境界のクオリア

山碕田鶴

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10.邂逅 五

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「おい。いいのか?  君はおさわり禁止だろう?」

   男はことさらのんびりと言った。晴久の戸惑いを知ってか、驚きの表情はすぐに柔らな笑顔の下に消え、感情は全く見えなくなった。

「僕から……触るのは平気です。急に触られなければ、平気……なんです」
「結構な答えだが、解説してもらいたいのはそこではない。この状況だ。……これだと君が私を誘っているようにしか見えないが?」
「あの……」

   晴久は男を見たままで言葉が続かなかった。

「私はそう受け取るが構わないのか?」

   わからない。なぜ引き止めてしまったのか。なぜ手を離せないのか。この人が何を言っているのか、わからない。
   いなくなると思ったら反射的に手を伸ばしてしまった。それだけだ。
   誘う?  そう受け取る? 
   男は無表情だ。わからない。僕は何か間違えた。僕は何が悪かった?
   晴久の表情がこわばるのを男は黙って見続けた。呆れたように空を見上げて、それから溜息をつく。
   晴久に腕をつかまれたまま肩が触れる距離でもう一度座ると、膝を突き合わせて内緒話でもするような近さで晴久の顔を見た。

「一度だけ言う」

   男の冷たい表情に、晴久は息を呑んだ。

「お前は他人を怖がって、他人の怖さを知らない。他人を怖がるのに、警戒心が薄い。人が怖いと言っておきながら、自分を晒して他人の同情を引くような真似さえする。わざとか?  わかっているか?  お前にその気がなくとも、そう見えれば同じことだぞ。他人に自分の核心をあっさり見せるのは感心しない。カウンセラーに対するように、赤の他人だから何でも話せると思ったか?  見ず知らずの相手がプライバシーを守る保証がどこにある?  詐欺だなんだと、あっという間に他人に食い物にされるぞ。話を聞いた私を信用するのは勝手だが、後で被害者面されるのはごめんだ」

   男は小声で一気に言うと、一拍置いて告げた。

「急に近づくな」

   晴久は明確な拒絶に動揺した。何か言わなければと思うのに言葉が見つからない。激しくなった鼓動で胸が痛む。
    僕は間違えた。この人が遠いと思って安心して、自分から近づき過ぎた。
   つかんでいた手を離そうとした瞬間、男がその腕を押さえて動きを封じてしまった。晴久が振りほどこうとするのを更に強い力で押さえつけてくる。
   僕、何やっているんだろう。
   晴久が我に返ってようやく力を抜くと、男は腕をつかんだまま、今度はなだめるように指先だけでトントンと合図を送ってきた。
   晴久はおそるおそる男の顔を間近で見た。

「急に近づくな。そう言ったのは君だろう?  無理をするとストレスで倒れるぞ。君にとってはハイピッチで酒を飲むより危険だろう」

   また、声が優しい。だが、感情のない笑顔がはっきりと晴久との間に境界線を引く。晴久自身がいつもやっていることだ。だからこそ、突き放されたのがわかる。
   つい先刻まで遠い距離に安心していたはずなのに、今は不安しかない。
   晴久は混乱した。引き寄せられて、突き放されて、また引き寄せられて、波打ち際に酔っていくような感覚。緊張だけが更に高まっていく。
   男は晴久の腕から手を放し、晴久もやっと男の腕を放した。
   男はもう一度溜息をつくと空を見上げた。
   そのまましばらく、二人は無言だった。

「……怖いもの知らず。怖いもの見たさ。距離感がおかしくて本当に危なっかしいな。無謀。無自覚。無鉄砲。だが、無謬」
「むびゅう?  ……って何ですか?」

   独り言のようにつぶやく男に晴久は訊いた。

「君のことだ」
「……?」

   男はかすかに、気が抜けたように笑ったように見えた。

「オトモダチになりたいと言うなら考えてやらなくもないが、私は君と違って他人と関わりたくない。詮索と束縛はこの世の悪だと思っている。ああ、でも君の昔のことは色々訊いたな」
「……すみません」
「なぜそこで謝る?  私の腕をつかんだことか。その程度で束縛か。難儀だな。なぜ無理に近づこうとする?  今更、早くオトナになりたい年でもないだろう。何をムキになる?」
「近づこうとしたのではなくて……」

   離れるのが怖かった。置いていかれるようで怖かった。あとは、わからない。
   駅前に来るまでのモヤモヤした気持ちと、たぶんこれまでに毎日消してきたはずの自分の心と、男に感情を揺さぶられるような怖さと、全てがひとつに混ざって溢れそうになっていた。

    存在を拒絶されるのは、怖い。

   ……ヴー、ヴー、ヴー、ヴー……
   男の胸元から振動音が響いた。
   男は立ち上がって晴久に背を向けると、慌てて電話に出た。

「……ああ、そうだ。すまない。少し遅れる」

   これから仕事だと言っていたのに、引き止めてしまった。どうしよう。また迷惑をかけてしまった。
   帰ろう。 今すぐ立ち去ろう。
   晴久は、そっと立ち上がると静かにベンチを離れた。
   どんな形であれ、自分を拒絶されるのが怖かった。さようならという挨拶さえ、今は耐えられそうになかった。
   しばらく歩いたところで、突然ぐっと首に引っかかるものを感じた。振り向くと、男が電話で話しながら晴久の服の襟元をつかんでいる。

「ああ?  交通事故だ。そうだ。ダンプカーに突っ込まれた」

   晴久は、男につかまれたことよりも会話の内容に気を取られた。
   この人、真顔で何言ってるんだろう。

「はあ?  私が轢くわけないだろう。轢かれたんだよ、大型のダンプカーに。これからすぐ行く」

   通話相手の絶叫が漏れ聞こえてくる。男はあっさりと電話を切ると、晴久の服からも手を離した。

「待て。手短かに話の続きだ。オトモダチになるのは構わない。ただし、そういうオトモダチなら、だ。意味、わかるか?  あとになってだまされたとか言われても困るからな。私は他人が面倒だが、君は私にいっさいの詮索をしてこない。悪くはない」

   そういうって。
   戸惑う晴久の耳元で男はささやいた。

「お前は自分を消したいと言ったな。どうする?  それくらいのことならしてやれるぞ」

   闇にさらう声だと晴久は思った。自分は完全にからかわれている……。

「あの……」

   男は、ぽんと晴久の肩に手を乗せて言葉を遮った。晴久の体がこわばるのを承知で触れているとしか思えなかった。

「すまないが今は約束がある。……二十三時だ。もしまた君が駅前にいて、私が君に会ったなら、その時は君が同意したとみなすぞ」

   男の手が離れても、晴久は動けなかった。

「いいか。世の中には、冗談でしたで済む話がごまんとあることを忘れるな。私は君をからかったつもりはないが、よくよく考えろ。だから、早く帰りなさい」

   男はそう言うと、駅前広場の階段を下りてアーケード方面へと消えた。
   男からは、拒絶の言葉も去り際の挨拶もなかった。
   男がいなくなると、以前と同じ駅前の風景が戻った気がした。
   僕が腕をつかんで引き止めなければ、あの人はこんな関わり方はしなかっただろう。
   もう二度と会わないかもしれない人。会わなくても、僕の人生は続いていく。
   気難しそうな、それでいて晴久をからかって楽しむような男の顔を思い出す。
   どうする?  その先は、僕次第だ。
   三度目に偶然はない。
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