19 / 65
19.偶然 六
しおりを挟む
憂鬱な気分のまま足取り重く駅前に来ても、景色は何も変わらない。誰も晴久を知らず、気にとめることもない。ただひとりを除いて。
「偶然だな。……不機嫌そうだな」
晴久が座るベンチの前で、男は淡々と言った。どうしたとは訊かない。晴久が怒っていても笑っていても、きっと反応は変わらないだろう。
「今日はこのまま帰ります」
「そうか。ずいぶんと嫌われたものだな」
「そういうことでは……」
晴久が帰ると言っても、今まで何か言われたことはなかった。どうして今日に限って……。
晴久は急に不安になった。思わず男を見上げたが冷たく見返され、胸が締めつけられる思いがした。
「あの……すみません」
男の視線から逃げるようにうつむく。目を逸らしたことへの罪悪感で更に胸が苦しくなる。
「すみません……」
「なぜ謝る? お前は甘いな。少し強く出られるとすぐ、嫌われたくないという顔になる。そういうのは他人をつけ上がらせるぞ」
「でも、僕は嫌いになったわけじゃなくて……」
「私とお前の間に嫌いも好きもあるか。ただのオトモダチだろう。お前が帰ると言ったからといって、なぜ私が怒る? それくらい聞き流せ。いちいち考え過ぎるな。人の感情を気にし過ぎるな 」
男は晴久の隣に座った。深く溜息をついて晴久を横目で見ると、空を仰いだ。
「まだ腕は痛むか? 足は良くなったのか? ……お前の揉め事は私には関わりのないことだが、お前につけられる傷はうっとうしい。さっさと何とかしろ」
傷……やっぱり気になっていたのか。でも、酷くした自覚はないのか。
晴久の呆れたような顔を見て、男は心外だと言いたげに晴久を見返した。
「お前、私をサディストだとでも思っていたのか? 失礼な奴だな」
男の目が笑っていた。晴久は、それだけでほっとした。
どうしてこの人には、感情を酷く揺さぶられるのだろう。他人がどう思っているか常に気にしてしまうのは昔からだ。それでも、たった一言で、わずかな仕草でこんなに気持ちが揺れるのはおかしいだろう。
職場のことで頭がいっぱいなのに、全てぐちゃぐちゃにされて何も考えられなくなる。それでいいような気になってしまう。
「お前は常に情緒不安定だな。お前と私は偶然に会う。それだけだ。だから何も変わりようがない。不変の安定だろう。それでは不満か? ……それとも、好かれたいのか?」
「そういうのでは……」
違う。嫌われるのが怖いだけだ。
「私に嫌われるのが怖いか?」
「……はい」
「ただの偶然のオトモダチでもか?」
「はい」
誰であっても、どんな関係であっても、嫌われるのは怖い。他人がどう思うか気になるのも常に不安なのも、きっとそのせいだ。
晴久があまりにも力のこもった返事をしたからか、男はかすかに笑っていた。
「それなら、もうグダグダ考えるな。いちいち不安になるな。お前は、私が嫌う要素を持っていない」
「……?」
晴久は、何を言われたのか一瞬わからなかった。
「お前はいつも前を向いている。どれだけ弱っても進もうとする。まあ、かなり無謀で強引で危なっかしいが、そういうのは嫌いではない。何より、不幸なのに頑張っているとか、そんなくだらないことを言わない。だから、私は嫌いにならない」
「僕は、自分が不幸だと思ったことはありません」
「知っている」
晴久に向かって伸ばされた男の手が、鼻先で止まる。急に触ることはしない。男は晴久が見返すのを待っている。
目が合った瞬間、男は手の甲で晴久の額をそっと撫で上げると、そのまま髪がぐしゃぐしゃになるまで頭を撫で回した。
「ちょっと! やめて下さいって」
「いいか。私は、嫌うことはありえない」
男がどんな顔で言ったのか、頭を揺すられていた晴久は見ることができなかった。ただその声は、かつて自分に寄り添い続けた時計台の曲に似て、晴久の心を支えてくれている気がした。
「偶然だな。……不機嫌そうだな」
晴久が座るベンチの前で、男は淡々と言った。どうしたとは訊かない。晴久が怒っていても笑っていても、きっと反応は変わらないだろう。
「今日はこのまま帰ります」
「そうか。ずいぶんと嫌われたものだな」
「そういうことでは……」
晴久が帰ると言っても、今まで何か言われたことはなかった。どうして今日に限って……。
晴久は急に不安になった。思わず男を見上げたが冷たく見返され、胸が締めつけられる思いがした。
「あの……すみません」
男の視線から逃げるようにうつむく。目を逸らしたことへの罪悪感で更に胸が苦しくなる。
「すみません……」
