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1913ー1940 小林建夫
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「会長、またあの男が来ていますよ。追い返しますか?」
「君たち社員の取材なら、いくらでも許可すると言ってやりなさい」
世界恐慌が起きて十年近くが過ぎた頃から、秋山と名乗る若い新聞記者が頻繁に訪ねてくるようになった。小林製糸株式会社が倒産することなく世界恐慌の波を乗り越えたと知り、会長である私を取材したいのだと言う。
私は迷わず断った。下手に記事にされて注目を浴びれば、余計な揉め事が舞い込むのは必至だ。
同業の会社が次々と倒産して製糸業界全体が衰退の一途をたどるなか、小林製糸は経営の危機を何度も乗り越えて来た。大陸と全面戦争に発展し、生活にも様々統制がかかり始めた非常事態の今でも、会社が変わらず生き残ってきたのにはそれ相応の理由がある。
私は表に出ることのない業者でも賄賂をせびる役人でも、使えるものはなんでも利用してきた。暴かれてはならないことを平気でやってきた。
かつて小林組を食い物にしてきた金貸しなどは全て排除した。実行したのは同業金融他社だから私は関わっていないが、実行した業者とつきあいがあったのは事実だ。
欺く者を欺き、嘘を嘘で隠す。
小林には似つかわしくないが、だからこそ警戒されず狡猾さを増して有効なのだ。
時代はますます混迷を深め、いく度目かの戦乱にこの国は向かっている。村の若者はたびたび徴集され、戻らぬ者もいた。そんな中、私は私のやり方で村人と社員たちの生活を支える覚悟でやってきた。
経営の危機を何とか脱した時点で、私は第一線から退き会長となった。次期社長には私を長年支えてくれた田中信太郎が就いている。信太郎は会社のことなら何でも把握しており、社員の信頼も厚い。この先を任せて安心な人物だ。ここには陰謀や策略の類はない。
裏の社会との繋がりはあくまで私ひとりでやってきたことだ。個人的なつきあいで個人的援助を受けたのであって、書類上会社との関わりは出ない。社内の誰にも知らせず終わらせる。
製糸も私の代で終わる。工場はそのまま軍需産業を引き受けることが決まっている。
この時期にあれこれ聞かれるのは迷惑でしかない。
「吉澤財閥は、あなたを宣伝に使っていたではありませんか。『渡船賃が払えなかった男』と。今いちど世の経営者の希望として、あなたの人生を手本にさせてはもらえませんかね?」
振り返ると、秋山がすぐ後ろに立っていた。細身で長身の青年は射るような視線で私をとらえていた。
いつのまに来たのか?
信太郎があわてて秋山を制するのを私は止めた。来てしまったものは仕方ない。油断した私が悪いのだ。
「昔の話だよ。私は古い人間だ。何の参考にもならない。それに、もう十分渡船賃は貯めたはずだ。豪華客船でいつあの世へ行ってもおかしくはなかろう。話すことは何もないよ。それに吉澤とは……もう関わりがないことは君も知っているだろう?」
吉澤組は父の他界により代替わりし、時代が味方しなかった不運もあって経営が一気に傾いていた。製糸業から潔く手を引いたお陰で、こちらの業界は大混乱であった。今の吉澤財閥とは何のつきあいもない。
私は、親より先に逝く不孝を奇妙な形で回避したことになる。死んだはずの息子が未だこの世で遊んでいると知ったら、父はさぞかし驚くに違いない。私はそれが愉快で仕方がなかった。
「豪華客船ですか」
秋山は、わずかに笑ったように見えた。
「では、近々ご出立ですか」
真顔で訊く。
「ずいぶんと失礼な男だな。いつ旅に出るかなどわかるものかね」
「失敬。貴方はもう十分に生きられたかと思いまして」
秋山は意味ありげな視線をよこしてから一礼すると、去り際に低くささやいた。
「秩序を乱すものは、速やかに排除されなければなりません」
秩序? なんの話だ?
