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14.偶然 一
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施設での日常生活は、食事をして、体操をして、入浴をして、規則正しい排泄、睡眠があって……室内でのレクリエーション、たまに短時間の日光浴。
単調な日々だろうか。介助があって基本的な生活が成り立つ以上、穏やかに日々が過ごせれば幸せだろうか。
何が基本的で規則正しい生活なのかわからない晴久は、日々の業務を淡々とこなす中で普通を見つけようとしていた。
晴久が施設に就職して良かったと思うことの一つが食事だ。入居者の食事を日々配膳し介助していると、献立が参考になる。家庭のご飯とはこんな感じだろうかと、密かに真似して自炊してみたりする。
「タケさん、きんぴらごぼうって細切りの方がやっぱり好きですか? 僕、こんなに細く切れないんですよね」
施設で提供する食事なので高齢者に食べやすい形態になっているのは当然だが、介助しながら話題にするには丁度良かった。
「あんた包丁使えるの? 田舎のキンピラなんて、煮物と変わらんよ。ザク切りでええよ」
「タケさんに、僕のを味見してもらいたいですね」
「まずかったら許さんよ」
タケは笑っていた。普段あまり会話が成立しない。怒っていることが多い。
それでも、霧が晴れたようにすっと話が通る瞬間がある。
タケ自身はきっと何も覚えていないが、晴久にとってはこの一瞬さえ忘れることのできない幸せな時間だ。晴久は、またひとつ小さな幸せが自分の内に貯まるのを感じていた。
「タケさんすごかったですね」
食事後のホール清掃中に、川島が晴久に話しかけてきた。
「あんなに楽しそうなタケさん、初めて見ました。広瀬さんは結構料理されるんですか?」
「一人暮らしなんで、まあ、普通に……」
他の職員が遠くから二人を見ていた。普段とは何か雰囲気が違う。晴久から離れた川島に近寄ると、小声で話しかけていた。
「川島さん大丈夫ですか? ほら、広瀬さんに……」
僕、に?
川島が広瀬に付きまとわれていると噂が流れたのは、送別会の後からだった。
川島自身が、帰宅時に誰かに跡をつけられている気がすると周囲に話していたのと、なぜか広瀬がつながって真実のように広がった。実際に職員どうしのトラブルが時々発生することもあり、噂を疑う者はいなかった。
「あの、広瀬さん、変な噂に巻き込んですみません」
川島に呼び止められ、晴久は困惑した。
「川島さんが謝ることでもないでしょう。川島さん本人が僕ではないと知っているから、別に平気です」
晴久は言葉通り、気にしてはいなかった。自分は毎日駅前に行く。それだけだ。噂でしかない以上、誰も晴久を犯人と断定できないはずだった。
だが、落合は違った。
「広瀬さん、川島さんに気があるんですか? なんでストーカーみたいな真似するんですか?」
落合と晴久が車椅子の点検整理をするため一緒に倉庫に向かう途中、落合はおもむろに訊いてきた。
「僕は何もしていません」
晴久はそれだけ言うと、倉庫内に畳まれている予備の車椅子をチェックした。
いきなり犯人扱いされるのは心外だが、言い訳のしようもないので落合の怒りは放っておくしかない。
落合は、送別会の後も相変わらず晴久に対して良い感情は向けなかった。晴久は元々の相性だと半ば諦めたが、意識的に挨拶をすることは続けていた。嫌われても構わないとは思い切れなかった。
完全に嫌われているな。
わかっていても、認めるのは怖かった。
「この頃川島さんにずいぶんと話しかけてますよね」
「……気になるなら、川島さんに言って下さい」
何かと話しかけてくるのは川島の方だ。
「相変わらず、何言っても軽く流すんですね。ちょっと言われただけですぐオドオドするくせに……」
「あ、落合君、五番の車椅子のシートが……」
振り向いて落合を見た晴久は、幻聴を聞いた。
消えてしまえばいいのに。
あなたはいらない。
母の声。
同じ目だ。怒りと、お前のせいだと責める攻撃的な感情と。僕の存在を否定する強い目……。
次の瞬間、晴久は何かに引っかかるような衝撃で折り畳んだ車椅子ごと床に倒れた。
とっさに手をつき体を支えたが、横倒しの車椅子に覆いかぶさった状態のところにもう一台車椅子が倒れてつま先に激痛が走る。
「痛っ……」
「大丈夫っすか!?」
落合が、晴久の足に乗った車椅子をどけた。
「……はい。すみません」
気をつけて下さいよ、と落合は車椅子を並べ直している。晴久はその場で左足の靴下を脱ぎ、つま先を見た
内出血になっているな。後で腫れるかな。
痛みと違和感があるが、歩けないわけではない。
注意散漫だな。
溜息と共に気力が抜けていく。
……違う。倒れる前に何か引っかけた。いや、引っかかった。バランスを崩す何か。
それに、一瞬母と同じ目を見た気もした。
気のせいだろうか。
「ホント、大丈夫すか?」
落合が寄って来て、晴久のつま先を見た。
「あーあー。ちょっと酷そうっすね」
本当に、気のせいなのか?
