境界のクオリア

山碕田鶴

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12.暗合 一

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「広瀬さんが飲み会に出るなんて珍しいですよねえ」

   座敷席で晴久の隣に座る落合が大げさに喜んでみせる。

「僕だって送別会くらいは出ます」

   施設に十五年勤めた先輩職員が退職するということで、駅近くの飲食店で規模の大きな送別会が行われている。いつもなら部署内で挨拶程度に数人が集まるくらいだが、今回は長年勤務して移動も多かったため他部署からの参加者も多く、ずいぶんとにぎやかな会になっていた。
   晴久は事前のシフト調整で夜勤の希望を出していた。勤務が日勤に確定して不参加の口実が消えてしまったので仕方なく出ているというのが本当のところだ。
   主役は同年代の職員たちと中央のテーブルを囲み、談笑している。その周りを若手職員が埋め、晴久は新人と一緒の末席にいた。
   晴久が先輩に直接挨拶をして席に戻ると、なぜか落合が隣に来て晴久に絡み始めた。

「広瀬さん、なんでこの仕事してるんですか?  なんで誘っても職員とメシ行かないんですか?  広瀬さんって人嫌いなんですか?」

   落合は晴久のグラスを勝手に取ると、中を覗き込んだ。

「酒じゃないんすか?  酒注ぎますよ」

   グラスの横に烏龍茶の瓶が置いてあるのだから、訊かなくてもわかるだろう。
   晴久は、あれこれ質問をされて少し気が立っていた。

「僕は酒、無理なんです」

   深呼吸して気持ちを落ち着けようとするが、百八十センチを超える大柄な落合が狭い座敷席で隣にぴたりと付いている圧迫感もあり、全くすっきりしない。

「広瀬さん、お酒ダメなんですか?」

   正面に座る川島がすかさず尋ねた。

「はい、まあ……」

   実際にどれだけ飲めるのかわからないので、返事が曖昧になる。
   川島は笑顔で聞いている。会の始めから、ずっと晴久を笑顔で見ていた。
   ふわふわとカールした明るい色の髪が肩の上で揺れている。仕事中はきっちり後ろで結んでいるから別人のようだ。
   両隣の女子職員から素敵だと褒められているパステル調のワンピースが、女性的で優しい雰囲気を強調している。晴久にはそう見えた。
   川島が何か言いかけた途端、落合が横から口を挟んだ。

「人嫌いって、否定しないんすか?」

   また話がそこに戻るのか。
   晴久はうんざりしたが、自分から席を離れても行く先がない。逃げられない状況に、最後まで落合につきあうしかないと覚悟した。

「そんなふうに見えたならすみません。気をつけます。前に、潔癖症なのかって訊きましたよね。それも違いますけど、気をつけます」
「ふう……ん。俺は広瀬さんに嫌われてると思ってましたけどね」
「えっ?」

   晴久の声が思わず大きくなる。

「違いました?  就職した時から、もう初対面から思ってましたけど」
「なんで……」
「だって、スゲー感じ悪かったんで。無愛想で素っ気ないし、入居者にはニコニコしてんのに職員には冷たいし。特に俺」
「あ……」

   落合に特別距離を置いたつもりはない。だが、入居者には無理をしてでもかなり積極的に関わっているのは事実だ。その落差か。

「結構ムカついてたんですよ。俺が何かしたかよって」
「すみません。別にそんなつもりはなくて……」
「まあ、なんか段々そんな感じかって思ってきましたけど。広瀬さん、職員とメシ行かなくて正解でしたよ。俺、毎回広瀬さんディスりまくりだったから」
「落合君、言い過ぎだって」

   川島が止めに入る。

「広瀬さんすみません。落合君って昔から言い方がキツイんです」

   落合は川島に言われて、見るからに不機嫌になった。

「あ、私と落合君、同じ学校だったんです。なんか就職も偶然同じところに決まって、だから前からの知り合いなんです」
「そうなんですか。よく知っている人と一緒の職場だと心強いですね」
「えー、ただの同級生ですよ。ねえ?」

   ねえと言われた落合は、不機嫌なまま「まあ」とだけ答えた。
   晴久は、落合の職場環境を悪くしていたのが自分だとは考えもしなかった。他の職員からも素っ気ないと言われることは確かにあるが、いくら考えても問題が起きたことはない。
   嫌味を言われるほど自分は鈍感だったのか。  過去を反省して改善するしかないが、そもそも何がいけなかったのか。

「落合君」

   晴久は静かに声をかけた。勤務時間以外で落合の名前を呼んだことがなかったと、この時初めて気がついた。
   これが冷たいと思われた理由だろうか。

「僕の態度で嫌な思いをさせてごめんなさい。嫌っているとか、そういう気持ちはないんです。僕の何が落合君を嫌にさせているのか、できれば教えて欲しい……」

   晴久は前を向いたまま、うつむき加減に話した。
   落合に向き直って伝えなければいけないのはわかっている。だが、普通に声を出すだけで精一杯だった。手の震えをテーブルの下に隠し、平静を装う以上の余裕がなかった。
   落合が自分をじっと見ているとわかり、益々落合の方を向けなくなった。
   テーブルの向こうの川島には聞こえないくらいの声だったが、落合には届いたようだ。

「なんか、どっちが先輩かわかんないすね」

   それきり落合が晴久に話しかけることはなく、送別会が終わるまで同期の職員たちと笑い合っていた。
   晴久の問いには答えなかった。

   キツイな。

   それが晴久の本音だった。
   どれだけ前向きに考えようとしても、今は感情が置き去りになっている。
   自己嫌悪。
   晴久は、心の中で何度も落合に謝った。
   冷たくされて傷つくのは痛い。自分の中心を刺されるような鋭い痛みと、いつまでも残るヒリヒリとした感覚。
   落合の言う「ムカつく」がどれ程の痛みを伴うのかはわからない。
   だが晴久は、落合に共鳴するように自分が知る痛みを自分の内から引き出してしまっていた。
   こんな痛みなら、自分はいくらでも知っている。いちいち思い出さなくても、感覚がよみがえる。
   痛い。
   痛い。痛い。痛い。
   周囲に気づかれないよう溜息にして捨てながら、晴久は早く送別会が終わることを願った。
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