私の裏の繋がりを暴こうというのか?
「君たち社員の取材なら、いくらでも許可すると言ってやりなさい」
世界恐慌が起きて十年近くが過ぎた頃から、秋山と名乗る若い新聞記者が頻繁に訪ねてくるようになった。小林製糸株式会社が倒産することなく世界恐慌の波を乗り越えたと知り、会長である私を取材したいのだと言う。
私は迷わず断った。下手に記事にされて注目を浴びれば、余計な揉め事が舞い込むのは必至だ。
同業の会社が次々と倒産して製糸業界全体が衰退の一途をたどるなか、小林製糸は経営の危機を何度も乗り越えて来た。大陸と全面戦争に発展し、生活にも様々統制がかかり始めた非常事態の今でも、会社が変わらず生き残ってきたのにはそれ相応の理由がある。
私は表に出ることのない業者でも賄賂をせびる役人でも、使えるものはなんでも利用してきた。暴かれてはならないことを平気でやってきた。
かつて小林組を食い物にしてきた金貸しなどは全て排除した。実行したのは同業金融他社だから私は関わっていないが、実行した業者とつきあいがあったのは事実だ。
欺く者を欺き、嘘を嘘で隠す。
小林には似つかわしくないが、だからこそ警戒されず狡猾さを増して有効なのだ。
時代はますます混迷を深め、いく度目かの戦乱にこの国は向かっている。村の若者はたびたび徴集され、戻らぬ者もいた。そんな中、私は私のやり方で村人と社員たちの生活を支える覚悟でやってきた。
経営の危機を何とか脱した時点で、私は第一線から退き会長となった。次期社長には私を長年支えてくれた田中信太郎が就いている。信太郎は会社のことなら何でも把握しており、社員の信頼も厚い。この先を任せて安心な人物だ。ここには陰謀や策略の類はない。
裏の社会との繋がりはあくまで私ひとりでやってきたことだ。個人的なつきあいで個人的援助を受けたのであって、書類上会社との関わりは出ない。社内の誰にも知らせず終わらせる。
製糸も私の代で終わる。工場はそのまま軍需産業を引き受けることが決まっている。
この時期にあれこれ聞かれるのは迷惑でしかない。
「吉澤財閥は、あなたを宣伝に使っていたではありませんか。『渡船賃が払えなかった男』と。今いちど世の経営者の希望として、あなたの人生を手本にさせてはもらえませんかね?」
振り返ると、秋山がすぐ後ろに立っていた。細身で長身の青年は射るような視線で私をとらえていた。
いつのまに来たのか?
信太郎があわてて秋山を制するのを私は止めた。来てしまったものは仕方ない。油断した私が悪いのだ。
「昔の話だよ。私は古い人間だ。何の参考にもならない。それに、もう十分渡船賃は貯めたはずだ。豪華客船でいつあの世へ行ってもおかしくはなかろう。話すことは何もないよ。それに吉澤とは……もう関わりがないことは君も知っているだろう?」
吉澤組は父の他界により代替わりし、時代が味方しなかった不運もあって経営が一気に傾いていた。製糸業から潔く手を引いたお陰で、こちらの業界は大混乱であった。今の吉澤財閥とは何のつきあいもない。
私は、親より先に逝く不孝を奇妙な形で回避したことになる。死んだはずの息子が未だこの世で遊んでいると知ったら、父はさぞかし驚くに違いない。私はそれが愉快で仕方がなかった。
「豪華客船ですか」
秋山は、わずかに笑ったように見えた。
「では、近々ご出立ですか」
真顔で訊く。
「ずいぶんと失礼な男だな。いつ旅に出るかなどわかるものかね」
「失敬。貴方はもう十分に生きられたかと思いまして」
秋山は意味ありげな視線をよこしてから一礼すると、去り際に低くささやいた。
「秩序を乱すものは、速やかに排除されなければなりません」
秩序? なんの話だ?
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