境界のクオリア

山碕田鶴

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17.偶然 四

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 晴久が川島に呼び止められたのは、次に出勤した日の帰りだった。
 施設の敷地を出てしばらく行った幹線道路沿いだ。他の職員には見られたくなかったのか。

「広瀬さん、一昨日うちの前にいましたよね?」
「……」

 落合を見かけた時だ。気づかれていたのか。

「あの時、落合君も……やっぱりいましたよね?」

 やっぱり?  晴久は思わず川島の顔を凝視した。
   なんで嬉しそうに話すのか。

「本当は、前から落合君に何か見られているような気がしていて……」
「そういうの、気になるならフロア長とか事務長さんに直接相談した方がいいですよ」
「でも落合君、悪い人じゃないんです。私にはいつもすごく優しいし、親切なんですよ」

 僕にはいつもすごく酷いです。そう言いたかった。

「広瀬さん心配してくれたんですよね?  落合君に何か言ってくれてましたよね?  私、嬉しかったんです。いつも私のことを気にかけて下さってありがとうございます」

 晴久は、川島が何を言っているのかわからなかった。
   川島は、自分が誰からも大切にされて当たり前だと思っているのか。
   落合も自分も、川島に都合良く解釈されているのではないかと晴久は思った。
   川島が落合を悪く言わないのは、落合が自分を特別視しているという満足感があるからではないのか。川島の方は、落合を特別気にかけているようには見えなかった。

「僕は、お礼を言われるようなことは何もしていませんから。……お疲れ様でした。失礼します」

 こんな時にも笑顔は有効だろうか。優しく、穏やかな言葉がふさわしいだろうか。何かしら誤解されて面倒に巻き込まれて、それは自業自得なのだろうか。
 遠くから落合が晴久を見ていた。
   ほら、来た。自業自得だ。

「広瀬さん、相変わらず川島さんにつきまとっているんですか?  迷惑だからやめてもらえますか?」

 落合は真剣だった。自分がストーカー行為をしているという自覚がないのか。いつも見張っていることを川島に気づかれていないと思っているのか。

「前にも言いましたけど、話しかけてくるのは川島さんです。川島さんに言って下さい」
「……な」

 落合が、下を向いたまま何か言った。
   え?  と訊き返したのと同時に晴久は落合に強引に腕をつかまれ、身動きがとれなくなった。
   驚きと緊張で晴久の体がこわばる。

「調子に乗るなよ。嬉しそうに話しているくせに。俺が嫌味言っても、ストーカーだって言って回っても、全然余裕みたいな顔して。俺、広瀬さん嫌いなんですよ。川島さんがなんでやたらと話しかけるのかホントわかんねー」
「僕の……何が嫌いなんですか」

 腕をつかむ落合の力が更に強くなった。落合は体が接触するほどの距離で晴久を睨んだ。

「は?  わざわざ訊きます?  広瀬さんの存在ですよ。存在そのものが俺をイライラさせるんですよ。川島さんの前から消えてくれませんか」

 自分に向けられる憎悪。晴久は、波が引くように自分の感情が消えていくのがわかった。

「……川島さんの前から消えるだけで、いいんですか?」

 落合が驚いたように晴久を見た。

「存在そのものを消せって、死んでくれって言わないんですか?  僕の存在自体が嫌なんですよね?  だったら、僕はいらないってことですよね?」
「……ちょっと、何言っちゃってるんすか?  俺、そこまでは……。広瀬さん、おかしいですよ?」
「そういう意味じゃないんですか?」

 落合が手を離した。怯えたように晴久を見る。

「何フツーの顔でそんなこと言えるんですか。俺、そこまで言ってませんよ。川島さんに近づくなって、それだけで……」

   消えてしまえばいいのに。

 散々聞いてきた言葉だ。でも、みんなはそんな簡単には言わないんだな。
   悲しみでも寂しさでもない。だが、それに近い気持ちで、晴久は静かに笑った。
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