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2057-2060 シキ
93 <完>
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持ち主がどんな生活をしていたのかなど知らない。狭く薄暗い部屋の一室で、誰のものだったかもわからないボロボロの肉体に包まれた私は、伏しておぼろに床を見ていた。
窓すらないのか。
ここは、どこだ?
それさえも考える必要性を感じない。
どこでもいい。誰でもいい。
ただ、このまま消えてはいけない。それだけを思った。
私に残された唯一の意思。
心の、魂の内から聞こえてくる切実な声が、崩壊してこぼれ落ちる私をかろうじて保持していた。
ふいに部屋の空気が重く変わった。
黒い影が染みるようにじわじわと目の前に広がり、懐かしい気配が塊になっていく。
「お前は昔から堕落しきっていたな」
からかうような声が静かに響いた。
「……カイ?」
自然にその名を呼んでいた。
カイ? ……誰だ?
気配が動いた。人型の影が私を見下ろす。
ああ。
私は知っている。
名を呼べば、繋がる。
そうだ。人間として生まれ来る、私の死神……。
カイの記憶が蘇る。それに連なる私の過去が戻ってくる。
「カイ……お前、影のままか? 人間の肉体はどうした?」
「ここはお前の意識、夢の中だ。夢も現もわからなくなったのか? ようやく俺の名を呼んだな。記憶も繋がったか? お前が転々と移動して面倒なことをするから、余計な手間がかかる。なぜもっと早く俺の名を呼ばなかった? 魂が消えかかっている」
カイが近づくのを私は拒んだ。ぼんやりとした記憶が、反射的に死神を拒絶していた。
「よせ。いいんだ。放っておいてくれ」
「ほう。そうか」
カイは気にしたふうもなく私に近づき、その気配で私を包んだ。
カイのエネルギーが魂に染みていく。光り輝く美しい波が、私を揺らしていく。
「やめろ。お前は死神だろう? なんで死神が人間を癒すのだ?」
「癒されているのか? 涙を流すほど嬉しいのか?」
私は溢れる涙を抑えることもできず、カイに身を委ねていた。
光に包まれる痛みと快感が、魂の輪郭を思い出させる。
これが生きている実感だ。
私は、確かにここに在る……。
満たされる私をしばらく眺めてから、カイは諭すように訊いてきた。
「シキ。もう気は済んだか? お前は長くこの世に居過ぎた。時代が変われば社会も価値観も変わる。今はお前が選んだ時代とは違い過ぎるだろう」
「私が選んだ?」
「お前は自ら選んであの時代に生まれた。あれから百八十二年だ。この世にいるには長過ぎだろう」
「お前は、私につきあって百五十年近く人間として生きたのか?」
「百四十七年だ。いい加減肉の臭いにうんざりしている」
「私があの世へ行くと決心するまで、お前はつきあうつもりなのか?」
「俺は、あの世へ戻れなくなった彷徨う魂を無事に救い出し、帰すために存在している。この世に在る魂には外部からの強制排除は適用されないから、全くもって面倒だ」
「カイ、お前は……魂を救う存在だったのか?」
「この世の概念で言う救済とは違うだろうがな。お前にもいずれわかる」
私は上体を起こしていた。あれほど重かった体がすっきりとしていた。カイのエネルギーが、私に活力を与えたのだ。
「お前はいつも私を追い込むだけ追い込んでおいて、最後の決定は強制しない。それどころか、こうして甘やかすのだ。本当にタチが悪い」
「これはお前の人生だ」
「……そうだ。私の人生だ。だから最期は私が決める」
「お前はもう決めたろう? 終わりを望み、受け入れた。既に魂が朽ちかけていたお前は、この世で崩壊して消え去るのではなかったのか? あれだけ崩れておいて未だにこうして存在し続けているとは、奇跡だな」
カイは嬉しそうに笑った。
「声が……聞こえたのだ。このまま消えてはいけないと。強く、強く祈り、願う声だ。私は確かに終わりを受け入れた。だが、ここで消え去るのではない。帰らねばならない。あの世へ帰って……今度は、あの世を知るのだ」
「そうだ、シキ。尊く美しい奇跡の存在。消えてはならない。全てを知りたければ、在り続けることだ。あの世も、そして次のこの世も、お前は好きなだけ知ればいい」
