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26.慈雨 三
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来た時とは別の階段を下りて地下一階のドアを開けると、フロアのステージ袖に出た。壁際に置かれた楽器や機材を避けながら明美に続いて進む。
ステージでは、ノートパソコンが置かれた小さな演台の前で男とスタッフが話し合っていた。
スタッフがお辞儀をしてその場を離れる。話は終わったらしい。
「石崎さん!」
体をかがめてノートパソコンの画面を見続けている男に、晴久は思わず声をかけた。
「なんだ? まだ待っていなさい」
顔を上げゆっくりと振り向いた男は、晴久の隣に立っている明美に驚いた様子だった。
晴久は明美を見た。
ほら、石崎さんだ。
明美は晴久を見て、それから男を見て肩をすくめた。
「ごめんなさぁい。アタシが連れて来ちゃったの。彼に中を案内してあげているから」
明美は間延びした口調で素直に謝った。やや低めで甘く濃い霧のような声が心地良い。
「わかった」
男、石崎は無表情にそれだけ言うと他のスタッフの元へ向かった。
石崎の態度は素っ気なかった。明美は気にする様子もないので、いつもこんな感じなのだろうか。
晴久はキョロキョロとフロアを見回した。ライブハウスに入ること自体が初めてなので、今の状況が全くわからない。
「今はスタッフと関係者だけよ。ゲネ……通しのリハーサルだったから。上の階は貸しスタジオがあるから人がいるけれど」
明美は晴久の心が読めるかのように話しかけてくる。晴久は、意識していない気持ちまで読まれそうで少し緊張した。
明美は、そこに居るだけで人目を惹く存在感があった。石崎とはまた違い、凛とした強さを感じる。
その堂々とした雰囲気に晴久はつい見とれた。この人が歌ったらみんな洗脳されそうだな。そう思っていると明美が笑った。
「なあに? 悪いけどアタシ年下には興味ないわよ」
「あの、凄く綺麗な声だと思って……」
晴久は思ったままを口にした。
「……ありがと。褒めてもらって嬉しいけれどアタシに興味がないってよくわかったわ」
「?」
「こんな美女を前にして、声だけはいい、みたいなその感じ。なんかムカつく」
「え……と。すみません」
晴久は憤慨している明美にとりあえず謝った。
社交辞令のつもりはなかったのに何がダメだったのだろう。難しい。
考え込む晴久を見て、明美は溜息をついた。
「まあいいや。ここで明後日ライブやるのよ。歌うのはアタシ。ササイさんは下準備と、ちょっと挨拶に出てくれるって言うから進行見て……って、あなたササイシンを知らないんだっけぇ?」
晴久が首を傾げたのが気に入らなかったのか、明美は不満そうだった。
「こういうトコも初めて?……だわね。音楽全然聴かないの? 好きな曲とかないわけ?」
「え、と。尋常小学校唱歌なら知っていますけど、好きっていうのは……」
「じんじょー? なぁによそれ?」
「あ、すみません。僕、介護施設で働いているので、ボランティアさんが昔の歌をよく歌いに来て下さってて、それで覚えて」
「じじばばって、小学校の歌で喜ぶの?」
「うーん、どうでしょう。懐かしいというのはあると思います」
「アタシが年取って施設に入ったら、もっと派手なのにしてもらいたいわね」
「明美さんはご自分で歌って下さい」
「そうよねぇ」
晴久は明美の名を自然に口にしていた。まともに友達づきあいをしたことがない晴久は、初対面でこんなに馴れ馴れしくていいのかと、加減がわからず急に不安になった。
「あ、すみません。気安く名前を呼んでしまいました」
「ん? 変な子ねぇ。別に構わないわよ。許す。まぁ、アケミ様でもアケミお嬢様でも悪くはないけどぉ」
晴久のぎこちない反応を明美が気にした様子はない。ホッとしていると、ステージ奥の石崎と目が合った。
石崎はすぐに目を逸らしたが、明らかに晴久の様子をうかがっていた。
「訳わかんないなぁ。音楽に興味無くてササイシンを知らなくて、それでササイさんがこんな若い子連れて来るって、何なの? だいたい、用事で仕方なく外に出るだけでほぼ在宅勤務みたいな人がどうやって接点ゼロの子と知り合うのよ。ああ! イカガワシイ系とかぁ?」
戸惑う晴久を見て明美は楽しそうに笑った。コロコロと変わる感情の動きがそのまま伝わって来る。
「あの、在宅勤務……なんですか?」
晴久はつい訊いてしまった。言って後悔した。詮索するようなことはしたくない。そもそも明美に尋ねるのが間違っている。
「そうよ。ほんっと出ないから。ここ来るのも面倒臭がってさ。そんなに歩くの嫌ならタクシーで来いっての。車なら五分よ、五分」
「そう……ですか」
電車通勤ではなかったのか? いつも終電を気にしていなかったか?