単調な日々だろうか。介助があって基本的な生活が成り立つ以上、穏やかに日々が過ごせれば幸せだろうか。
何が基本的で規則正しい生活なのかわからない晴久は、日々の業務を淡々とこなす中で普通を見つけようとしていた。
晴久が施設に就職して良かったと思うことの一つが食事だ。入居者の食事を日々配膳し介助していると、献立が参考になる。家庭のご飯とはこんな感じだろうかと、密かに真似して自炊してみたりする。
「タケさん、きんぴらごぼうって細切りの方がやっぱり好きですか? 僕、こんなに細く切れないんですよね」
施設で提供する食事なので高齢者に食べやすい形態になっているのは当然だが、介助しながら話題にするには丁度良かった。
「あんた包丁使えるの? 田舎のキンピラなんて、煮物と変わらんよ。ザク切りでええよ」
「タケさんに、僕のを味見してもらいたいですね」
「まずかったら許さんよ」
タケは笑っていた。普段あまり会話が成立しない。怒っていることが多い。
それでも、霧が晴れたようにすっと話が通る瞬間がある。
タケ自身はきっと何も覚えていないが、晴久にとってはこの一瞬さえ忘れることのできない幸せな時間だ。晴久は、またひとつ小さな幸せが自分の内に貯まるのを感じていた。
「タケさんすごかったですね」
食事後のホール清掃中に、川島が晴久に話しかけてきた。
「あんなに楽しそうなタケさん、初めて見ました。広瀬さんは結構料理されるんですか?」
「一人暮らしなんで、まあ、普通に……」
他の職員が遠くから二人を見ていた。普段とは何か雰囲気が違う。晴久から離れた川島に近寄ると、小声で話しかけていた。
「川島さん大丈夫ですか? ほら、広瀬さんに……」
僕、に?
川島が広瀬に付きまとわれていると噂が流れたのは、送別会の後からだった。
川島自身が、帰宅時に誰かに跡をつけられている気がすると周囲に話していたのと、なぜか広瀬がつながって真実のように広がった。実際に職員どうしのトラブルが時々発生することもあり、噂を疑う者はいなかった。
「あの、広瀬さん、変な噂に巻き込んですみません」
川島に呼び止められ、晴久は困惑した。
「川島さんが謝ることでもないでしょう。川島さん本人が僕ではないと知っているから、別に平気です」
晴久は言葉通り、気にしてはいなかった。自分は毎日駅前に行く。それだけだ。噂でしかない以上、誰も晴久を犯人と断定できないはずだった。
だが、落合は違った。
「広瀬さん、川島さんに気があるんですか? なんでストーカーみたいな真似するんですか?」
落合と晴久が車椅子の点検整理をするため一緒に倉庫に向かう途中、落合はおもむろに訊いてきた。
「僕は何もしていません」
晴久はそれだけ言うと、倉庫内に畳まれている予備の車椅子をチェックした。
いきなり犯人扱いされるのは心外だが、言い訳のしようもないので落合の怒りは放っておくしかない。
落合は、送別会の後も相変わらず晴久に対して良い感情は向けなかった。晴久は元々の相性だと半ば諦めたが、意識的に挨拶をすることは続けていた。嫌われても構わないとは思い切れなかった。
完全に嫌われているな。
わかっていても、認めるのは怖かった。
「この頃川島さんにずいぶんと話しかけてますよね」
「……気になるなら、川島さんに言って下さい」
何かと話しかけてくるのは川島の方だ。
「相変わらず、何言っても軽く流すんですね。ちょっと言われただけですぐオドオドするくせに……」
「あ、落合君、五番の車椅子のシートが……」
振り向いて落合を見た晴久は、幻聴を聞いた。
消えてしまえばいいのに。
あなたはいらない。
母の声。
同じ目だ。怒りと、お前のせいだと責める攻撃的な感情と。僕の存在を否定する強い目……。
次の瞬間、晴久は何かに引っかかるような衝撃で折り畳んだ車椅子ごと床に倒れた。
とっさに手をつき体を支えたが、横倒しの車椅子に覆いかぶさった状態のところにもう一台車椅子が倒れてつま先に激痛が走る。
「痛っ……」
「大丈夫っすか!?」
落合が、晴久の足に乗った車椅子をどけた。
「……はい。すみません」
気をつけて下さいよ、と落合は車椅子を並べ直している。晴久はその場で左足の靴下を脱ぎ、つま先を見た
内出血になっているな。後で腫れるかな。
痛みと違和感があるが、歩けないわけではない。
注意散漫だな。
溜息と共に気力が抜けていく。
……違う。倒れる前に何か引っかけた。いや、引っかかった。バランスを崩す何か。
それに、一瞬母と同じ目を見た気もした。
気のせいだろうか。
「ホント、大丈夫すか?」
落合が寄って来て、晴久のつま先を見た。
「あーあー。ちょっと酷そうっすね」
本当に、気のせいなのか?
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