境界のクオリア

山碕田鶴

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38.天明 一

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 キヨの元気がなくなった。
 孫家族が面会に来たあたりから、話しかけてもぼんやりしていることが多くなった。南大東島の話も出ない。

「佐藤君は、優しいねえ。ありがとうねえ」

 介助のたびに笑顔でお礼を言うのは変わらない。晴久はいつもそうして感謝される。佐藤君として。

「キヨさんは、いつも笑顔ですね」
「笑顔が一番。悲しくても辛くても、私らの時代はみんな笑ってたねえ。島からよう出られんって泣いたのは一度きり」

 はっとして晴久はキヨを見た。ぼんやりと遠くを見るキヨは、もう晴久を見ていない。

「キヨさん」
「……」

 ほんの一瞬だが、また霧の先のキヨを見た気がした。キヨは確かにそこにいた。



「キヨさん、今日も一日ボケーっとしちゃってて、大丈夫っすかねえ。最近急に元気なくなったし。やだなあ」

 職員通用口で、落合が心配そうに晴久に話しかけてきた。
 落合とは職場環境を守るという共通利害ができて、表立った険悪な雰囲気はなくなっていた。

「そういえば広瀬さんって、借金返済終わったの?」
「え?」
「だって、最近あの怖い人に会ってないし。なんかまた雰囲気変わったし」

 落合は先輩に対する敬意が「さん付け」以外なくなっていた。

「落合君が見張らないといけないのは僕じゃないですよね」
「えー当ったり前っしょ。心配しなくてもちゃんと見守ってるから大丈夫だって」

 晴久に対しては、ストーカー行為を公然と話題にするようになっていた。晴久は、巻き込まないで欲しいと困惑する。

「最近、広瀬さんと落合君仲良しですよね。だからですか?  広瀬さん、なんだか雰囲気変わりましたよね」

 川島は、以前にも増して話しかけてくるようになっていた。落合がいる時に限って距離が近い気がして晴久は困惑する。
 晴久の日常は緩やかに変化し続ける。石崎がいてもいなくても直接影響はないが、こうして落合たちと話せるようになったのは石崎のお陰だ。
   考え過ぎるな。気にし過ぎるな。
   言われ続けて呪文のように唱えるうちに、晴久は今まで周りの職員に対して変に構えてぎこちなく接していたことに気づいた。
   最近は少し力が抜けたせいか、ストレスが減った気もする。
   晴久の雰囲気が変わったと言われるのも、石崎に出会ったからだろう。どう変わったのか誰も言わないのでわからないが、悪い意味ではなさそうだ。
 石崎が晴久を変えようとしたわけではない。晴久は、変わるきっかけをもらったのだ。
 まるで、星の友情を信じて運命の相手に出会ったような感覚。出会わなければいけない人を見つけた錯覚。
 晴久は奇跡の夢物語を本気で信じていたわけではない。ただ、こじつけで構わない。そういう存在として石崎は現れた。
それなのに、僕は何をためらっている?

「……広瀬さん、聞いています?  この後みんなでご飯行くんですけど」
「ああ、すみません。これから用事が……」

 晴久が川島を見ると、川島の方から目を逸らした。今までは怖いほどに凝視してきたのに。不思議に思って落合を見ると、落合は不機嫌そうに寄ってきて耳打ちした。

「広瀬さんヤバイ感じなんだってさ。俺にはわかんないけど、なんか女子連中に言われてるよ」
「は?」

   ヤバイの意味がわからない。

「えー、残念です。たまには来てくださいよ。今度同コンっぽいのがあるんですけど、広瀬さんもどうですか?」

 川島とよく一緒にいる職員たちが話しかけてきた。こちらも社交辞令が通じなさそうだ。

「広瀬さんのタイプの女の子ってどんな人ですか?」
「え?  ……考えたことないです」
「えー、じゃあどんな子だったら一緒に遊びに行ったりしたいですか?」
「いえ、特には……」
「こういう人いいなっていうのは?」

 かなりプライベートなことをどうして簡単に訊けるのか晴久には理解できない。落合を見ると今度は無視された。
   仕方なく、晴久は思いつくままを言ってみた。

「え、と。年上で。ちょっと怖そうで。いつも仕事で疲れている感じで。声をかけにくそうな人」
「ええー?  なにそれ。具体的ですよー」

 本当だ。姿が目に浮かんでしまった。

「でも、それってフロア長さんじゃないですか?  もう、やだぁ。広瀬さん、はぐらかしたー」

 川島たちは楽しそうにキャッキャと騒いでいる。落合も苦笑いしているが、想像したのはフロア長ではないだろう。

「広瀬さんって、本当に雰囲気変わりましたよね」

 川島は優しく包み込むように言った。
   あなたのことをわかっていますよという微笑みで晴久を見る。今度は目を逸らさないという意思を感じる。
 あなたが変わっても私は受け入れます。私は寛容なんです。安心していいのよ。
   晴久にはそう聞こえてしまう。
 僕は、支配されるこの感じが苦手なんだ。
 それを伝えるのは、いつもの曖昧な笑顔だ。伝わるはずがないと苦笑して、それで更に誤解を生んだ気がした。
 にらんでくる落合に、晴久は心の中で謝った。
 川島さんは自分で作った僕のイメージには寛容でも、きっと僕本人には不寛容だろう。 
   そう思いながら職員通用口を出た。
 ……怖そうで、疲れている感じで、声をかけにくそうで……
   ひとつもいいことを言っていない。
   明美だったらそこは否定せずに、それでもかっこいいと言い張るに違いない。
   晴久は、ライブハウスで見たササイシンの姿を思い浮かべなかったことに気づいた。
   明美の方は、アケミでありアキヨシであり、結局ひと続きの明美という存在としてすんなり受け入れている。
   ササイシン、か……。
   晴久の知る石崎と明美たちが呼ぶササイが一致しない。
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