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13.暗合 二
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送別会がようやく終わって店を出たところで、二次会に参加する者や別に集まる者等三々五々となり、すぐに帰宅するつもりの晴久はそれぞれのグループに挨拶をして回った。
やや離れたところに落合がいた。
「落合君、お疲れ様でした」
名前を呼ばれた落合は、少し驚いた様子で会釈を返す。わずかに笑顔だったのを見て、晴久はホッとした。
落合はこれから数人の仲間と飲みに行くようだ。
僕はまた無愛想だとディスられるのかな……。
胸の痛みは治まりつつあったが、モヤモヤした感情が晴久の気分を重くしていた。落合の言葉に侵食されているようで息苦しかった。
考え過ぎるな。
晴久は自分に言い聞かせた。
飲食店が並ぶ通りは丁度宴会が終わる時間が重なったらしく、そこかしこの店から出て来た団体客で混み合っていた。
数軒先の店先に思わず目が行った。やたらと存在感のある男が立っている。
遠目には全身黒だ。連れが数人いるようで、そちらの方が華やかで個性的に見えるが、目を惹くのは断然黒だ。
仕事関係なのだろうか。皆親しそうではある。
……絶対に、あの人だ。
相変わらずの無表情だ。雰囲気が怖い。
いつもあんな感じなのかと、晴久は安堵した。特に今は、自分の存在が男の機嫌を悪くさせていたとは思いたくなかった。
男も晴久に気づいたらしく、二人は互いに遠くから見合う形になった。
こういう時はどうすればいいのだろう。わざわざ挨拶するような関係ではない。無視、か。さすがに失礼か……。
考える間に、晴久は無視された。
男は無表情のまま晴久から目を逸らすと、一緒にいた数人と雑踏の中に消えた。
やっぱり知らないふりでいいのか。
まあそうだろうと、晴久は納得する。
見たのは四度目。普通に他人だ。
ひと月も経たずに偶然三回も会うということは、これまでもどこかですれ違っていたはずだ。きっと認識していなかっただけだ。
一回は偶然ではない……。頭に浮かんですぐに消した。
言葉を交わした途端に知っている人になる。こうして特別に見つけてしまう。その境目を、偶然越えた。
何の接点もない人だったのに。
人通りが落ち着いたところで、晴久は駅方向に歩き始めた。晴久が知る者も晴久を知る者も誰一人いない、いつもの光景だ。
細い路地を一本過ぎたところで、突然背後から声をかけられた。
「偶然だな」
「あ……」
帰ったのではなかったのか。男は路地の曲がり角に立っていた。晴久は周囲を見回したが、男と一緒だった人たちはいないようだ。
「私の仕事は終わった」
「あ、……そうですか。え……と」
「帰るのか? 私も帰るところだ」
それ以上は何も言わず、一緒に歩き出す。
いきなり当然のように自然に一緒に駅に向かっている。
晴久は少し戸惑う。
「僕も……仕事でした」
「そうか」
本当に、何も訊かない。別に訊く必要もないけれど、関心がなくても挨拶程度に何か訊くのが礼儀だと思っていた。
ふと男が晴久を見た。近い。顔を覗き込まれるとはまさにこの状態だ。
晴久は、触られたわけでもないのに緊張する。
「酒。飲まなかったのか?」
「あ、はい。僕、飲めないんで」
「ああ……それなら、やはり酩酊はナイな」
「……まだ疑っていたんですか?」
「さて」
そういえば、この人も飲食店から出てきたはずだ。飲んでいないのだろうか。
「なんだ?」
「あ、いえ……飲んでいないんですか?」
「私は、飲まない」
自分の意志で、ということか。
こうもはっきりと言えるのが晴久には羨ましく思えた。
駅前のペデストリアンデッキ広場まで来ると、男は迷わずベンチに向かった。以前晴久に会った時と同じ場所に座る。
晴久が戸惑うのを見て、不思議そうに訊いた。
「一日の終わりだ。遅い時間は儀式をやらないのか?」
隣で見られていたら緊張して、心を落ち着かせられるわけないでしょう。
晴久は苦笑した。
とりあえず男の隣に座るとそれ以上儀式を促されることもなく、二人は黙って人の往来を眺めた。
「……ずいぶんと元気そうだ」
男がぽつりと言った。
「おかげさまで」
「全くそのとおりだな」
「……」
事実だが、晴久はどう返して良いかわからない。ただの挨拶のはずが、何食わぬ顔で含みのある言い方をして晴久を困惑させているとしか思えなかった。
補足説明が必要だろうか、いや、平然と受け流せば良かったかとあれこれ考える姿を凝視され、益々恥ずかしくなってきた。
「……お前は、強いんだな」
男は独り言のように言った。晴久はハッとして男を見たが、既に男は晴久を見てはいなかった。
