境界のクオリア

山碕田鶴

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3.遭遇 二

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   向かった先は駅前の家電量販店だった。
   ペデストリアンデッキ広場から店舗に直結する通路を行くうちに、晴久は冷静さを取り戻していた。

   なんで僕は、この人と一緒に歩いている?

   最大の疑問は真っ先に封じた。自分が勢いでそう言ってしまったからだ。覚えている。けれども、それ以前のやり取りが曖昧ではっきりしない。
   倒れた時に打ったらしい膝が痛むが、足取りはしっかりして問題ない。はじめは寄り添っていた男も、今は離れて歩いている。
   店に入るまでのわずかな間に、晴久は人の視線を頻繁に感じた。
   すれ違う人たちが一瞬男を目で追い、すぐに晴久を見る。どうやら男のついでに見られているらしい。 
   男の服装に派手さはなく、落ち着いた黒で統一されている。特別背が高いわけでもない。立ち姿は美しく顔立ちも整っているが、晴久には少し近寄りがたい疲れたサラリーマンにしか見えない。
   それなのに、なぜか人目を惹いていた。普段人の波に紛れて目立つことのない晴久には、全く慣れない感覚で落ち着かなかった。
   入り口でラックからパソコンのパンフレットを一部抜き取った男は、簡易テーブルと椅子がいくつも並ぶ「お客様コーナー」の一角にポンと置いた。
   椅子をひとつ引いて晴久に座るよう促す。
   コーナー脇の自動販売機で缶コーヒーを二本買うと、カフェオレを晴久の前に置いた。

「ありがとうございます」

   熱い缶に触れた晴久は、指先が冷たくなっていることに気づいた。
   晴久の隣に座った男は、黙ってブラックコーヒーを開けた。
   ここは本来、配送手続きや伝票記入用の場所らしい。男は堂々と陣取っているが、パンフレットで一応客を装っているようだった。

「さて」

   男は、深呼吸とも溜息ともつかない吐息と共にそう言うと、晴久を見た。
   男が何か言うよりも先に、晴久は尋ねた。

「あの……これはどういう状況でしょうか?」

   呆れたように、しかし淡々と男は答えた。

「それはこちらが訊きたいものだな。電話中に君が寄りかかってきた。声をかけても反応がない。やっと目覚めたと思えば、派手に転んで動けない。周りが騒がしくなって仕方がないので、とりあえずここへ来た」
「……ずいぶんとご迷惑をおかけしたようで。……申し訳ありませんでした」

   晴久は座ったまま深々と頭を下げた。

「まったくだ」

   溜息に怒りは感じられないが、自分に向けられる視線が気になって晴久は落ち着かない。
   こんなに近くで隣り合って話すなど、職場以外ではありえない。

「君はもう大丈夫なのか?」
「はい。すっかり……」

   緊張で声がかすれる。言葉が続かなかった。

「いや、酒とか薬とかの酩酊でなければそれでいい。こんな時間に子供がひとりで何をしていた?  駅前の警察まで君を見ていたぞ」

   酒?  薬⁉︎  子供……。
   疑い方が極端だ。かなりの誤解を招いているらしいが、それを承知でこの男は助けてくれたのか?

「それでベンチを離れて……くれたんですか?」
「別に君を助けたわけではない。私まで職務質問されそうで面倒だっただけだ」

   男は、まだ疑うように晴久を見ている。晴久は慌てて疑惑を否定した。

「ちょっとふらついただけなんです。本当に大丈夫です。変なことは絶対にしていません。とにかくすみませんでした」
「ちょっと?  あんなに派手にひっくり返ってか。それだけ鍛えていて病弱だとでも言いたいのか?」
「別に鍛えてはいませんけど……」

   細身の割に筋肉質だという自覚はある。支えてもらった時にそう思われたのか。

「仕事がほぼ肉体労働なので……あ、さっきは仕事帰りです。子供じゃありませんから」
「それは失礼。だが、知らない人間に声をかけられてホイホイついてきて、君は危機管理能力に欠けているな。もし私が……」

   説教でもされるのかと晴久は身構えた。だが、男はそれ以上言わない。
   気になって男を見た晴久は、男がずっと自分を見つめていたのに初めて気づいた。わずかに目が合って、慌てて視線を逸らす。
   それすら観察され続けている。男は一向に続きを話す気配がない。
   気まずい。
   晴久は、つい訊いてしまった。

「が?」

   男は目だけで周囲を見回してから、無表情のまま声を低くして静かに言った。

「私が人間社会に紛れ込んだ異星人で、君をこのままアブダクションしたらどうする?」

   ア?

「ア、アブダクションってなんですか?」
「地球生命体を実験目的で連れ去る行為だ」
「……さすがにそれは考えませんでした」

   晴久は「お客様コーナー」をぐるりと見回した。自分と男しかいないことを急に意識する。
   再び男を見ると、何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいた。目が笑っている気がする。
   しっかりと結ばれた口元からも、かすかに笑みがこぼれていた。
   あれ?  からかわれた?
   男の言動が全く理解できない。
   男は晴久が見つめるのを無視してコーヒーを飲み干すと、立ち上がってようやく晴久に向き直った。

「君が大丈夫そうなので、私はこれで失礼するよ」

   空になった缶とパンフレットをつかむと、座ったままの晴久の頭に顔を寄せた。

「君も早く帰りなさい」

   ささやくように言った男の手の甲が、一瞬晴久のこめかみを撫でるようにそっと触れた。
   はっとして体をこわばらせた晴久は、聞こえるか聞こえないか、独り言のような男の声を確かに聞いた気がした。

「失礼。苦手だったな」

   晴久は振り返って店内を見渡したが、男の姿は既に賑わいの中に消えていた。

 急に触られるのが苦手だって、なぜ知っている?

   晴久はその場に立ちつくした。男と一緒にいたこと自体がまるで夢のようで、現実味がなかった。

「あ……」

   テーブルに置かれたカフェオレが晴久を現実に戻す。男が実在した唯一の証拠だ。
   少し冷めた缶を手にして、晴久は店を出た。
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