境界のクオリア

山碕田鶴

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24.慈雨 一

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 名前も連絡先も何も知らない。
 訊くことも訊かれることもなく、それでも偶然会えば話をする。会わなくても日常は変わらない。
 それが晴久と男の距離だった。
 仕事が早番で、今日は退勤時間も早かった。晴久は昨日より一時間以上早く駅前に来て、こうしてまだベンチに座っている。
   明日は夜勤、次の日は夜勤明け、休みと続くから、この後三日間は駅に来ない。
 それだけで、どうして今日の偶然を期待してしまうのか。自問するが答えはない。
 言い合いをした後から、男が駅前に現れる頻度が減った。言い合いといっても、晴久が一方的に苛立ちをぶつけたに等しい。言わなくていいことも言った。
 男は、まるで深い悲しみの中で泣いているようだった。繊細な心の内をほんの一瞬でも覗いてしまったことに晴久は今も罪悪感を持っている。
 あれは、同情でも憐れみでもない。同調。男が晴久と同じ経験をした感覚になってしまっていたのではないか。
   感受性の強さを無表情に隠していたのか。晴久には想像することしかできない。
 男が晴久を避けているのかはわからないが、会わなくなるのも時間の問題のような気がした。
 謝っておきたい。
 今思えば、男は晴久を心配していただけだ。あの直後からも変わらず声をかけてくれていたのに、晴久は心の中で男を避けた。きっと男は気づいていただろう。晴久と同じだけ遠ざかったのだ。
 会いたい。会って謝りたい。
 ……何を謝る?
 男の心配を疎ましく思った冷たい態度をか。そもそもなぜ謝る?
 ……違う。会いたいから謝りたいのだ。謝るのは口実だ。
 会いたい。ただそれだけだ。
 男に会いたいと思ったのは初めてだった。
 はっきり誰かに会いたいと思ったのも、初めてだ。
 会いたい。
 今、会いたい。
 晴久は空を見上げた。星は見えない。一面の雲が全てを覆い隠していた。
 ……雨だ。
 地面に落ちる暗い点が徐々に広がり、混雑する駅前の誰もが早足になっていく。
 降り出した雨は、晴久の頰を濡らしていった。ポツポツと小さな雨粒に打たれるまま、晴久はベンチから動かなかった。
 僕を知る人は誰もいない。僕は存在しない。
 悲しいと思ったことはなかった。今だって悲しくはない。寂しくもない。
 それなのに、僕はここから動けないでいる。
 願えば叶う偶然なんてあるはずがないのに。
 それでも願わずにはいられない。
 どうか僕がここにいると知って欲しい。
 どうか僕に気づいて欲しい。
 僕のことを見つけて欲しい。
 もし会えたら、僕は……。
   僕は?
 ふいに雨が止んだ。
 見上げると、無表情に晴久を見つめる知った顔があった。

「雨天決行か。本当に、いつもここにいるのだな」

 晴久に傘を差しかける男の声は、やはり穏やかで優しかった。

「天気予報は見なかったのか?」

 本降りになる前でよかったと独り言のように言いながら、男はハンカチで晴久の頭や顔を拭いていく。なおも濡れ続ける晴久の頰を手の甲でさりげなく拭って、呆れたように晴久を見た。
 もし会えたら。

「あの……」

 立ち上がって正面に男を見た途端、あれほど望んでいたはずなのに、まるで伸ばしかけた手を引き戻されるかのように、強い力が晴久の心を抑え込んだ。
 もしこれ以上近づいて、いらないと言われたらどうする?
 晴久を縛る「いらない」という言葉。
   この人には、言われたくない。

「どうした?」

 静かな問いが、晴久の心に波を立てる。

「なんでもない……です」

 ようやくそれだけ言うと、他に話すことは何もなかった。
   会いたかった。その一言は飲み込んだ。
 これ以上近づいてはいけない。そんな言葉がぼんやりと頭に浮かんだ。
 無言で向き合う状況をどうしたらよいかわからないでいると、男が小さく溜息をついた。

「話は終わっていないが今は時間がない。一緒に来なさい」

 え?

「私の用事はすぐ済むから。続きはそれからだ」
「続きなんて……」
「お前が変な顔で笑っている」

 晴久は、はっとした。自分の気持ちをはぐらかす時に、きっと僕は変な顔で笑っている。
 男の傘に入れてもらい、黙って従った。小雨だが、晴久の体が男から少し離れるたびに男の肩だけが濡れていく。
   何も言わない男の横顔を盗み見ながら、晴久は緊張を隠してそっと体を寄せて歩いた。
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