃった」

 晴久の頭上から、柔らかな布に包まれた手が伸びて、花びらを優しくつまんだ。
 その瞬間、晴久は自分が横向きになっていて頭を上下から硬いものに挟まれ潰されるのがわかった。息ができない。

「くっ、苦しい……」
「やだっ、ごめーん」

 明美がすぐに上体を起こして、晴久の頭をなでた。

「明美さん?」

 晴久は、明美の膝枕でベンチに横になっていた。ふわふわとしたワンピースの生地が心地良い。
 起き上がろうとしたのを強引に押さえつけられて、晴久の頭は明美の膝上に固定された。

「あ、また赤くなってる。こういうの、初めて?  」

 晴久は黙ってうなずいた。明美は話しながら、晴久の頬や耳を指先でなでている。

「やだ、かわいい。ウブな年下の子と遊ぶのも楽しいかもね」
「遊びませんから。あ、……花の匂い……」
「ああ、バラよ。ほら、見える?  きれいでしょ。さっきライブハウスでもらっちゃった。バラ一輪差し出すなんてキザな男がいるものよねえ。でも、悪くないわね」

 明美は晴久に見えるようにして茎をくるくると回した。

「花びら、今拾って……」
「あ、こっち?」

 手に乗せた花びらを晴久に見せた。

「こっちもきれい。せっかくもらったのに、もったいないでしょ。ここで落としていったら、気持ちを捨てちゃうみたいじゃない?  持って帰って、バラ風呂とかバラベッド?  あはは、乙女チックね」
「あの……僕、倒れていましたか?」
「練習が終わって帰って来たら、お客君まだここに座っていたわよ。ぼーっとなってた。よくそんなんで犯罪にも巻き込まれず生きてきたわね。お腹もすかないの?  声をかけてもつついても反応がないから膝枕してみたの。これ、やってみたかったのよねー。イチャつくカップルを見るとイラつくけど、自分でやると楽しいのね!」
「イチャついていませんから」
「だって、今もアタシの手を触って……あれ?  泣いている?」

 晴久は、明美の手のひらに乗った花びらに触れていた。
 赤い色。花からこぼれ落ちても、大切に拾い上げられて大事にされている。

「……泣いていませんから」

 晴久が花びらをなでるのを明美はそのままにさせていた。
 赤い色。置いていかれることなく、手を差し伸べられて優しく包まれている。

「僕は、拾って欲しかった……。僕は、名前を呼んで欲しかった……」

 悲しいことは何もない。枯れた花びらは過去の記憶だ。
 ふと口をついて出た言葉は、過去との決別だ。

   この赤い花びらこそが、今の僕だと信じることができるから。

「なあに?  名前ならアタシが呼んであげるわよ?」
「え?」
「お客君」
「それは……」
「なあによ?  文句ある?  アタシとケンがつけてあげた、ありがたーいお名前でしょ。ねえ、お客君」
「……はい」
「お客君」
「はい」
「大丈夫よ、お客君。心配しないで」
「はい」
「アタシたちはお客君の仲間だから」
「はい」
「お客君はアタシたちの大事な生贄いけにえだから」
「……はい?  生贄って何ですか?」
「決まっているでしょ。ササイさんに差し出すのよ。君をお供えしておけば、アタシたちはずっとササイさんの近くにいさせてもらえるでしょ。安泰安泰。だから逃さないわよ。ついでにアタシはつまみ食いってね。あはは」

