境界のクオリア

山碕田鶴

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20.偶然 七

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 落合と話がしたい。晴久は機会を待ったが、勤務シフトが合わなかったり退勤後に落合が仲間と遊びに行ったりで、声をかけることができないでいた。
   意図的と思えるほどに接触できない日が続き、焦っても仕方がないと思い始めた矢先に、突然落合から声をかけられた。

「広瀬さん、ちょっと話いいすか?」
「……僕がここにいるの、よくわかりましたね」

 落合は、仕事帰りに駅前のベンチに座る晴久の前に現れた。

「何度も見ていましたから」

 落合は悪びれもせずに言うと、晴久の隣に座った。

「いっつもここでぼーっと座って、何しているのか不思議でしたね。時々怖いおっさんが話しかけてきたりして、なんかヤバいことでもやってんのかって」
「怖い?」
「俺が遠くから見ているのに気づいて、こっちにらんでくるんですよ。毎回なんでわかるかなあ。あのおっさん、何者ですか?  まじヤバくないすか?  俺、すっげー怖かったんですけど」

   確かに。あの他人を拒絶する雰囲気で睨まれたら怖いかもしれない。

「落合君には関係のないことです」
「そりゃそうですよねえ。でも俺、何度も見かけて気になるんですけど。さすがに親兄弟とか友達じゃなさそうだし。誰なんですか?」

 落合の行動力と遠慮のなさには、呆れて感心するほどだった。いったい、いつから見ていたのか。落合の疑問に答える義務は全くないが、答えるまでしつこく訊かれそうで面倒だった。放っておくと今度は男の後をつけかねない。
 だが、誰と問われても晴久自身が知らない。オトモダチとは、さすがに言えない。

「……借金取り」
「え⁉︎   マジすか……」

 晴久は、我ながらよくできた答えだと思った。もしまた目撃されても、言い逃れできる気がした。信憑性があり過ぎたのか、
落合は呆気に取られてそれ以上訊いてこなかった。

「落合君はストーカーだと言われても仕方がないことをしていると思いますけど。川島さんに対してだけでなく、僕にもです。盗撮とかもするんですか?」
「はあ?  それ犯罪ですよ。そんなことしませんって」

 落合の考える犯罪の線引きが晴久にはよくわからなかったが、さすがに写真は残さないようで安心した。
 晴久は、気になっていたことを思い切って訊いてみた。

「車椅子倒したの、わざとですか?」
「あ、バレてました?  広瀬さんってなんかオドオドしてる感じで、ちょっと脅してやればいいかくらいに思っていたんですけどね。話しててイライラして、つい」
「……落合君が僕を嫌いな理由って、やっぱり川島さんのことですか?」

 落合は一瞬嫌そうな顔をして晴久を見たが、それには答えなかった。

「僕は、どの職員とも上手くつきあいたいし、どの職員にも特別な思いはないんです。川島さんは僕個人には何の関わりもない人です。落合君と川島さんのことも、その……ストーカーしているとかそういうのも、僕とは一切関係のないことです。僕が川島さんに好意を持っていると思うなら、それは落合君の誤解です。僕は関わりたくないんです」
「それ、川島さんにも直接言えますか?」
「訊かれたら、答えますけど」
「うわー……はっきり言いますねぇ。広瀬さん、自分が周りからおとなしくて優しそうって思われているの知っています?  ま、俺は最初からいい印象なかったけど、前からそんな感じでしたっけ?  この前話して、マジヤバイ奴だって俺ちょっと近寄れなくなってて、私生活とかも謎過ぎでヤバそうだし、絶対フツーじゃないですね」
「はぁ、そうですか……」

 それでストーカー行為に走る落合には言われたくない気がした。

「俺、基本的に広瀬さん嫌いですけど、仕事でゴタゴタしたくないんで。まあ、そこはちゃんとつきあいますから。それだけ言っときたかったんです。仲良くしたいとかじゃないすよ」
「ありがとうございます」

 晴久は笑顔で答えた。作り笑顔ではない。落合に対して初めて自然に笑えた気がした。仕事に関して、落合も同じように考えていてくれたのが嬉しかった。

「嫌いとか言われて笑ってるの、キモいですよ。ホント、どっちが先輩だかわかんないすね……って、あ」

 笑っていた落合の表情が消えた。明らかに緊張している。
 落合が見る先を晴久も目で追う。

「あ……」
「偶然だな」

 男が、晴久の前で足を止めた。

「……こんばんは」

 男はいつもと同じように声をかけ、晴久も同じように返す。
 落合は黙って男を見上げた。だが、男は晴久しか見ていなかった。まるで落合が初めから存在しないかのように、気にすることさえしなかった。

「来るか?」

 男は晴久に訊いた。いつもなら、今ではない。

「……はい」

 晴久はベンチから立ち上がった。それを見て、男はゆっくりと歩き出す。晴久も男に従う。
 落合は、晴久に声をかけることもできず、ひとり残されたまま黙って二人の後ろ姿を見送った。



 晴久は歩きながら何度も男を盗み見た。晴久の方が若干背が高いとはいえ、斜め後ろから見る男の表情はわからない。
 あの場から連れ出してくれたまではいいが、これから仕事ではないのか。それが気になった。
 でも、訊くのも変だな。
 チラチラと見ているうちに急に男の足が止まり、晴久は後ろからぶつかりそうになった。

「わっ。すみません」
「…… 仕事の予定は、ない」

 男は自分から言った。

「え?  じゃあ、なんで駅に……あっ、すみません」

 結局訊いてしまった。

「たまたまだ」

 男は笑っていた。晴久は、それ以上は訊かなかった。そこからは、お互いに立ち入らない境界の先だ。

   静かに、強く、波が僕の全てをさらっていく。

 二人の遠さが僕を安心させる。僕に理想を錯覚させる……。
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