急に、自分の気分が重かったことを思い出した。男に声をかけられてから今この瞬間まで、すっかり忘れていた。思い出しても、モヤモヤした感情が再び湧き上がることはない。
ああ、この人は本当に僕を消してくれるんだ。
今日の儀式がなくても明日を迎えられる安心感に思わず顔がほころんだ。
ベンチに二人連れの若い男女が近づいて来た。少し前からこちらを気にして遠くから見ていたようだ。男はそれに気づいていたらしい。
「あの、失礼ですが……」
晴久は顔を上げたが、二人は男だけを見ていた。
二人が何か迷う間に、男が先に口を開いた。
「人違いですよ。よく間違えられるが迷惑です」
男は二人の顔を見ることなく言うと、それ以上の会話を封じた。完全な拒絶。晴久は、以前にも似た光景を見たことを思い出した。
「あ、すみませんでした……」
二人は後ずさるようにして離れて行った。少し怯えているような感じさえした。
男はもちろん晴久に何の説明もしない。晴久も何も訊かない。二人とも前を向いたまま黙っていた。
晴久には男女のことはどうでもよかった。ただ、人を拒絶する男の雰囲気が怖かった。
自分に向けられた感情ではないとわかっていても、手の震えを抑えることができない。条件反射のように体が勝手に反応する。
これくらいのことで、と晴久は恥ずかしくなる。男には知られたくない。
膝の上で組んだ手にぎゅっと力を入れて握ってみたが、静かな動揺は治まらなかった。
不意に男の手が伸びて、固く握られた晴久の両手を覆った。
「どちらがマシだ?」
男は駅ビルを見たまま、のんびりと訊いてきた。
拒絶される恐怖と、急に触れられる恐怖と。男は、気づいている。
「……今……胸が痛くなりました。手も、ちょっと……余計に、すごく、苦しい」
「ククッ……。ダメだな」
男はむしろ楽しそうだった。
晴久は、怯えと、急に触れられた緊張と、この状況を笑っている男と、泣きそうな自分と、全てを一度に把握するのは無理だと諦めた。諦めた瞬間に、全てから解放されたような脱力感が手の震えを止めた。
しばらく手を重ねていた男は、晴久が落ち着くのを待って、静かにベンチから立ち上がった。
ああ、帰るのか。
「ここで儀式をやらないなら、来るか?」
晴久は顔を上げた。
「お前次第だ」
男の意思は何も感じられなかった。
感情もなく、笑顔もなく、この先は晴久の意思だけだった。
晴久は、何も言わず静かに立ち上がった。
男も何も言わなかった。
波が、晴久をさらう。
深い夜に沈んで闇に溶ける。
なぜと訊かれたら。
僕の答えは一つしかない。
偶然、会ったから。
他に理由はいらない。それだけで十分だった。
やや離れたところに落合がいた。
「落合君、お疲れ様でした」
名前を呼ばれた落合は、少し驚いた様子で会釈を返す。わずかに笑顔だったのを見て、晴久はホッとした。
落合はこれから数人の仲間と飲みに行くようだ。
僕はまた無愛想だとディスられるのかな……。
胸の痛みは治まりつつあったが、モヤモヤした感情が晴久の気分を重くしていた。落合の言葉に侵食されているようで息苦しかった。
考え過ぎるな。
晴久は自分に言い聞かせた。
飲食店が並ぶ通りは丁度宴会が終わる時間が重なったらしく、そこかしこの店から出て来た団体客で混み合っていた。
数軒先の店先に思わず目が行った。やたらと存在感のある男が立っている。
遠目には全身黒だ。連れが数人いるようで、そちらの方が華やかで個性的に見えるが、目を惹くのは断然黒だ。
仕事関係なのだろうか。皆親しそうではある。
……絶対に、あの人だ。
相変わらずの無表情だ。雰囲気が怖い。
いつもあんな感じなのかと、晴久は安堵した。特に今は、自分の存在が男の機嫌を悪くさせていたとは思いたくなかった。
男も晴久に気づいたらしく、二人は互いに遠くから見合う形になった。
こういう時はどうすればいいのだろう。わざわざ挨拶するような関係ではない。無視、か。さすがに失礼か……。
考える間に、晴久は無視された。
男は無表情のまま晴久から目を逸らすと、一緒にいた数人と雑踏の中に消えた。
やっぱり知らないふりでいいのか。
まあそうだろうと、晴久は納得する。
見たのは四度目。普通に他人だ。
ひと月も経たずに偶然三回も会うということは、これまでもどこかですれ違っていたはずだ。きっと認識していなかっただけだ。
一回は偶然ではない……。頭に浮かんですぐに消した。
言葉を交わした途端に知っている人になる。こうして特別に見つけてしまう。その境目を、偶然越えた。
何の接点もない人だったのに。
人通りが落ち着いたところで、晴久は駅方向に歩き始めた。晴久が知る者も晴久を知る者も誰一人いない、いつもの光景だ。
細い路地を一本過ぎたところで、突然背後から声をかけられた。
「偶然だな」
「あ……」
