境界のクオリア

山碕田鶴

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21.傷痕 一

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「今日から緊急ショート一週間で八十七歳女性、山本さん入ります」

 朝の申し送りでフロア長の説明が始まる。ショートというのは、一時的な短期の施設入所のことだ。
 職員と顔馴染みになるほどの定期的な入居者もいれば、今回のように急な事情で利用が決まることもある。

「長年自宅独居で、子は他県在住のため生活詳細不明。徘徊時保護され、衰弱有り入院。すぐに退院可も独居に戻すのは不安とのことでとりあえず一週間希望です。日常生活動作自立、暴言・妄想・徘徊有り。それから……」

 フロア長が手元のノートから目を離す。

「病院を出る時には『家に帰るから』と説得してどうにか車に乗せたいと、入所相談の時にご家族がおっしゃっていたそうで。状況認識はかなり難しそうです」

 職員の間に緊張した空気が流れる。ちょっと荒れるかなと誰かがつぶやいた。
 晴久は複雑な思いで聞いていた。
 いきなり知らない所に連れて来られるのは、僕だったら絶対嫌だ。仕方ない事情にしても、一人暮らしからの集団生活は、僕には無理だろう。
   その仕方ない諸々を山本さんは耐えなければならない。不安は当然だ。家に帰るというご家族の言葉で説得されるなら、ここに着いた時の状況は想像に難くないな。
 晴久は他の職員と同様、この後の一波乱を覚悟した。
   午後になって山本が来所した後の予想を裏切らない展開に、職員は淡々と対応した。
 着いた直後から鬼の形相でホールを歩き回る山本を刺激しないように、少しでも落ち着くように、怪我をしないように、他の入居者が怖がらないように、晴久たちは細心の注意を払った。
 興奮状態で声かけが通じない山本につき添う職員は、つかず離れずの距離で見守り続けた。
 そうして山本自身が疲れ始めてフロアの緊張がわずかに緩んだタイミングで、川島が山本に捕まってしまった。

「返せー!  ドロボー!」

 山本は興奮して川島につかみかかった。
 なぜ、は通用しない。川島が原因とは限らない。何かが山本を刺激してしまったことだけは確かだ。

「山本さん落ち着いてー」

 川島の声が山本を更に興奮させたらしく、山本は両腕を振り回し始めた。
 八十代とはいえ抑制も手加減もない暴力は、男性職員が対応しても危険が伴う。

「帰る!  ここから出せー!」

 川島は山本をなだめようと背中に手を添えるが、益々興奮するばかりだ。山本は腕を振って周囲を威嚇している。
 だめだ、川島さん。近過ぎる。危ない。

「川島さん離れて!」

 晴久はとっさに二人の間に割って入った。小柄な山本の振り上げた腕が丁度晴久のみぞおちを直撃した。

「かはっ!」

 山本はそのまま何度も何度も晴久の胸を叩き、更に晴久に憎悪の目を向けて叫んだ。

「ウチから出て行け!  ドロボー!  ここから消えろ!  消えちまえ!」

   消えてしまえばいいのに。

 遠い昔の記憶からよみがえった声が重なる。
 もう感情を揺るがすことのないはずの言葉に、体が勝手に反応する。
 息が、できない。
 はっ、はっ、はっ……
 苦しい。動けない。
 崩れるように床に手をついてうずくまった晴久の周囲で、職員がせわしなく動き回っている。他のフロアから応援が来たらしく、山本は複数の職員に抱えられ連れて行かれてしまった。
 他の入居者の対応でフロア全体が慌ただしい。
 晴久の腕が震えていることも、涙が止まらないことも誰も気づいてはいない。
   体が勝手に反応しているだけだ。怖いとか悲しいとか、そんなことを考える前に手が震える。涙が溢れる。
   油断した。山本の言葉をまともに受けてしまった。
 晴久は看護職員に支えられながら、なんとかサービスステーション奥の休憩室に移動した。



「広瀬君、大丈夫?  まだ苦しい?」

 しばらくしてフロア長が晴久の様子を見に来た。胸を叩かれて息ができなくなったと思っているようだ。

「……はい、落ち着きました。大丈夫です」
「あ、手も引っ掻かれちゃってるわねえ」
「これも平気です。川島さんは?  大丈夫そうですか?」

 言いながら、川島のことを全く心配していないことに気づき、晴久は苦笑した。

「たぶん。まあショックだろうけど、広瀬君来てくれて助かったわ」
「山本さんは?」
「先生が来て……診察中」
「もう夕食の時間ですよね。僕フロアに戻ります」

 晴久は手の甲の引っ掻き傷を見て、そっと触れてみた。
 大丈夫だ、これは痛くない……。
 一瞬の想像に、思わず「ばかだな」とつぶやいた。
 フロアでは、既に職員がそれぞれ入居者の食事介助をしていた。川島は、一番穏やかそうな入居者を担当していた。
 晴久は、大丈夫かと声をかけてくる職員たちに笑顔で返事をしながら、ちらちらと晴久を見る川島は無視して、介助が必要な入居者の食事を手伝って回った。



 帰り際、晴久は職員通用口で川島に呼び止められた。

「先ほどはありがとうございました」
「あ、いえ。川島さんは大丈夫でしたか?」

 また偽善だな。晴久はフロア長との会話を思い出し、自嘲が微笑になってつい出てしまった。

「え?   あ、はいっ!」

 川島に満面の笑みを返されて、晴久はたじろいだ。フロア長が心配する必要は微塵もないだろう。

「あの、いつもいつも助けていただいて本当にありがとうございます。この前も……その前も……」

 嬉々として話す川島の後方から、職員数人が様子を見ていた。晴久は、落合が夜勤明けでこの場にいなくて良かったと思った。

「それじゃ、僕はこれで」
「あ、呼び止めてすみませんでした。あの、広瀬さん!」

 まだ何か、と振り返った晴久を川島がじっと見つめてきた。
   目を見つめられるのは苦手だ。心を覗かれるようで、怖い。
   晴久はさりげなく視線を逸らしたが、川島はまっすぐ晴久を見続けていた。

「私、広瀬さんを尊敬しています。いつも冷静で利用者さんに親切で丁寧で、今日だってあの状況でも山本さんに優しくて。広瀬さんっておばあちゃんっ子だったんですか?   温かいご家庭で育ったんだなってよくわかります。愛情を受けて育つって大事ですよね」

   今日はさんざんな日だな。
 僕はまた曖昧な微笑みを浮かべてしまったのだろう。
   川島に満足そうに見送られながら、きっとそうなのだと晴久は溜息をついた。
   山本さんは大丈夫かな。
 晴久には、それだけが気がかりだった。
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