「カイ……お前だろう? 私の内から聞こえた祈りは、お前の声だ。私の存在をかろうじて保ち、崩壊した魂がそれでもこの世で霧散するのをとどめたのは、私の魂をあの世へ帰そうとするカイの祈りの声だ」
カイは、それには答えなかった。
この世のものではないカイの心の内はわからない。だが、私を包むカイの気配はどこまでも優しかった。
「シキ。魂は奇跡だ。人間は安らぎを求めるが、たどり着く先の安寧とは『無』だ。そこに在るが、ただ在るのみだ。その『無』にわずかな揺らぎができて生まれるのが混沌。魂だ。前にも言ったろう? お前は川岸に撥ねる一滴の奇跡だ。これ以上尊く美しいものがあるか? あの世の水面に落ちれば、お前の経験は元の水の中に溶け、全ての智慧と情報になる。この世で魂が霧散すれば、お前だったものはどこにも還る場所はなく、漂うばかりで何も残らないのだ。消えてしまうのは惜しいだろう? だから、あの世へ帰れ、シキ」
気が遠くなるほど果てなく広がる世界を思った。カイには、その全てが見えているのだろうか。
「……私は、どうやってあの世に行けばよいかわからない」
「ククッ。そうか。可哀想なことをした。もっと早く来てやれば良かったか」
私はこの世を生ききったのだ。
目の前のカイを見上げると、黒い影はなくなっていた。
ビルの屋上だ。
私は目を覚まし、現実の中にいた。
夜の闇を埋める黒い人影が、そこかしこに見える。ただ時が流れるのを待つ無気力の塊が息を潜めてじっとしている。
ビルの眼下には、整然と美しく無機質な街並みが広がっている。人間の活気が全くなくなった繁華街に集う、リアルアバターやアンドロイドがそろそろと流れるように動いている。
私は、私にとってのこの世の果てを目に焼きつけた。
遥か地平の彼方から薄明かりが広がり始めている。夜も朝も全てを同時に見せる刹那の光景に、私は満足した。
振り返ると目の前が光に包まれ、その中に光よりも輝く高僧のような存在が現れた。
これこそが死神本来の姿か。
静かに見つめてくる瞳を見返すと、カイは美しく笑った。
「カイ……」
私を戒め、導く慈悲の光……。
手を差し伸べられて、私は自然にその手を取った。
「シキ、お前は美しいな」
ふわりとこの世の重力から解き放たれる。
これは夢ではない。現実だ。
カイが私を引き上げるように天に向けて腕を伸ばすと、私はカイの手を離れてひとりゆっくりと昇っていった。
私を地上に縛るものは、もはや何もなかった。
私の百八十二年はこうして幕を閉じた。
<完>
窓すらないのか。
ここは、どこだ?
それさえも考える必要性を感じない。
どこでもいい。誰でもいい。
ただ、このまま消えてはいけない。それだけを思った。
私に残された唯一の意思。
心の、魂の内から聞こえてくる切実な声が、崩壊してこぼれ落ちる私をかろうじて保持していた。
ふいに部屋の空気が重く変わった。
黒い影が染みるようにじわじわと目の前に広がり、懐かしい気配が塊になっていく。
「お前は昔から堕落しきっていたな」
からかうような声が静かに響いた。
「……カイ?」
自然にその名を呼んでいた。
カイ? ……誰だ?
気配が動いた。人型の影が私を見下ろす。
ああ。
私は知っている。
名を呼べば、繋がる。
そうだ。人間として生まれ来る、私の死神……。
カイの記憶が蘇る。それに連なる私の過去が戻ってくる。
「カイ……お前、影のままか? 人間の肉体はどうした?」
「ここはお前の意識、夢の中だ。夢も現もわからなくなったのか? ようやく俺の名を呼んだな。記憶も繋がったか? お前が転々と移動して面倒なことをするから、余計な手間がかかる。なぜもっと早く俺の名を呼ばなかった? 魂が消えかかっている」
カイが近づくのを私は拒んだ。ぼんやりとした記憶が、反射的に死神を拒絶していた。
「よせ。いいんだ。放っておいてくれ」
「ほう。そうか」
カイは気にしたふうもなく私に近づき、その気配で私を包んだ。
カイのエネルギーが魂に染みていく。光り輝く美しい波が、私を揺らしていく。
「やめろ。お前は死神だろう? なんで死神が人間を癒すのだ?」
「癒されているのか? 涙を流すほど嬉しいのか?」
私は溢れる涙を抑えることもできず、カイに身を委ねていた。
光に包まれる痛みと快感が、魂の輪郭を思い出させる。
これが生きている実感だ。
私は、確かにここに在る……。
満たされる私をしばらく眺めてから、カイは諭すように訊いてきた。
「シキ。もう気は済んだか? お前は長くこの世に居過ぎた。時代が変われば社会も価値観も変わる。今はお前が選んだ時代とは違い過ぎるだろう」
