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6.邂逅 一
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「あら佐藤君、ご無沙汰ねえ。お元気?」
「はい、キヨさんもお変わりなく。そろそろお部屋に戻りますよ」
「まあやだ。私ここに泊まっていた? お部屋ってどこかしら?」
「ああ、大丈夫です。僕がご案内しますから」
晴久が車イスを押しているのは百歳に近いキヨだ。晴久が勤める介護施設に来て半年になる。
今は施設の入居者たちが建物の外で短時間の日光浴をして戻るところだ。
ご無沙汰ねえ、は晴久の知る限り今日三回目になる。かけ声みたいなものか。
「あ、タケさんこっちですよ。もう帰りますよ」
晴久は建物から離れていく八十代の女性にも声をかけた。新人職員の川島が付き添っているが、どうも戻ってくれないらしい。
「タケさーん、こっちの方が近道ですよー」
タケは振り返ると晴久めがけて突進してきた。
「昭一? あんた昭一?」
「はい。一緒に行きましょう」
昭一はタケの息子の名だ。既に定年過ぎのはずだが、タケの記憶の中ではまだ子供に近いのだろう。タケは若い母親のまま今を生きている。
「っ!」
晴久は声にならない声をあげた。タケが急に手首をつかんできたのだ。
「どうかしましたか?」
川島が心配そうに訊いてくる。
「いえ、ちょっと。タケさんの爪がひっかかって……」
これは嘘だ。爪は職員がいつも丁寧に切っている。急に触られただけだ。
「タケさん、手をつないで帰りましょう」
晴久は、手首をつかむタケの手をそっと離して手をつなぎなおす。
自分から触れば大丈夫だ。触られるのも、突然でなければほぼ大丈夫だ。就職三年目にしてようやく慣れ始めたところではあるが。
他の職員や入居者と共にエレベーターに乗ると、すぐ後ろをついて来た川島が晴久にちょこんと頭を下げた。
こういうのは相性によって声の届きやすさが違うこともあるから、いちいち気にしていたら身がもたないよ。
晴久はそう思うが、彼女には言わない。言えないというべきか。
この施設では、一般に認知症といわれる状態が相当進んだ人たちが生活している。
症状が進むというのは記憶容量がいっぱいになって新しく覚えられないだけで、昔のことは大概よく覚えている。時間が止まったように「今」は更新されないものの、同じことに喜び、同じことに驚き、同じことに怒るから、心はそのままなのだと晴久は感じている。
それでも段々と自分の形がぼやけて抑制が効かなくなり、昔のことも消えていく。最後に残るのは本当に大切だったこと、心に深く刻まれたことだけで、それすら手放した後に見る世界がどのようなものなのかは日々接している晴久にもわからない。
他人の心も感覚も、他人に本当のところはわからない。
「佐藤君、あなた南大東島って行ったことある?」
キヨは車イスを押す晴久に機嫌良く話しかけてきた。
「私はそこで生まれ育ったの。良いところよ。一面サトウキビ畑でねえ、気候はいいし人はのんびりしているし。ぜひいらしてみてね」
「ぜひ行ってみたいですね」
キヨにとって南大東島には幸せな思い出が詰まっているのだろう。晴久が何度も聞いた、会うたびの話題だ。
晴久は入居者たちの思い出話が好きだった。思い出の中で生きる入居者に合わせて同じ時間を覗くのも楽しかった。
時には思い出の誰かの人生を借りることで、他者と心通わせる疑似体験ができた。人との関わりが極端に乏しかった晴久にとって、それさえも貴重な経験だった。精神的、身体的抵抗を常に感じながらも、それ以上に得られる喜びがここにはある。
晴久自身を記憶されないであろう気安さで、入居者とは楽に会話ができる気もした。
「あ、広瀬君お帰りなさい。キヨさんを部屋にお連れしたら休憩入って」
「はい」
キヨさんの呼ぶ佐藤君って誰だろうな。
この半年の間のささやかな疑問は、今日も解けそうになかった。
施設には晴久と同年代の若い職員が多い。 気を抜く暇もなく慌ただしく過ぎる時間の中で、職員どうし業務連絡以外の会話はほとんどなく、わずかな休憩時間には交代の挨拶をする程度だ。その距離感が晴久にとってはありがたい。
「お疲れ様でしたー。あ、広瀬君、今日みんなでご飯行くけど来ない?」
「すみません。先約があって……」
退勤後に職場の仲間でよく集まっているのは晴久も知っている。休日に一緒に遊びに行ったという話も聞く。特に晴久の周りの若い職員たちは、職場の仲間が遊び仲間だ。