 明美の顔が近づいてくるのがわかった。体を固くした晴久の耳元で、明美はからかうように小さく笑った。

「どんな名前でも、今アタシは君だけを呼んでいるでしょ。君だって、ササイさんのことを石崎って呼んでいるじゃない」

 明美は晴久と重ねていた手を離した。

「ちゃんと自分の名前を呼んでほしいなら、ササイさんのこともちゃんと呼べば?  変な二人ね」

 ……ルル……ラ、ラ……

 明美は膝枕をしたまま、ささやくように歌い始めた。
 甘く濃い霧が広がっていく。

「その歌……」
「ん?  ササイさんがこの前弾いていた曲。譜面探しようがないし、ササイさんも知らないっていうから、もう一回弾いてもらったの」
「聴いて、すぐ覚えられるんですか?」
「ササイさんがちゃんと弾けていたら、合っていると思うけど」
「……すごいですね」
「そお?  ケンなんか、一回見た顔バッチリ覚えてて、そっちの方が無駄にすごいと思うけど」
「僕は……なんにもないです」
「わー、それ嫌みぃ。ササイさんと個人的に仲良しってだけで、もう十分すごいんですけどお?」
「それ、僕が何かしたわけではないです」
「あー……。まあ、ねえ。じゃあ、君は何を頑張った人?」
「何を、頑張った?」
「そう。アタシは歌っている。何があっても歌う。まだやってるって言われても歌う。別に頑張ったとは思っていないけれど。これがアタシ。君は、何かある?  自分にはコレがあるって思いたいのでしょう?」

 晴久は、いくら考えても明美のような何かがなかった。
 僕はずっと透明人間だった。僕はいらなかった。僕は存在しなかった。
 それでも、僕は今ここにいる……。

「……生きること。明日も生きること」

 それしか、ない。たったそれだけ。
 明美がハッとしたように一瞬動かなかったのが、膝枕の晴久にもわかった。

「……すごいね。生きるのを頑張ったって言えるほど、生きることを考えたのでしょう?  それ、すごいと思うけど?」

 明美は晴久の肩をトントンと軽く叩いてリズムを取りながら、また歌い始めた。

 ……ララ、ラ……ラー……

 記憶の中の色あせた曲が、明るく鮮やかに染められていく。
 晴久は膝枕のまま、優しい歌を明美の気が済むまで黙って聴いていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

今夜、オオカミの夢を見る

とぎクロム
BL
訳あり深窓伯爵と春を売る美しい少年の運命譚。

馬鹿な先輩と後輩くん

ぽぽ
BL
美形新人×平凡上司 新人の教育係を任された主人公。しかし彼は自分が教える事も必要が無いほど完璧だった。だけど愛想は悪い。一方、主人公は愛想は良いがミスばかりをする。そんな凸凹な二人の話。 ━━━━━━━━━━━━━━━ 作者は飲み会を経験した事ないので誤った物を書いているかもしれませんがご了承ください。 本来は二次創作にて登場させたモブでしたが余りにもタイプだったのでモブルートを書いた所ただの創作BLになってました。

キミの次に愛してる

Motoki
BL
社会人×高校生。 たった1人の家族である姉の由美を亡くした浩次は、姉の結婚相手、裕文と同居を続けている。 裕文の世話になり続ける事に遠慮する浩次は、大学受験を諦めて就職しようとするが……。 姉への愛と義兄への想いに悩む、ちょっぴり切ないほのぼのBL。

僕を拾ってくれたのはイケメン社長さんでした

なの
BL
社長になって1年、父の葬儀でその少年に出会った。 「あんたのせいよ。あんたさえいなかったら、あの人は死なずに済んだのに…」 高校にも通わせてもらえず、実母の恋人にいいように身体を弄ばれていたことを知った。 そんな理不尽なことがあっていいのか、人は誰でも幸せになる権利があるのに… その少年は昔、誰よりも可愛がってた犬に似ていた。 ついその犬を思い出してしまい、その少年を幸せにしたいと思うようになった。 かわいそうな人生を送ってきた少年とイケメン社長が出会い、恋に落ちるまで… ハッピーエンドです。 R18の場面には※をつけます。

桜吹雪と泡沫の君

叶けい
BL
4月から新社会人として働き始めた名木透人は、高校時代から付き合っている年上の高校教師、宮城慶一と同棲して5年目。すっかりお互いが空気の様な存在で、恋人同士としてのときめきはなくなっていた。 慣れない会社勤めでてんてこ舞いになっている透人に、会社の先輩・渡辺裕斗が合コン参加を持ちかける。断り切れず合コンに出席した透人。そこで知り合った、桜色の髪の青年・桃瀬朔也と運命的な恋に落ちる。 だが朔也は、心臓に重い病気を抱えていた。

手作りが食べられない男の子の話

こじらせた処女
BL
昔料理に媚薬を仕込まれ犯された経験から、コンビニ弁当などの封のしてあるご飯しか食べられなくなった高校生の話

友達が僕の股間を枕にしてくるので困る

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
僕の股間枕、キンタマクラ。なんか人をダメにする枕で気持ちいいらしい。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。 そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

処理中です...