27 / 65
27.慈雨 四
しおりを挟む
「そうですか」
晴久はステージにいる石崎を見た。店長と思しき貫禄のある年配の男と談笑している。
あの人でも普通に笑うんだ。
「あーあ。つまんないわね。反応なし?」
明美は呆れたように晴久を見た。
「あの、僕、石崎さんとは何でもないですから。ただの偶然の……知り合いです」
「あっそ。じゃあ、ササイさんいじって遊ぶからいいや」
明美は意味ありげな視線を晴久に送ってから、もう一度「あーあ」と溜息混じりに声に出した。
晴久は、明美の大げさな動きをぼんやりと見ていた。
石崎さんの生活は、僕の立ち入る領域ではない。
明美と石崎がどんな関係であろうと、晴久にはどうでもいいことだった。二人のこれまでの関係も、自分が存在することで変わるかもしれないこれからの関係も、晴久にはどうすることもできない。
だから……。
……トンッ。
記憶の中の感触がふっとよみがえった。
小学生だった晴久の背中を押した大きな手だ。
窓から見た夕焼け。散る梅。枯れた水仙。冷たく湿った土。
カビと鉄さびの匂いが混じった赤茶色の景色の中に引き戻される感覚に、晴久は頭を振って抗った。
自分が存在することで変わってしまったのかもしれない父母の関係。自分がいなければ穏やかだったかもしれない父母。自分にはどうしようもない過去。自分にはどうしようもない自分。
だから、僕を責めないで。
ああ、そうか。ちゃんと父の記憶もあったんだな。
欄干の前で石崎に話した時には感じなかった手の温かさを晴久は今思い出していた。
「あの……さ。ひとつ、訂正しておくから」
明美がおずおずと切り出した。
「一緒に暮らしてる、じゃなくて居候。ただの居候」
「え? そうなんですか。でも、なんで……」
「あなたが泣きそうだったから」
「泣きそうって……」
「わかってるわよ。別にアタシは嫉妬なんかされてないって。それもなんか負けたみたいでムカつくんだけど、でもなんかアタシの言葉で変な顔したからさ」
「変な顔……で笑ってる?」
「そうっ、それよ。なんか酷いことしたみたいで後味悪いのよ」
晴久は、石崎にも変な顔で笑っていると言われたことを思い出した。
「明美さーん、もう帰れますー?」
突然、大声で呼ぶ声がした。
フロア入り口から大柄な男が明美に近づいて来る。
「上は片付けたんで、ワタルたち先に帰りましたよー?」
明美も背が高いが、さらに頭一つ大きい。年は明美と同じくらいか。強面だが、晴久に気づくと人懐っこい笑顔になった。
「どーもー。なんすか、この子?」
晴久に挨拶して、それから明美に訊く。晴久は黙って会釈した。
「ササイさんのお客ぅ」
「ひぇっ? お客? ササイさんに?」
かなり驚いた様子で晴久をまじまじと見る。
「ちょっと明美さん、失礼なことしてないすか? なんかオドオドしてますよ。いじめたりしてないですよね。ササイさんに怒られますよ?」
「してないわよぉ、失礼ねえ。ケンちゃん誰の味方よ?」
「えー? もちろん明美さんっすよ。ああ、もう一回。どうもです。憲次郎です。明美さんのサポートでイロイロやってます。もちろんササイさんほどじゃあないすけど」
「こんばんは。……お邪魔しています」
晴久ももう一度会釈した。失礼だとは思ったが、名乗ることはできなかった。
「その子、ササイシン知らないわよ」
「そうなの? 仕事関係じゃないんだ。へえ」
憲次郎はあっさり言った。明美のように責める様子はないので晴久はホッとした。
イロイロってなんだろう。世界が違い過ぎて全くわからない。
「アタシは、この子に好きな曲訊いてただけなのぉ」
「明美さんは存在が怖いんすよ。だいたい、音楽の話さえすりゃ仲良くなれると思ってません?」
「仲良くなんてしないわよ。こんな、体も存在感もうっすい子、全然タイプじゃないし」
「ひっどいなあ、何すねてるんですかあ? お客君、口が悪くてごめんねぇ。って、明美さん! この子全然薄くないっすよ。ほらっ、細いけど鍛えてますって」
憲次郎は強引に晴久を明美の前に差し出した。
「うわっ、ちょっと、いきなり触らないで下さいっ。何しているんですかっ」
「気にしない気にしない」
明美は服の上から晴久の肩や脇腹をポンポンと叩いてまわった。軽く触れる程度ではあったが、晴久は緊張と恥ずかしさで涙目になっていた。
「やめて下さいって。なんか石崎さん睨んでいますよ? 部外者がうるさくしてすみませんっ。だから離して下さいって」
「あー、いいのよ。どうせ自分だけ仲間はずれで寂しいだけだから。それとも、自分も触りたいのかしらね?」
明美は冷たく言い放った。
「ひえー」
憲次郎が言う横で、晴久も同じことを口に出さず叫んでいた。
憲次郎は、やっと解放されて息を切らせる晴久の頭をなでながら不思議そうに訊いた。
「でも石崎さんって……ササイさんのところの事務の人でしょ? いつも電話連絡だけで、今日も来てないと思うけど……」
明美は何も言わなかった。
晴久は、自分の勘違いを理解した。男は「事務の石崎という人が許可したと言えばいい」と話したつもりだったのだろう。
それならば、なぜ晴久の呼びかけに返事をしたのか。明らかな嘘をそのままにして、なぜ訂正しないのか。
晴久はステージにいる石崎を見た。店長と思しき貫禄のある年配の男と談笑している。
あの人でも普通に笑うんだ。
「あーあ。つまんないわね。反応なし?」
明美は呆れたように晴久を見た。
「あの、僕、石崎さんとは何でもないですから。ただの偶然の……知り合いです」
「あっそ。じゃあ、ササイさんいじって遊ぶからいいや」
明美は意味ありげな視線を晴久に送ってから、もう一度「あーあ」と溜息混じりに声に出した。
晴久は、明美の大げさな動きをぼんやりと見ていた。
石崎さんの生活は、僕の立ち入る領域ではない。