晴久も誘われることは多いが、いつも断るので今は社交辞令と化している。声をかけてくれることに感謝しつつも、友達づきあいとなると晴久にとっては距離が近過ぎて踏み出せないでいた。
無理をし過ぎれば体調を崩す。何度も経験した過去の教訓だ。
ただ黙ってそばにいて、互いの存在を確認して安心する。
晴久の距離感ではこれだけでも十分だが、そんな都合の良い相手がいるはずもなく、ある意味理想が高過ぎると自分でも呆れている。
「広瀬さん」
職員通用口を出るところで、晴久は川島に呼び止められた。
「昼間はありがとうございました。私ももっと頑張ります。今日も一緒にご飯行けないの、残念ですね」
にこやかに言われて、晴久は少し戸惑う。
川島だけでなく、全ての職員に対して晴久は距離を置いていた。決して無視するわけではない。必要最低限の意思疎通は図る。それ以上は、自分自身を守るために近づかない。
川島にはその距離を越えて踏み込まれている気がした。
川島は、ふわふわと柔らかい綿のようなイメージで可愛らしいと職員の間でもっぱら評判の新人だ。
怖い印象はないし、怖がる必要はない。だが、晴久は本能的な怖さを感じてしまっていた。
「川島さんならすぐ慣れますよ。ご飯は、そのうちに。お疲れ様でした」
晴久の穏やかな言葉と笑顔が二人の間に境界線を引く。川島には親しみと受け取られているはずだ。
嬉しそうにお辞儀をする川島に軽くお辞儀を返してようやく通用口を出ようとした時、ぽんと肩を叩かれた。
「広瀬さん、落としました?」
振り向くと、落合が手に持った鍵を晴久の目の前で揺らした。
「僕のでは……ないです」
晴久は緊張を隠して答えた。
心臓の音がうるさい。落ち着け、落ち着け。
「そうすか。あ、広瀬さんって潔癖症とかですか?」
「え?……何ですか、いきなり。別に、違いますけど」
「ですよねー。俺、失礼でしたね。すいません。いつもなんか触るのとか嫌なのかなーって思ってただけです」
わざとか。トゲのある言い方だな。
他の職員たちのもとへ急ぐ落合の背中を見ながら、晴久はモヤモヤした感情を抑えていた。何かしら話しかけてくることが多いが、いつも引っかかる言い方をする。
落合は川島と同期の新人だ。だから、まだ社交辞令のつきあいになっていない。しばらくは仕方がない。
晴久はそう割り切って、ひとり駅に向かった。
「はい、キヨさんもお変わりなく。そろそろお部屋に戻りますよ」
「まあやだ。私ここに泊まっていた? お部屋ってどこかしら?」
「ああ、大丈夫です。僕がご案内しますから」
晴久が車イスを押しているのは百歳に近いキヨだ。晴久が勤める介護施設に来て半年になる。
今は施設の入居者たちが建物の外で短時間の日光浴をして戻るところだ。
ご無沙汰ねえ、は晴久の知る限り今日三回目になる。かけ声みたいなものか。
「あ、タケさんこっちですよ。もう帰りますよ」
晴久は建物から離れていく八十代の女性にも声をかけた。新人職員の川島が付き添っているが、どうも戻ってくれないらしい。
「タケさーん、こっちの方が近道ですよー」
タケは振り返ると晴久めがけて突進してきた。
「昭一? あんた昭一?」
「はい。一緒に行きましょう」
昭一はタケの息子の名だ。既に定年過ぎのはずだが、タケの記憶の中ではまだ子供に近いのだろう。タケは若い母親のまま今を生きている。
「っ!」
晴久は声にならない声をあげた。タケが急に手首をつかんできたのだ。
「どうかしましたか?」
川島が心配そうに訊いてくる。
「いえ、ちょっと。タケさんの爪がひっかかって……」
これは嘘だ。爪は職員がいつも丁寧に切っている。急に触られただけだ。
「タケさん、手をつないで帰りましょう」
晴久は、手首をつかむタケの手をそっと離して手をつなぎなおす。
自分から触れば大丈夫だ。触られるのも、突然でなければほぼ大丈夫だ。就職三年目にしてようやく慣れ始めたところではあるが。
他の職員や入居者と共にエレベーターに乗ると、すぐ後ろをついて来た川島が晴久にちょこんと頭を下げた。
こういうのは相性によって声の届きやすさが違うこともあるから、いちいち気にしていたら身がもたないよ。
晴久はそう思うが、彼女には言わない。言えないというべきか。
この施設では、一般に認知症といわれる状態が相当進んだ人たちが生活している。
症状が進むというのは記憶容量がいっぱいになって新しく覚えられないだけで、昔のことは大概よく覚えている。時間が止まったように「今」は更新されないものの、同じことに喜び、同じことに驚き、同じことに怒るから、心はそのままなのだと晴久は感じている。
