境界のクオリア

山碕田鶴

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18.偶然 五

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「僕は助けを求めているわけじゃない」

 いつ口にしたのか、よくわからない。

「そうか」

 抑揚のない答えを聞いた気がする。

「慰めて欲しかったわけじゃない」

 誰に言ったのか、わからない。

「そうだな」

 耳元でささやかれたような気がする。
 波が僕を沖に連れ去る。ゆっくりとゆっくりと、静かで強い波が僕を戻れなくする。

「少し弱っていただけで……」
「……知っている」

 暗い水底に沈んでいく理由は、偶然。
 言い訳は、必要ない。
 全てゆだねて何も考えられなくなるまで沈むことに許しはいらない。
 今日も偶然会えたから。
 ただ、それだけだ。
 落合と別れた後、晴久は駅前にいた。いつ男が現れたのかは覚えていない。
   二十一時。男がそう言うのを聞いた気がする。早いな。そう思った気がする。
 再会した時、何か酷く驚かれた気がする。冷たくなった手の甲に触れられた。いつもなら絶対にしないのに。

「ずっとここにいたのか?」

 そう訊かれた気もするが、曖昧だ……。

「……痛っ」

 そっと顔を寄せ、唇で触れられる程度でも腕が痛む。
 男は何も訊かない。晴久も何も言わない。
 ああ、また酷いことになっていると晴久は溜息をついた。つま先の怪我がやっと治ってきたのに。
 落合につかまれた左腕にはっきりと三本のアザが残っていた。
 内出血の跡は、これからもっと酷く目立つようになるだろう。

「痛っ……」

 優しく触れられているのに、落合につかまれた時よりも激しい痛みが広がる。
 涙は痛みを逃してくれない。
 痛みが落合を思い出させる。
 憎悪、驚き、怯えの顔。

「痛い……痛っ……」

 腕の痛みだけではない。落合の前では何も感じなかったはずの胸の奥の痛みが溢れ出す。

「なんで……思い出させるようなこと……ここで、思い出したくなんかないのに」

 誘うように腕の痛みを呼び起こし、悲しみを拾うように頬に触れて涙を拭い、寄せては返す波のように、繰り返し繰り返し……浜辺に投げ出されたような晴久の心は、波に叩かれ砕け散っていく。

「なんでそんな酷いこと……する……」
「それは、酷いことをした奴に訊け」

 男は独り言のように言った。
 その通りだ。
 痛みを消してほしい。腕も心も、僕ごと全て。
 それをこの人に望むのは間違っている。これは、僕の問題だ。



 数日前、腕にアザをつけられた。
 それ以降、晴久は落合に避けられている気がしている。そもそも落合に元気がない。
 そのアザを男に酷く悪化させられ、晴久は毎日の業務が辛い。
 川島だけが変わらず笑顔だった。

「広瀬さん、今日みんなでご飯行きませんか?」

 退勤時に晴久に声をかけるのは、いつからか川島の役割になっていた。

「すみません、先約があって。ほら、落合君待ってますよ」

 遠くから見ている落合は、不満そうだが晴久に近づいて嫌味を言うことはない。

「広瀬さんが落合君に気を遣うことないんですよ。私、別に落合君とつきあっているわけじゃありませんから」
「……そうですか」

 そうですかなんて笑顔で言って、どう受け取られただろう。難しいな。
 川島はモテるらしいと晴久は聞いた。落合ではなく、他の女性職員からの話だ。そんなものかと晴久は関心もなかったが、自分がその構成要員の一人にされており、落合との不仲の原因が川島だと言われると穏やかではいられない。
 少なくとも落合とは、一緒に仕事をして支障が出ない程度のつきあいはしたい。
 晴久一人ではどうにもならないことだ。全てが難しい。でも、どうにかしたい。
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