石崎さんって何をしている人なんだろう。
気になることがたくさんある。だが晴久は、何も訊いてはいけない気がした。
石崎は晴久の名前を訊かない。晴久も自分から尋ねてはいないが、教えられた「石崎」が偽名だとするならそれ以上何を訊けるというのか。
「気になるならササイさんに直接訊けばぁ?」
明美はじっと晴久を見つめてきた。私は教えてあげないわよと目で告げている。
晴久はそっと目を逸らした。明美の視線は強過ぎる。
晴久の動揺を拾い上げて弄ぶかのように、明美は晴久の耳元でささやいた。
「ねえ。ササイシンを知らないあなただから、ひとつ教えてあげる。アタシ、今ササイさんと一緒に暮らしてるの。なーんか、春くらいから外泊が増えたんだよね」
明美は笑っていなかった。
ステージでは、ノートパソコンが置かれた小さな演台の前で男とスタッフが話し合っていた。
スタッフがお辞儀をしてその場を離れる。話は終わったらしい。
「石崎さん!」
体をかがめてノートパソコンの画面を見続けている男に、晴久は思わず声をかけた。
「なんだ? まだ待っていなさい」
顔を上げゆっくりと振り向いた男は、晴久の隣に立っている明美に驚いた様子だった。
晴久は明美を見た。
ほら、石崎さんだ。
明美は晴久を見て、それから男を見て肩をすくめた。
「ごめんなさぁい。アタシが連れて来ちゃったの。彼に中を案内してあげているから」
明美は間延びした口調で素直に謝った。やや低めで甘く濃い霧のような声が心地良い。
「わかった」
男、石崎は無表情にそれだけ言うと他のスタッフの元へ向かった。
石崎の態度は素っ気なかった。明美は気にする様子もないので、いつもこんな感じなのだろうか。
晴久はキョロキョロとフロアを見回した。ライブハウスに入ること自体が初めてなので、今の状況が全くわからない。
「今はスタッフと関係者だけよ。ゲネ……通しのリハーサルだったから。上の階は貸しスタジオがあるから人がいるけれど」
明美は晴久の心が読めるかのように話しかけてくる。晴久は、意識していない気持ちまで読まれそうで少し緊張した。
明美は、そこに居るだけで人目を惹く存在感があった。石崎とはまた違い、凛とした強さを感じる。
その堂々とした雰囲気に晴久はつい見とれた。この人が歌ったらみんな洗脳されそうだな。そう思っていると明美が笑った。
「なあに? 悪いけどアタシ年下には興味ないわよ」
「あの、凄く綺麗な声だと思って……」
晴久は思ったままを口にした。
「……ありがと。褒めてもらって嬉しいけれどアタシに興味がないってよくわかったわ」
「?」
「こんな美女を前にして、声だけはいい、みたいなその感じ。なんかムカつく」
「え……と。すみません」
晴久は憤慨している明美にとりあえず謝った。
社交辞令のつもりはなかったのに何がダメだったのだろう。難しい。
考え込む晴久を見て、明美は溜息をついた。
「まあいいや。ここで明後日ライブやるのよ。歌うのはアタシ。ササイさんは下準備と、ちょっと挨拶に出てくれるって言うから進行見て……って、あなたササイシンを知らないんだっけぇ?」
晴久が首を傾げたのが気に入らなかったのか、明美は不満そうだった。
「こういうトコも初めて?……だわね。音楽全然聴かないの? 好きな曲とかないわけ?」
「え、と。尋常小学校唱歌なら知っていますけど、好きっていうのは……」
「じんじょー? なぁによそれ?」
「あ、すみません。僕、介護施設で働いているので、ボランティアさんが昔の歌をよく歌いに来て下さってて、それで覚えて」
「じじばばって、小学校の歌で喜ぶの?」
「うーん、どうでしょう。懐かしいというのはあると思います」
「アタシが年取って施設に入ったら、もっと派手なのにしてもらいたいわね」
「明美さんはご自分で歌って下さい」
「そうよねぇ」
晴久は明美の名を自然に口にしていた。まともに友達づきあいをしたことがない晴久は、初対面でこんなに馴れ馴れしくていいのかと、加減がわからず急に不安になった。
「あ、すみません。気安く名前を呼んでしまいました」
「ん? 変な子ねぇ。別に構わないわよ。許す。まぁ、アケミ様でもアケミお嬢様でも悪くはないけどぉ」
晴久のぎこちない反応を明美が気にした様子はない。ホッとしていると、ステージ奥の石崎と目が合った。
石崎はすぐに目を逸らしたが、明らかに晴久の様子をうかがっていた。
「訳わかんないなぁ。音楽に興味無くてササイシンを知らなくて、それでササイさんがこんな若い子連れて来るって、何なの? だいたい、用事で仕方なく外に出るだけでほぼ在宅勤務みたいな人がどうやって接点ゼロの子と知り合うのよ。ああ! イカガワシイ系とかぁ?」
戸惑う晴久を見て明美は楽しそうに笑った。コロコロと変わる感情の動きがそのまま伝わって来る。
「あの、在宅勤務……なんですか?」
晴久はつい訊いてしまった。言って後悔した。詮索するようなことはしたくない。そもそも明美に尋ねるのが間違っている。
「そうよ。ほんっと出ないから。ここ来るのも面倒臭がってさ。そんなに歩くの嫌ならタクシーで来いっての。車なら五分よ、五分」
「そう……ですか」
電車通勤ではなかったのか? いつも終電を気にしていなかったか?
石崎さんって何をしている人なんだろう。
気になることがたくさんある。だが晴久は、何も訊いてはいけない気がした。
石崎は晴久の名前を訊かない。晴久も自分から尋ねてはいないが、教えられた「石崎」が偽名だとするならそれ以上何を訊けるというのか。
「気になるならササイさんに直接訊けばぁ?」
明美はじっと晴久を見つめてきた。私は教えてあげないわよと目で告げている。
晴久はそっと目を逸らした。明美の視線は強過ぎる。
晴久の動揺を拾い上げて弄ぶかのように、明美は晴久の耳元でささやいた。
「ねえ。ササイシンを知らないあなただから、ひとつ教えてあげる。アタシ、今ササイさんと一緒に暮らしてるの。なーんか、春くらいから外泊が増えたんだよね」
明美は笑っていなかった。
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