境界のクオリア

山碕田鶴

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32.天望 三

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 街灯に照らされた路面をぼんやりと見ながら、晴久はふわふわとした心地良さを感じていた。石崎の肩に頭をもたれかけて、石崎もまたそっと頭を寄せて、二人で酔っ払いのようにベンチに座っている。
   こんなに穏やかで柔らかい時間が自分に訪れるとは思わなかった。
 幸せに耐性がないと自覚している晴久が安心して静穏の中にいられるのは、これがすぐに終わると知っているからだ。寂しさが自分を冷静でいさせてくれるからだ。

「これから、どうする?」

 石崎は晴久から頭を離して静かに訊いた。終わりの合図。

「お前、私といるとキツいだろう?  このままオトモダチを続けられると思うか?」

   いつもと変わらない穏やかな声で、晴久は予想したとおりの言葉を聞かされる。
   何も驚くことはない。既に、続いてはいなかった。

「……無理だと思います」
「そうだな。オトモダチは解散だろうな」

 あまりにもあっけない、そして二人にはふさわしい終わり方だ。だから、それでいい。

「今までお世話になりました」
「はい。お世話をしました。それはそれは丁寧に……」

 石崎が小さく溜息をついた。片手で顔を覆って、それから髪をかきあげる。また、深く溜息をつく。うつむいたままの晴久は、石崎の仕草を気配で感じていた。

「ずいぶんとあっさりだな」
「前から避けられているの、わかっていましたから」
「いつ避けた? 」
「偶然に会うことが急に減って……会っても挨拶くらいで……」
「あー……。明美のライブや他の仕事で諸々スケジュールが押していた時期か。お前が気にしているとは考えなかった。すまなかった」
「気にしていません」
「思っているなら否定するな。だいたい、なぜ私がお前を避ける必要がある?  私は不変の安定だと言ったろう。変わったとすればお前の方だ」

 そう。僕が変わった。だから関係を壊した。

「すみません。これだとなんだか痴話喧嘩みたいですよね」
「まったくだな」

 石崎は首を傾けて、もう一度自分の頭を晴久の頭につけた。

「なあ。私はお前を責めているわけではない。オトモダチのままでは無理だと言っただけだ。わかるか?」

 晴久は小さく首を横に振った。わかるわけない。僕は、自分もわからない。

「オトモダチにならなってもいいと最初に言ったのは確かに私だ。お前はそれでも会いに来た。だから、詮索も束縛もいっさいない本当に薄い関係がお前には丁度なんだと思っていた。私もそれで居心地が良かった。……私は酷いことをしたな。結局、その関係が逆にお前を縛りつけて不自由にしてしまった」

   酷いことをした。
   その言葉は知っている。そう言われて、僕は忘れ去られる……。

 ゴッ!

 石崎が、一度離した頭を今度は強くぶつけてきた。

「痛っ!」
「今、何を考えた?  お前は変な人生経験ばかり豊富で、後ろ向きなマニュアルを山ほど持っている。面倒だな。自分をポジティブだと思っているなら、そんなものは役に立たないから捨てろ。私は酷いことをしたが謝らない。酷いことをしたし酷いこともしたが、酷いだけではなかったろう?  後悔はないし忘れる気もない」
「……変な意味を混ぜないで下さい」
「どこに混ぜた?  お前が勝手に色々想像しているだけだろう?」
「なんで石崎さんの話はそっちの方に向かうんですか。僕はそういうの苦手なんです。恥ずかしいし……」
「だからしている。というより、お前とは他に話すことがない。お互い何も知らないのだから仕方ないだろう。……お互いのことに触れない、そういう関係だった」

 石崎は、晴久に頭をごりごり擦りつけてきた。

「イタタタタタッ」
「お前は、遠いな。どこまでも遠い。人と関わりたくない私でさえそう思う。オトモダチという設定だから割り切っているのかと初めは思っていたが……いつからだろうな。私の思いどおりにしなければ捨てられる、お前はそんなふうだった。嫌われるのが怖くてずっと怯えている感じで、息を潜めて遠くからじっと私を観察する。私にはそう見えた。まあ、お前は無意識にやっているのだろうから、最初に会った時からそうだったのかもしれない。私が不用意に近づくとすぐに威嚇してきて、警戒心も強かった。無理やり近づけばきっとお前は壊れる。遠いまま、離れることもなく、それなりにバランスを取ってきたつもりだったが、難しいな。少し懐いてきたかと思った途端に、お前はどんどん私を避けるようになった。私がオトモダチと言ったせいで、余計にややこしくさせた」

 結局、僕は石崎さんの理想のオトモダチになれなかったということだ。

「ごめんなさい。僕は……また望まれたとおりにできなかった……」
「またってなんだ?  お前の過去と一緒にするな。私は責めていないと言ったろう」

 石崎はゆっくりと頭を離した。晴久も石崎から離れる。フラフラした感覚は消えていた。

「どうする?」
「どうって、オトモダチは解散だって……」
「少し惜しくなった」
「今さら何言ってるんですか。何が惜しい……あ、言わなくていいです」
「まだ何も言っていない」
「だから、終わったことはもう言わなくていいです」
「終わった、か。お前本当にスパッと切り替えが早いな」
「石崎さんがウジウジなんです」

 石崎は苦笑しながら、こういうのが惜しいんだと独り言のように言った。

「オトモダチを解散する。それは今この時点のことだ。私は、その先をどうするかと訊いている。お前にはすっかり終わったことにされたが、私は終わる気はない。お前次第だがな。私にはお前の距離感がわからない。欲しいなら、お前から手を伸ばせ。お前が近づいた分だけ私も近づく。お前と私の距離は、等しい。終止ではなく複縦。そして転調だ。それでどうだ?」
「ふくじゅう?……てんちょう……」

 石崎は腕を前に出して、人差し指を縦に二回振った。

「複縦、終わりではなく大きな区切りだ。その先は変化だ」

 変化。この先も続いていくということ……?
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