境界のクオリア

山碕田鶴

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41.天明 四

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「アタシは、ササイさんと同じことをしたい」
「え?」
「……ササイさんが聴く曲を聴いて、ササイさんが行った場所に行って、ササイさんが見たものを見て、ササイさんが食べた物を食べたい」
「イタタタッ。首、かじらないで下さいっ」

 明美は薄く歯型のついた首筋にそっと唇を当てて離すと、そのまま晴久の耳元で話し続けた。

「アタシは、ササイさんになりたい。ササイさんのように生きたいとか姿を真似したいってことじゃないの。アタシの全部がササイさんになったら、もう望まなくて済むからよ。アタシもオレもなくて全部ササイさんに溶けるまで、アタシはきっと満足できない。だから、たとえササイさんがアタシだけを見てくれたとしても、この体がある限り無理なのよ。わかる?  どれだけ触れても、ひとつになっても、体が邪魔をしてそれ以上は近づけないの。アタシはそこまでササイさんが欲しい。この感じ、わかる?  決して叶うことのない永劫の悲劇。アタシはそこから抜け出せない」

 歌うようにささやく明美の声は深く濃い霧となって晴久を幻惑させた。
 自分の境界の内側が、それと気づかず明美にべったりと侵食されている……。
怖い。
 晴久は体を離そうとしたが、明美に完全に押さえられて動けなかった。

「君は語彙力がなさ過ぎ。表現力も最悪。言いたいことが言えないって、口を塞がれてるのと同じよ。不自由な状態に怯えて、潤んだ目で訴えることしかできないのね。かわいそう。でも、アタシにはわかるから大丈夫よ。ササイさんに近づきたいのに近づけないの?  怖いのね。それでも勇気を出そうとしている。でも、誰がめるの?  気持ちいいことは苦手?  心が痛い方が好きなんて、かわいそうにね。同情してあげる。君がどれだけササイさんが欲しいか、アタシにはわかる。アタシと君は同じだから」

 なぜわかった?  いつ知られた?
 晴久は戸惑った。明美はライブハウスでも、晴久の心を読むように会話した。今この瞬間も、全て見透かされている。
   言葉が見つからず上手く言えなかった、ササイシンを知ろうとして躊躇ちゅうちょする気持ちまでがなぜ見えているのか。
 あなたのことはわかっているという決めつけで晴久を見る川島と同じ、支配される感覚。だが、根本的な違いは、明美が晴久の内側に完全に入り込んでいる恐怖だった。
 首に回されていた明美の腕がするりと外れた。今度は晴久の手に触れてきた。明美が指を絡めるように手を握ろうとした瞬間、晴久は反射的にその手を払いのけた。
   ダメだ!
「あっ」
「あーあ」

 目隠しの手も離れて、いたずらっぽく笑う繊細そうな明美、アキヨシの顔が晴久の目の前にあった。

「お客君って、こういうの、好き?」
「なっ、何言ってるんですかっ?」
「やっだー、また赤くなってる。その顔ヤバい、ツボる。クセになる」

 明美は両手で顔を覆って思い切り笑った。途中で何度もゴメンと言いながら笑い続けた。
 晴久は、自分を侵食した濃く甘い霧を払うように何度も深呼吸しながら、星の見えない空を眺めた。
 石崎さんと眺めた空も、星は見えなかったな。
 鮮明に思い出せる光景が、ずいぶんと懐かしく感じた。
 明美はようやく笑い疲れたのか、顔から手を離すと一度深呼吸をした。

「オレさ、自分を見てもらえないのがわかっていても、一番近くにいる優越感で生きてたの。ササイさんに近づいてくる奴は当然のように蹴散らして。誰も超絶美女のアケミ様には敵わないからね。それなのにササイさん、気づいたらすっごい遠いトコ見てて、なんでっていうくらい遠い子と仲良くしてた。何その距離感って呆れちゃった。名前も知らない子と年甲斐もなく遊びやがってーって初めのうちは笑ってたけど、未だ名前を教えてもらえず、あんたに興味ないとか足蹴にされて喜んでるって、どんだけマゾなんだよってマジ引いた。けど……絶対にこの子じゃなきゃダメなんだなって、思い知らされちゃった」

 明美はどこか嬉しそうだった。

「名前も、肩書きも、住んでる所も連絡先も知らなくて、会う約束も契約もなーんにもなくて、それで偶然出会い続けるの?  そんなの、お互いがこの人にどうしても会いたいって強く思わなきゃ絶対無理でしょ」

 明美が描いた落書きの三人。明美の両隣から長い手を虹のように伸ばしてつないだ石崎と晴久。
 晴久にとっての「星の友情」。
 明美の目に映った二人の関係。

「オレ、やっと解放されるなって、思えたんだよね。だから……君は、オレの運命の人なんだよ」

 明美は晴久に笑いかけた。嬉しそうに目を細めて晴久を見つめると、大事にしまっていた宝物を静かに手放していくように、涙が頬を伝って落ちた。
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