それでも段々と自分の形がぼやけて抑制が効かなくなり、昔のことも消えていく。最後に残るのは本当に大切だったこと、心に深く刻まれたことだけで、それすら手放した後に見る世界がどのようなものなのかは日々接している晴久にもわからない。
他人の心も感覚も、他人に本当のところはわからない。
「佐藤君、あなた南大東島って行ったことある?」
キヨは車イスを押す晴久に機嫌良く話しかけてきた。
「私はそこで生まれ育ったの。良いところよ。一面サトウキビ畑でねえ、気候はいいし人はのんびりしているし。ぜひいらしてみてね」
「ぜひ行ってみたいですね」
キヨにとって南大東島には幸せな思い出が詰まっているのだろう。晴久が何度も聞いた、会うたびの話題だ。
晴久は入居者たちの思い出話が好きだった。思い出の中で生きる入居者に合わせて同じ時間を覗くのも楽しかった。
時には思い出の誰かの人生を借りることで、他者と心通わせる疑似体験ができた。人との関わりが極端に乏しかった晴久にとって、それさえも貴重な経験だった。精神的、身体的抵抗を常に感じながらも、それ以上に得られる喜びがここにはある。
晴久自身を記憶されないであろう気安さで、入居者とは楽に会話ができる気もした。
「あ、広瀬君お帰りなさい。キヨさんを部屋にお連れしたら休憩入って」
「はい」
キヨさんの呼ぶ佐藤君って誰だろうな。
この半年の間のささやかな疑問は、今日も解けそうになかった。
施設には晴久と同年代の若い職員が多い。 気を抜く暇もなく慌ただしく過ぎる時間の中で、職員どうし業務連絡以外の会話はほとんどなく、わずかな休憩時間には交代の挨拶をする程度だ。その距離感が晴久にとってはありがたい。
「お疲れ様でしたー。あ、広瀬君、今日みんなでご飯行くけど来ない?」
「すみません。先約があって……」
退勤後に職場の仲間でよく集まっているのは晴久も知っている。休日に一緒に遊びに行ったという話も聞く。特に晴久の周りの若い職員たちは、職場の仲間が遊び仲間だ。
晴久も誘われることは多いが、いつも断るので今は社交辞令と化している。声をかけてくれることに感謝しつつも、友達づきあいとなると晴久にとっては距離が近過ぎて踏み出せないでいた。
無理をし過ぎれば体調を崩す。何度も経験した過去の教訓だ。
ただ黙ってそばにいて、互いの存在を確認して安心する。
晴久の距離感ではこれだけでも十分だが、そんな都合の良い相手がいるはずもなく、ある意味理想が高過ぎると自分でも呆れている。
「広瀬さん」
職員通用口を出るところで、晴久は川島に呼び止められた。
「昼間はありがとうございました。私ももっと頑張ります。今日も一緒にご飯行けないの、残念ですね」
にこやかに言われて、晴久は少し戸惑う。
川島だけでなく、全ての職員に対して晴久は距離を置いていた。決して無視するわけではない。必要最低限の意思疎通は図る。それ以上は、自分自身を守るために近づかない。
川島にはその距離を越えて踏み込まれている気がした。
川島は、ふわふわと柔らかい綿のようなイメージで可愛らしいと職員の間でもっぱら評判の新人だ。
怖い印象はないし、怖がる必要はない。だが、晴久は本能的な怖さを感じてしまっていた。
「川島さんならすぐ慣れますよ。ご飯は、そのうちに。お疲れ様でした」
晴久の穏やかな言葉と笑顔が二人の間に境界線を引く。川島には親しみと受け取られているはずだ。
嬉しそうにお辞儀をする川島に軽くお辞儀を返してようやく通用口を出ようとした時、ぽんと肩を叩かれた。
「広瀬さん、落としました?」
振り向くと、落合が手に持った鍵を晴久の目の前で揺らした。
「僕のでは……ないです」
晴久は緊張を隠して答えた。
心臓の音がうるさい。落ち着け、落ち着け。
「そうすか。あ、広瀬さんって潔癖症とかですか?」
「え?……何ですか、いきなり。別に、違いますけど」
「ですよねー。俺、失礼でしたね。すいません。いつもなんか触るのとか嫌なのかなーって思ってただけです」
わざとか。トゲのある言い方だな。
他の職員たちのもとへ急ぐ落合の背中を見ながら、晴久はモヤモヤした感情を抑えていた。何かしら話しかけてくることが多いが、いつも引っかかる言い方をする。
落合は川島と同期の新人だ。だから、まだ社交辞令のつきあいになっていない。しばらくは仕方がない。
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