「なぜ謝る? お前は甘いな。少し強く出られるとすぐ、嫌われたくないという顔になる。そういうのは他人をつけ上がらせるぞ」
「でも、僕は嫌いになったわけじゃなくて……」
「私とお前の間に嫌いも好きもあるか。ただのオトモダチだろう。お前が帰ると言ったからといって、なぜ私が怒る? それくらい聞き流せ。いちいち考え過ぎるな。人の感情を気にし過ぎるな 」
男は晴久の隣に座った。深く溜息をついて晴久を横目で見ると、空を仰いだ。
「まだ腕は痛むか? 足は良くなったのか? ……お前の揉め事は私には関わりのないことだが、お前につけられる傷はうっとうしい。さっさと何とかしろ」
傷……やっぱり気になっていたのか。でも、酷くした自覚はないのか。
晴久の呆れたような顔を見て、男は心外だと言いたげに晴久を見返した。
「お前、私をサディストだとでも思っていたのか? 失礼な奴だな」
男の目が笑っていた。晴久は、それだけでほっとした。
どうしてこの人には、感情を酷く揺さぶられるのだろう。他人がどう思っているか常に気にしてしまうのは昔からだ。それでも、たった一言で、わずかな仕草でこんなに気持ちが揺れるのはおかしいだろう。
職場のことで頭がいっぱいなのに、全てぐちゃぐちゃにされて何も考えられなくなる。それでいいような気になってしまう。
「お前は常に情緒不安定だな。お前と私は偶然に会う。それだけだ。だから何も変わりようがない。不変の安定だろう。それでは不満か? ……それとも、好かれたいのか?」
「そういうのでは……」
違う。嫌われるのが怖いだけだ。
「私に嫌われるのが怖いか?」
「……はい」
「ただの偶然のオトモダチでもか?」
「はい」
誰であっても、どんな関係であっても、嫌われるのは怖い。他人がどう思うか気になるのも常に不安なのも、きっとそのせいだ。
晴久があまりにも力のこもった返事をしたからか、男はかすかに笑っていた。
「それなら、もうグダグダ考えるな。いちいち不安になるな。お前は、私が嫌う要素を持っていない」
「……?」
晴久は、何を言われたのか一瞬わからなかった。
「お前はいつも前を向いている。どれだけ弱っても進もうとする。まあ、かなり無謀で強引で危なっかしいが、そういうのは嫌いではない。何より、不幸なのに頑張っているとか、そんなくだらないことを言わない。だから、私は嫌いにならない」
「僕は、自分が不幸だと思ったことはありません」
「知っている」
晴久に向かって伸ばされた男の手が、鼻先で止まる。急に触ることはしない。男は晴久が見返すのを待っている。
目が合った瞬間、男は手の甲で晴久の額をそっと撫で上げると、そのまま髪がぐしゃぐしゃになるまで頭を撫で回した。
「ちょっと! やめて下さいって」
「いいか。私は、嫌うことはありえない」
男がどんな顔で言ったのか、頭を揺すられていた晴久は見ることができなかった。ただその声は、かつて自分に寄り添い続けた時計台の曲に似て、晴久の心を支えてくれている気がした。
1
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。大学時代のクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。屋敷で不審な事件が頻発しているのだという。かつての同級生の事故死。密室から消えた犯人。アトリエにナイフで刻まれた無数のX。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の6人は大学時代、この屋敷でともに芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。6人の中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。
「だって顔に大きな傷があるんだもん!」
体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。
実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。
寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。
スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。
※フィクションです。
※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる