境界のクオリア

山碕田鶴

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 大柄で強面の男が人懐こい笑顔で晴久の前に立つ。憲次郎だ。

「お客君はっけーん!  って、明美さんは?」
「こんばんは。その……今、帰りました」
「はあぁ⁉︎  ったく人使いが荒いったら。ああ、お久しぶりだねお客君。君たち、いつのまにそんな親密になっちゃってたのよ? もう、あの人ホント自由だよなー」

 憲次郎は息を切らせながら笑った。明美がいないことは気にしていない様子だ。

「走って来たんですか?」
「いやあ、我ながらすごい忠犬っぷり。でも緊急招集だから、さ」
「緊急招集?」
「うん。明美さん、普段絶対連絡してこないし、ライブに向けた練習の集合日時とかも全部返信不要の事務メール一本」
「あ……。ごめんなさい。僕のことで明美さんと、憲次郎さんにも迷惑かけて……」
「いいのいいの。どうせ明美さんが勝手に勢いで俺を呼んだんでしょ?  明美さんにとって緊急事態だったんだよ。君、ホント気に入られているね。いやあ、明美さんにケンカ売っただけのことはある。」

 憲次郎は楽しそうに笑った。

「あの、そこ座ってて下さい。僕、飲み物買ってきます」

 晴久は駅の自販機に走った。
 明美と憲次郎の優しさが温かい。だが、晴久には熱過ぎて受け止めきれなかった。こんなわずかな会話で、もういっぱいいっぱいになっていた。
 ガコンッ。
 自販機から取り出したペットボトルの冷たさで気持ちを落ち着けた。

「わはーっ、冷たい。助かるー」

 憲次郎はビールでも飲むかのように緑茶に感激していた。ベンチに片手をついて、すっかりくつろいでいる。

「スーツにネクタイ……」

 晴久は憲次郎に見入った。
 走ってきたせいか多少乱れているものの、髪もきちんと整っている。ライブハウスで会った時のラフな感じとは全く異なる印象だ。

「あ?  仕事中だったからね。サービス残業だけど」
「え、と。社員証ですか?  名札かけたままです。……大沢、憲次郎さん?……中学校、教諭……」
「ひえっ⁉︎  ぎゃっ、何という失態!」

 憲次郎は慌てて名札を外した。

「……体育の、先生?」
「身バレするって気まずいねえ。それいつも言われるけど、社会の先生です」
「あ……すみません」
「いえいえ。実は俺も君を職場で見ちゃっているから、お互い様ってことで」

 憲次郎は、いたずらっぽく笑った。

「え?」
「ほら、この前中学生が職場体験とかで施設に来ていたでしょ?  君のいたフロアじゃなかったけど。初日の見学に引率で行ったら、遠くに君がいた。俺、人の顔覚えるの得意だから絶対見間違いじゃないよ。ササイさん、フツーの社会人と知り合いなんだあって、変に感動した」
「フツーの、社会人……」
「そうだよ。だって、ササイさんや明美さんなんかどう見ても規格外っしょ。わははは」
「あの、僕は普通の人ですか?」

 晴久は勢いで訊いていた。

「え?  いやあそんな、一、二回会ったくらいじゃわからないよ。その辺歩いている人を見たら、だいたい普通に見えるし」

 憲次郎は晴久を見て、ことさらニッコリ笑ってみせた。

「君はどう言ってほしいの?  普通に見えるけど普通じゃない人?  普通じゃないけど普通に見える人?  ……後者、かな?」
「どう違うんですか?」
「良い意味に限って使うならば、特別な才能があると思いたい人は前者が嬉しい。変な苦労の多い人は後者が嬉しい。なーんて、俺の私見。明美さんだったら、普通じゃないけど普通に見えなくていい人。お、我ながらいいこと言うぅ」

 憲次郎が笑うのにつられて晴久も笑顔になった。

「元気そうだね。でも明美さんがなんかやらかしたんでしょ?  ホントごめんねえ。えーと……その腕、どうしたの?」

 憲次郎は訊きにくそうに言った。

「あ……犬に噛まれました」
「犬、ねえ。……あの、さ。ここにいたの、アケミさんじゃない方だったでしょ?」
「……はい」
「俺ね、そっちには会ってもらえないのよ。帰っちゃったのは、きっと俺と会いたくないからだよ。俺のこと何か聞いてる?  よね?  酷いこと言われていそうで怖いな。とにかく明美さん、昔のことムチャクチャ気にしてて、俺ずーっとアケミしか見ていないんだよ。アキヨシ先輩は、いるのにいない。あ、明美さんって俺の高校の二こ上なんだ」

 憲次郎は一気に話すと、思い切り伸びをした。あーあー年取ったなあ、と空を見ながら笑った。
 走ってきた体力のことなのか、高校からの年月を思ってか。寂しさも後悔もなく、淡々と受け入れている。そんな顔だった。
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