明美と石崎がどんな関係であろうと、晴久にはどうでもいいことだった。二人のこれまでの関係も、自分が存在することで変わるかもしれないこれからの関係も、晴久にはどうすることもできない。
だから……。
……トンッ。
記憶の中の感触がふっとよみがえった。
小学生だった晴久の背中を押した大きな手だ。
窓から見た夕焼け。散る梅。枯れた水仙。冷たく湿った土。
カビと鉄さびの匂いが混じった赤茶色の景色の中に引き戻される感覚に、晴久は頭を振って抗った。
自分が存在することで変わってしまったのかもしれない父母の関係。自分がいなければ穏やかだったかもしれない父母。自分にはどうしようもない過去。自分にはどうしようもない自分。
だから、僕を責めないで。
ああ、そうか。ちゃんと父の記憶もあったんだな。
欄干の前で石崎に話した時には感じなかった手の温かさを晴久は今思い出していた。
「あの……さ。ひとつ、訂正しておくから」
明美がおずおずと切り出した。
「一緒に暮らしてる、じゃなくて居候。ただの居候」
「え? そうなんですか。でも、なんで……」
「あなたが泣きそうだったから」
「泣きそうって……」
「わかってるわよ。別にアタシは嫉妬なんかされてないって。それもなんか負けたみたいでムカつくんだけど、でもなんかアタシの言葉で変な顔したからさ」
「変な顔……で笑ってる?」
「そうっ、それよ。なんか酷いことしたみたいで後味悪いのよ」
晴久は、石崎にも変な顔で笑っていると言われたことを思い出した。
「明美さーん、もう帰れますー?」
突然、大声で呼ぶ声がした。
フロア入り口から大柄な男が明美に近づいて来る。
「上は片付けたんで、ワタルたち先に帰りましたよー?」
明美も背が高いが、さらに頭一つ大きい。年は明美と同じくらいか。強面だが、晴久に気づくと人懐っこい笑顔になった。
「どーもー。なんすか、この子?」
晴久に挨拶して、それから明美に訊く。晴久は黙って会釈した。
「ササイさんのお客ぅ」
「ひぇっ? お客? ササイさんに?」
かなり驚いた様子で晴久をまじまじと見る。
「ちょっと明美さん、失礼なことしてないすか? なんかオドオドしてますよ。いじめたりしてないですよね。ササイさんに怒られますよ?」
「してないわよぉ、失礼ねえ。ケンちゃん誰の味方よ?」
「えー? もちろん明美さんっすよ。ああ、もう一回。どうもです。憲次郎です。明美さんのサポートでイロイロやってます。もちろんササイさんほどじゃあないすけど」
「こんばんは。……お邪魔しています」
晴久ももう一度会釈した。失礼だとは思ったが、名乗ることはできなかった。
「その子、ササイシン知らないわよ」
「そうなの? 仕事関係じゃないんだ。へえ」
憲次郎はあっさり言った。明美のように責める様子はないので晴久はホッとした。
イロイロってなんだろう。世界が違い過ぎて全くわからない。
「アタシは、この子に好きな曲訊いてただけなのぉ」
「明美さんは存在が怖いんすよ。だいたい、音楽の話さえすりゃ仲良くなれると思ってません?」
「仲良くなんてしないわよ。こんな、体も存在感もうっすい子、全然タイプじゃないし」
「ひっどいなあ、何すねてるんですかあ? お客君、口が悪くてごめんねぇ。って、明美さん! この子全然薄くないっすよ。ほらっ、細いけど鍛えてますって」
憲次郎は強引に晴久を明美の前に差し出した。
「うわっ、ちょっと、いきなり触らないで下さいっ。何しているんですかっ」
「気にしない気にしない」
明美は服の上から晴久の肩や脇腹をポンポンと叩いてまわった。軽く触れる程度ではあったが、晴久は緊張と恥ずかしさで涙目になっていた。
「やめて下さいって。なんか石崎さん睨んでいますよ? 部外者がうるさくしてすみませんっ。だから離して下さいって」
「あー、いいのよ。どうせ自分だけ仲間はずれで寂しいだけだから。それとも、自分も触りたいのかしらね?」
明美は冷たく言い放った。
「ひえー」
憲次郎が言う横で、晴久も同じことを口に出さず叫んでいた。
憲次郎は、やっと解放されて息を切らせる晴久の頭をなでながら不思議そうに訊いた。
「でも石崎さんって……ササイさんのところの事務の人でしょ? いつも電話連絡だけで、今日も来てないと思うけど……」
明美は何も言わなかった。
晴久は、自分の勘違いを理解した。男は「事務の石崎という人が許可したと言えばいい」と話したつもりだったのだろう。
それならば、なぜ晴久の呼びかけに返事をしたのか。明らかな嘘をそのままにして、なぜ訂正しないのか。
1
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
【BL】国民的アイドルグループ内でBLなんて勘弁してください。
白猫
BL
国民的アイドルグループ【kasis】のメンバーである、片桐悠真(18)は悩んでいた。
最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。
(同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!)
(勘違いだよな? そうに決まってる!)
気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺(紗子)
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(10/21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
※4月18日、完結しました。ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる