182年の人生

山碕田鶴

文字の大きさ
上 下
194 / 197
2057-2060 シキ

92-(2)

しおりを挟む
 ハルトの肉体を離れると、思考の霞が晴れてきた。それでもべったりと薄汚れた膜が貼りついたままの感覚が残って、自分の全てが重い。
 私は、また死霊に戻ってしまった。
   とにかく次を探さなければ。肉体を持たない魂は、あまりにも不安定だ。
 ビルの屋上には、あの世の楽園を待ちわびる者がいくらでもいた。
 ここの人間はダメだ。死が近過ぎる。長くもたないのだ。
 這いずるように地上に降りて繁華街の路地裏を進む。
 ここにも、闇に潜みじっと動かない本物の人間たちがいる。
 わずかな街灯の明かりさえ届かないビルの隙間に、一人の男がうずくまっていた。
 まだずいぶんと若そうだ。

「おい、聞こえるか?  私が視えるか?」

 声をかけた。
 身体に滑り込む前の、ただの挨拶だ。
 死霊の私に気づくかどうかは問題ではない。返事の有無に関わらず私は寄生する。獲物を狙い、間合いを詰める捕食者と変わらない。
 ややあって男の顔がゆっくりと上がり、生気のない目が私を捉えた。
 どうやら私が視えるらしい。

「視えるなら話が早い。私をしばらくその身体に入れて欲しい。悪いようにはしない」

 無表情のままぼんやりと私を見続ける男に意思は感じられない。

「なあ、お前も……あの世の楽園を望むのか?  お前が望むなら手伝ってやってもいい。その肉体を譲ってくれるなら、私はお前を解放できる」

 ああ、私は何を言っている?
 何をしようとしている?
 だが、この肉体を得られれば、私はまた当分の間安心して生きられるのだ。

「どうぞ」

 男から投げやりな返事があった。

「欲しいなら……どうぞ。これは僕じゃないから」

 いったい何度同じような言葉を聞いたことか。
 罪を重ねる許しを得ても、虚しさしか感じない。
 他人の肉体を奪わなければ生きられない自分が、仕方ないと言いながら悪業を繰り返す。
   この世に執着を続け、他人の肉体を奪ってでも生き続けようとする私は悪霊そのものだ。 
 奪うたびに魂が疲弊する。輝きが消えていく。濁って醜い塊になっていくのがわかる。
   それでも奪う。
 ……今さらだ。
 黙ったままの動かない男に手を伸ばした。
 暗い衝動に駆られる私の周囲の空気が、禍々しく冷えていく。

「お前が望む楽園へ今すぐ送ってやるから、この肉体を私によこせ……」

 男は、はじめて怯えと怖れの表情を浮かべた。
 私は意に介さない。この男に私を拒絶する強さはない。

「ダメです」

 静かな、しかしきっぱりとした声が、背後から私を止めた。

「その人は、心の底から生きていたいと望みました。だから、ダメです。……先生」

 振り返ると、白いシャツをまとった天使が柔らかな表情のまま私を見つめている。

「イオン……。四号、か」

 こうして目の前に現れるまで、その名も存在も忘れていた。断片的に噴き上がる記憶が色鮮やかに蘇る。
 五体のイオンの中で、私の「魂の器」となるはずだったのが四号だ。
 怒りも憐れみもない。感情の揺らぎなどいっさいなく穏やかな凪。
 四号は私と目を合わせたままこちらの心を読み、寄り添うように波長を合わせて重ねる。暗い衝動とざわついた心を撫でるようにしてゆっくりと波を静めていく。

「この人は生きたいです。だから、生き続けます」

 周囲から人が集まって来た。
 イオンと共に活動する照陽の人間だろう。男をグループの更生施設にでも連れて行くつもりなのか、声をかけている。男に反応はないが、どこか安堵の空気が漂う。

「私は救いを求める声を聞きます。だからこうしてやって来たのです、先生」
「私……?」

 四号は私を見つめたままうなずいた。

「先生は救いを求めていました。私にははっきりと聞こえました」
「……私には聞こえなかった。私は何と言っていた?」
「先生は、自分を止めて欲しいと言いました。もう終わりにしたいと願っていました」
「……そうか。ククッ……まあ、そうだろうな」