帰ったのではなかったのか。男は路地の曲がり角に立っていた。晴久は周囲を見回したが、男と一緒だった人たちはいないようだ。
「私の仕事は終わった」
「あ、……そうですか。え……と」
「帰るのか? 私も帰るところだ」
それ以上は何も言わず、一緒に歩き出す。
いきなり当然のように自然に一緒に駅に向かっている。
晴久は少し戸惑う。
「僕も……仕事でした」
「そうか」
本当に、何も訊かない。別に訊く必要もないけれど、関心がなくても挨拶程度に何か訊くのが礼儀だと思っていた。
ふと男が晴久を見た。近い。顔を覗き込まれるとはまさにこの状態だ。
晴久は、触られたわけでもないのに緊張する。
「酒。飲まなかったのか?」
「あ、はい。僕、飲めないんで」
「ああ……それなら、やはり酩酊はナイな」
「……まだ疑っていたんですか?」
「さて」
そういえば、この人も飲食店から出てきたはずだ。飲んでいないのだろうか。
「なんだ?」
「あ、いえ……飲んでいないんですか?」
「私は、飲まない」
自分の意志で、ということか。
こうもはっきりと言えるのが晴久には羨ましく思えた。
駅前のペデストリアンデッキ広場まで来ると、男は迷わずベンチに向かった。以前晴久に会った時と同じ場所に座る。
晴久が戸惑うのを見て、不思議そうに訊いた。
「一日の終わりだ。遅い時間は儀式をやらないのか?」
隣で見られていたら緊張して、心を落ち着かせられるわけないでしょう。
晴久は苦笑した。
とりあえず男の隣に座るとそれ以上儀式を促されることもなく、二人は黙って人の往来を眺めた。
「……ずいぶんと元気そうだ」
男がぽつりと言った。
「おかげさまで」
「全くそのとおりだな」
「……」
事実だが、晴久はどう返して良いかわからない。ただの挨拶のはずが、何食わぬ顔で含みのある言い方をして晴久を困惑させているとしか思えなかった。
補足説明が必要だろうか、いや、平然と受け流せば良かったかとあれこれ考える姿を凝視され、益々恥ずかしくなってきた。
「……お前は、強いんだな」
男は独り言のように言った。晴久はハッとして男を見たが、既に男は晴久を見てはいなかった。
急に、自分の気分が重かったことを思い出した。男に声をかけられてから今この瞬間まで、すっかり忘れていた。思い出しても、モヤモヤした感情が再び湧き上がることはない。
ああ、この人は本当に僕を消してくれるんだ。
今日の儀式がなくても明日を迎えられる安心感に思わず顔がほころんだ。
ベンチに二人連れの若い男女が近づいて来た。少し前からこちらを気にして遠くから見ていたようだ。男はそれに気づいていたらしい。
「あの、失礼ですが……」
晴久は顔を上げたが、二人は男だけを見ていた。
二人が何か迷う間に、男が先に口を開いた。
「人違いですよ。よく間違えられるが迷惑です」
男は二人の顔を見ることなく言うと、それ以上の会話を封じた。完全な拒絶。晴久は、以前にも似た光景を見たことを思い出した。
「あ、すみませんでした……」
二人は後ずさるようにして離れて行った。少し怯えているような感じさえした。
男はもちろん晴久に何の説明もしない。晴久も何も訊かない。二人とも前を向いたまま黙っていた。
晴久には男女のことはどうでもよかった。ただ、人を拒絶する男の雰囲気が怖かった。
自分に向けられた感情ではないとわかっていても、手の震えを抑えることができない。条件反射のように体が勝手に反応する。
これくらいのことで、と晴久は恥ずかしくなる。男には知られたくない。
膝の上で組んだ手にぎゅっと力を入れて握ってみたが、静かな動揺は治まらなかった。
不意に男の手が伸びて、固く握られた晴久の両手を覆った。
「どちらがマシだ?」
男は駅ビルを見たまま、のんびりと訊いてきた。
拒絶される恐怖と、急に触れられる恐怖と。男は、気づいている。
「……今……胸が痛くなりました。手も、ちょっと……余計に、すごく、苦しい」
「ククッ……。ダメだな」
男はむしろ楽しそうだった。
晴久は、怯えと、急に触れられた緊張と、この状況を笑っている男と、泣きそうな自分と、全てを一度に把握するのは無理だと諦めた。諦めた瞬間に、全てから解放されたような脱力感が手の震えを止めた。
しばらく手を重ねていた男は、晴久が落ち着くのを待って、静かにベンチから立ち上がった。
ああ、帰るのか。
「ここで儀式をやらないなら、来るか?」
晴久は顔を上げた。
「お前次第だ」
男の意思は何も感じられなかった。
感情もなく、笑顔もなく、この先は晴久の意思だけだった。
晴久は、何も言わず静かに立ち上がった。
男も何も言わなかった。
波が、晴久をさらう。
深い夜に沈んで闇に溶ける。
なぜと訊かれたら。
僕の答えは一つしかない。
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