「私が選んだ?」
「お前は自ら選んであの時代に生まれた。あれから百八十二年だ。この世にいるには長過ぎだろう」
「お前は、私につきあって百五十年近く人間として生きたのか?」
「百四十七年だ。いい加減肉の臭いにうんざりしている」
「私があの世へ行くと決心するまで、お前はつきあうつもりなのか?」
「俺は、あの世へ戻れなくなった彷徨う魂を無事に救い出し、帰すために存在している。この世に在る魂には外部からの強制排除は適用されないから、全くもって面倒だ」
「カイ、お前は……魂を救う存在だったのか?」
「この世の概念で言う救済とは違うだろうがな。お前にもいずれわかる」
私は上体を起こしていた。あれほど重かった体がすっきりとしていた。カイのエネルギーが、私に活力を与えたのだ。
「お前はいつも私を追い込むだけ追い込んでおいて、最後の決定は強制しない。それどころか、こうして甘やかすのだ。本当にタチが悪い」
「これはお前の人生だ」
「……そうだ。私の人生だ。だから最期は私が決める」
「お前はもう決めたろう? 終わりを望み、受け入れた。既に魂が朽ちかけていたお前は、この世で崩壊して消え去るのではなかったのか? あれだけ崩れておいて未だにこうして存在し続けているとは、奇跡だな」
カイは嬉しそうに笑った。
「声が……聞こえたのだ。このまま消えてはいけないと。強く、強く祈り、願う声だ。私は確かに終わりを受け入れた。だが、ここで消え去るのではない。帰らねばならない。あの世へ帰って……今度は、あの世を知るのだ」
「そうだ、シキ。尊く美しい奇跡の存在。消えてはならない。全てを知りたければ、在り続けることだ。あの世も、そして次のこの世も、お前は好きなだけ知ればいい」
「カイ……お前だろう? 私の内から聞こえた祈りは、お前の声だ。私の存在をかろうじて保ち、崩壊した魂がそれでもこの世で霧散するのをとどめたのは、私の魂をあの世へ帰そうとするカイの祈りの声だ」
カイは、それには答えなかった。
この世のものではないカイの心の内はわからない。だが、私を包むカイの気配はどこまでも優しかった。
「シキ。魂は奇跡だ。人間は安らぎを求めるが、たどり着く先の安寧とは『無』だ。そこに在るが、ただ在るのみだ。その『無』にわずかな揺らぎができて生まれるのが混沌。魂だ。前にも言ったろう? お前は川岸に撥ねる一滴の奇跡だ。これ以上尊く美しいものがあるか? あの世の水面に落ちれば、お前の経験は元の水の中に溶け、全ての智慧と情報になる。この世で魂が霧散すれば、お前だったものはどこにも還る場所はなく、漂うばかりで何も残らないのだ。消えてしまうのは惜しいだろう? だから、あの世へ帰れ、シキ」
気が遠くなるほど果てなく広がる世界を思った。カイには、その全てが見えているのだろうか。
「……私は、どうやってあの世に行けばよいかわからない」
「ククッ。そうか。可哀想なことをした。もっと早く来てやれば良かったか」
私はこの世を生ききったのだ。
目の前のカイを見上げると、黒い影はなくなっていた。
ビルの屋上だ。
私は目を覚まし、現実の中にいた。
夜の闇を埋める黒い人影が、そこかしこに見える。ただ時が流れるのを待つ無気力の塊が息を潜めてじっとしている。
ビルの眼下には、整然と美しく無機質な街並みが広がっている。人間の活気が全くなくなった繁華街に集う、リアルアバターやアンドロイドがそろそろと流れるように動いている。
私は、私にとってのこの世の果てを目に焼きつけた。
遥か地平の彼方から薄明かりが広がり始めている。夜も朝も全てを同時に見せる刹那の光景に、私は満足した。
振り返ると目の前が光に包まれ、その中に光よりも輝く高僧のような存在が現れた。
これこそが死神本来の姿か。
静かに見つめてくる瞳を見返すと、カイは美しく笑った。
「カイ……」
私を戒め、導く慈悲の光……。
手を差し伸べられて、私は自然にその手を取った。
「シキ、お前は美しいな」
ふわりとこの世の重力から解き放たれる。
これは夢ではない。現実だ。
カイが私を引き上げるように天に向けて腕を伸ばすと、私はカイの手を離れてひとりゆっくりと昇っていった。
私を地上に縛るものは、もはや何もなかった。
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