境界のクオリア

山碕田鶴

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30.天望 一

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 雨は既に止んでいた。あまり降らなかったのか、どこにも濡れた跡はなく夜空はすっきりと晴れ渡っていた。
 まだ人通りの残る車道脇の道を晴久と石崎は無言のまま歩く。
 少し前を行く石崎は相変わらず近寄りがたい雰囲気だが、晴久は無視されている気はしなかった。
 遠いのに居心地の良い距離感。
 この人はどうして僕に声をかけてくれるのだろう。どうして僕を見つけてくれるのだろう。どうして石崎という名を……
 気づくと駅前のペデストリアンデッキまで来ていた。

「石崎さん……」

 晴久はそっと呼んでみた。
 石崎は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
   僕は、その名が嘘だと知っている。

「石崎さんは……石崎さんですよね?」
「そうだ。石崎だ」

 平然と、嘘をつく。その嘘はどこまで遡ればいいのだろう。

「それならササイっていうのは芸名みたいなもので、本名がイシザキさんなんですか?」

 僕も嘘をつく。その名が別の人のものだと、僕はとっくに知っている。

「ササイは本名だ」
「じゃあ、みんなササイさんって呼ぶのに、なんで僕には……」
「だから、お前は石崎でいい」

 嘘偽りなく隠し立てなく、石崎は堂々と晴久に偽名で通す気らしい。
   石崎がそう言う以上、晴久も石崎と呼び続けるしかない。
 石崎はまた歩き出すと、駅入口よりやや外れた植込み前のベンチに座った。晴久がいつもいる場所だ。
 晴久を無表情に見ている。座れということか。
 晴久は、何も言わず隣に座った。

「遅くまで待たせて悪かったな。明美に意地悪されなかったか?  あれは口が悪い」
「意地悪って……僕には優しかったです」
「そうか。私には辛辣だからな」

 それは僕のせいだろうか。
   一瞬頭をよぎるが、晴久は罪悪感を遠ざけた。自分が立ち入ることではない。

「今日、楽しかったです。友達みたいに話したり笑ったり……僕は、そういうの初めてで……明美さんも憲次郎さんもすごくいい人でした。僕の方こそ、失礼じゃなかったかな。嫌われることはなかったと思うんですが」

 明美にも、なぜか嫌われた感じはしなかった。

「気になるか?」
「え?  あ、すみません。無意識にやっぱり嫌われていないかっていうのは気になってしまって……。でも最近は、嫌われたくないっていう不安はなくて、僕を正しく評価しているから嫌うんだ、僕のことをわかっているんだなって思ってしまうんですけど」
「前向きに歪んでいるな。変な開き直り方を身につけたものだ」
「はは……。でも、どんなに嫌われても、存在しないものとして扱われるよりマシだと思います。僕自身は自分が存在しないと思うことで安心しておきながら、他人には見て欲しいって……ホント歪んでいますね」
「お前はどうやってその強さを手に入れた?」
「強くなんかありませんよ。だって……」

 あなたに会いたいと願ってしまった。
 生き続けて、みんなと同じように普通に他人と関われるようになって、その先に出会うはずの運命の相手を待てなかった。
   ほんの少し気にかけて優しくしてくれただけのあなたに近づこうとしてしまった。
   あなたの言うオトモダチの関係を僕は踏み越えようとしてしまった。

「今だって、母の言葉に縛られたままでいる。自分を変えたい。変わりたい。自分を縛っているのは自分自身だとわかっているのに、できないでいる。母はもう僕を直接縛ることなんてないのに、僕の全てを縛り続けるんです」

   あなたはいらない。その言葉が怖くて、絶対に言われたくなくて、僕は誰にも近づけない。

「……ああ、よくドラマとかでありますよね、音信不通になった親子が和解して過去を乗り越えるとか。周りの人が、親子なんだからとか言って仲裁してハッピーエンドとか。否定はしませんがそれは僕には絶対ムリです」

 語気が強くなった気がして晴久ははっとしたが、石崎は特に気にしたふうもない。

「恨む、とは違うんです。そんな簡単なものじゃないです。僕は人生やり直したいと思ったことはありません。別の人生なら、結局それは僕じゃないから……」

 石崎は空を見上げた。

「星は見えないな」

 晴久も見上げる。

「あるはずなんですけどね」

 駅や周辺の高層ビルの明かりが、星を隠している。星を気にする人はいない。

「僕は、いつか出会わなければいけない人がいると信じたから今まで生きてこられたんです」
「出会わなければいけないとは、ずいぶんと積極的だな」
「基本、僕は積極的でポジティブなつもりです。僕には遠いどこかで見てくれている人がいて、この先出会わなければいけなくて、出会えたらきっと僕は変われると信じてきました。それこそ世界が変わるっていうくらいに。別に助けて欲しいんじゃないんです。頼りたいわけでもないんです。自分の心は自分にしか救えないけれど、そのきっかけをくれる気がするんです」
「前に言っていた生きる希望か。それが星の友情か」
「はじめは小学生の妄想でしたけど。また、幻想だって笑われますね」

 いや、と石崎は軽く首を振った。

「会えるといいな」

 晴久を応援するような静かで穏やかな声に、なぜか晴久は胸が苦しくなった。湧き上がる寂しさを払うように、晴久は笑ってみせた。
   僕は、きっとまた変な顔で笑っている。
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