 他人の肉体を奪っても奪っても、すぐに次を探すばかりの停滞。先へ進めない焦りと絶望と、それすら何も感じなくなっていく自分にうんざりしていた。
 私の魂は消えかけている。
 わかっていながら認めたくはなかった。
 永遠を夢見て「魂の器」を作ったほどに強いこの世への執着が、魂の輝きを失ってなお私をこの世に縛り続けていた。
 たとえ今イオンに入ることができても、もはや魂の輝きを取り戻すことはないだろう。
 四号の言うとおり、私はもう終わりにしたかったのだ。
   終わりを受け入れれば楽になれる……。
   だが、それは救いではない。私は、赦されない存在だ。
 照陽の人間たちが遠まきに四号を見ている。イオンに対する畏敬の念と信頼が伝わってくる。私の姿は見えないようだが、イオンが霊的なものと接触するのは日常なのか、驚く様子はない。

「人間を救う天使……か。イオンは新たな人類ではなく天使であったか」

   遠く懐かしい、かすかな記憶。自分の表情が緩むのがわかった。
   ああ、私にもまだ笑顔が作れたのか。

「ククッ。お前たちには昔、勝手に人の心を読むなと教えたのにな」
「すみません、先生」
「いいんだ、四号。ありがとう。私はもう、終わりに……」

 ピシン

 静かにヒビ割れる音が聞こえたような気がした。
 かろうじて形を保っていたものが崩れる感覚。

「先生?」

 サラサラ……サラサラ……

 砂時計のように何かがこぼれ落ちていく感触。

 私が……

 記憶が抜け落ちる喪失感とは異なる、もっと根本的な、崩壊。

 私がこぼれていく……

 自分の終わりを受け入れたからなのか?
 このまま、この世に散っていく……

「ダメだ!」

 私は逃げるようにこの場を離れ、崩壊していく自分をかき集めながら暗闇の中をいつまでも彷徨い続けた。
 違う。このまま消えてはいけない。
 意識が混濁する中で、なぜかそれだけを思った。
 忘れている。私は何かを忘れている。
 自らを保つ力もすべもなく、記憶も、心も砕け散っていく。
 私は魂をとどめるための肉体を手当たり次第に求めていった。
   終わりを受け入れたのではなかったのか?
   他人の肉体を乗っ取り奪うことができた私は、自らの形を保てず、忘れ、崩れながらも完全に失われることのないまま、かろうじて存在し続けた。

   このまま、消えてはいけない……。

   ただそれだけを思った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

かぐや

山碕田鶴
児童書・童話
山あいの小さな村に住む老夫婦の坂木さん。タケノコ掘りに行った竹林で、光り輝く筒に入った赤ちゃんを拾いました。 現代版「竹取物語」です。

解釈的不正義

山碕田鶴
現代文学
詩 です。 淡々と不定期更新。

宇宙人は恋をする!

山碕田鶴
児童書・童話
私が呼んでいると勘違いして現れて、部屋でアイスを食べている宇宙人・銀太郎(仮名)。 全身銀色でツルツルなのがキモチワルイ。どうせなら、大大大好きなアイドルの滝川蓮君そっくりだったら良かったのに。……え? 変身できるの? 中学一年生・川上葵とナゾの宇宙人との、家族ぐるみのおつきあい。これは、国家機密です⁉ (表紙絵:山碕田鶴/人物色塗りして下さった「ごんざぶろう」様に感謝)

カゲロウノヨウニ 降リ積ムハ、

山碕田鶴
絵本
「かげろうのように降り積むは」(詩/「解釈的不正義」)の絵本版です。

境界のクオリア

山碕田鶴
ライト文芸
遠く離れていても互いに引き合う星々のように、僕にはいつか出会わなければいけない運命の相手がいる──。 広瀬晴久が生きるために信じた「星の友情」。 母に存在を否定されて育ち、他人と関わることへの恐怖と渇望に葛藤しながら介護施設で働く晴久。駅前で出会った男と勢いでオトモダチになり、互いに名前も素性も明かさない距離感の気安さから偶然の逢瀬を重ねる。二人の遠さは、晴久の理想のはずだった……。 男の存在が晴久の心を揺らし、静かに過去を溶かし、やがて明日を変えていく。 ※ネグレクトの直接描写は極力排除しておりますが、ご心配や苦手な方は、先に「5-晴久」を少し覗いてご判断下さい。

日当たりの良い借家には、花の精が憑いていました⁉︎

山碕田鶴
ライト文芸
大学生になった河西一郎が入居したボロ借家は、日当たり良好、広い庭、縁側が魅力だが、なぜか庭には黒衣のおかっぱ美少女と作業着姿の爽やかお兄さんたちが居ついていた。彼らを花の精だと説明する大家の孫、二宮誠。銀髪長身で綿毛タンポポのような超絶美形の青年は、花の精が現れた経緯を知っているようだが……。

トゲトゲ

山碕田鶴
絵本
トゲトゲ したものを挙げてみました。

くらげ ゆるゆら

山碕田鶴
絵本
水族館で働く くらげ のアフターファイブです。

処理中です...