境界のクオリア

山碕田鶴

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35.真意 二

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 駅前でいつものようにベンチに座って、人の往来を見ながら心を落ち着ける。
 晴久の仕事帰りの習慣は変わらない。
 石崎に出会ってから、こうしてひとり水底に沈むことが少なくなっていた。偶然に出会うたび、石崎が晴久を消してくれたからだ。
 深く暗い水底で、晴久は石崎の存在を感じるまま揺られ漂う。
   何も考えられなくなるほどの陶酔。溺れる苦しささえ懇望する狂気。安らかな静寂。
 依存、中毒……石崎に色々言葉を並べられそうだから、決して知られたくない情動だ。オトモダチと割り切っていれば、それを理由に石崎を頼る自分を許せたはずだった。
 頼ってはいけない。
 伸ばしかけた手を止める何かが、晴久の中にある。穏やかに笑える未来に向かってはいけないという忠告が聞こえてくる。
   不安しかなかった世界の外は眩しすぎて怖い。慣れ親しんだストレスの感覚にこそ安心する自分がいる。
 晴久は一度深呼吸をする。
 石崎を想いながら沈む水底は静穏だった。二人で酔っ払いのようにもたれあった夜と同じ、柔らかな闇。
 晴久がどれだけ遠ざけても消えなかった声はどこからも聞こえない。
 石崎を想うと、自分を消さなくても明日を生きられる。自分が続いていると実感できる。
 こんなにも温かくなれるのに、どうして不安になるのか。
   自分から手を伸ばせ。
   境界の向こうからかすかに聞こえてくる石崎の声。遠過ぎる。遠過ぎるから安心する。
 石崎に近づけない原因は、結局晴久を抑え込む晴久自身だ……。

「あっれぇー?  今日はこっちなの?  いつも西口なんじゃなかったっけぇ」

 突然声をかけられて晴久は戸惑った。
 ベンチの前にすらりとした長身の青年が立っている。ややウェーブのかかった自然な明るさの短髪に、整った中性的な容姿が目を惹く。
 かっこいいな。晴久は思わず見入ってしまった。
 声はどこか聞き覚えがあるものの、全く記憶にない。

「やっぱわかんないかぁ、お客君」

 お客君?

「あ……明美さん?」

 晴久をお客君と呼んだのは、ライブハウスで会った明美と憲次郎だけだ。

「そう。久しぶりぃー。ああ、コッチだと初めまして?」
「あ、初めまして」

 青年の爽やかな笑顔が消えた。

「……って、それだけ?  なんかこう、もっとないの?」
「え、と。気づかなくて失礼しました」

 いきなりポンと両肩に手を置かれ、晴久は緊張で体を固くした。なんとなく肩を揉まれている。

「そうじゃなくてさぁ。反応薄ーっ。つまんねー、ササイさんかよ。君に何したら驚くかなあ」

 見た目も話し方も全く異なるが、確かに明美だ。明美とわかれば明美に見えるが、雰囲気まで違う気がする。

「まぁいいや。でも何で東口?  つい声かけちゃった」
「石崎さんに聞いたんですか?  別に毎日西口の同じ場所にいるわけではないです。それだとさすがに怪しまれそうですから」
「ああ、ササイさんに会えそうな時だけ同じ場所にいたってことか」
「いえ、そんなつもりじゃ……。明美さんはこの辺の人なんですか?」
「前に教えたじゃん、ササイさんと同居しているって。居候だけど。歩いたら二十分くらい?  あ、全然知らないんだっけ。ヤバ。情報漏洩」

 居候ってどういうことだろう。ただの仕事仲間?  音楽関係の人?  明美さんは何している人?
 晴久の頭は疑問で溢れ返っていた。だが自分が立ち入ることではない。踏み込み過ぎになる。

「ほんっと、なーんにも知らないんだねぇ。しかも、知りたいけど訊いたらお仕置きされちゃうみたいな我慢している感じ、見てて色々ヤバイな。目隠しで放置とか、ササイさん何やってるんだか……」
「……もうちょっと違う例えはないでしょうか……」
「ムリムリ。ササイさんじゃないんだから。まあ聞き流してよ」

 石崎と大差ない。晴久は少し思った。

「せっかく会ったしぃ、オレの自己紹介だけしてあげるよ」

 明美は晴久の隣に座った。少し離れたところから明美を気にしてチラチラと見ていた女の子のグループに、さりげなく笑顔で応える。

「何?  オレはササイさんと違って愛想がいいんだよ」

 明美が常にササイの名を出すのが微笑ましかった。

「え、と。初めまして?  今はアケミじゃなくてアキヨシです。明るい美しいでアキヨシ。こっちが本名、かな。これでもアケミは結構ライブで歌ってて、固定のファンもいてくれたりするんだけど、プロじゃないからバイトだらけの不定就労者です。定職に就いてるお客君から見たら、テキトーな人生って感じ?」

 ライブハウスで会った明美は人を威圧するような強さがあったが、目の前でふわりと笑う青年はとても繊細そうに見えた。
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