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1878ー1913 吉澤識
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三途の川でもあるまいに、川のほとりに疲れた中年男が立っている。歳は私の父と同じか、やや若いくらいか。身なりはきちんとしているが、まるきり生気がない。
人の良さそうな、いかにも善人といったふうだな。
そうか、入水か。合点がいく。
世を儚んだか。生活苦か。生きていればいずれ好転の機会も期待できように。
事情も知らずに言うは易いな。貴方も八方塞がりか? 哀れな最後だ。
そうだ。どうせ捨てるならば、その身体を私にくれないか? 私はまだこの世を断ち切れずにいるのだ。貴方に何があったか知らぬが、その命、捨てるにはあまりにも惜しいではないか。
声をかけても、もちろん返事はない。
気づかれぬのは寂しいものだな。
この先は激流だぞ。楽に逝けないとわかっての所業であろうか。己を罰するつもりか。くだらない。
男と並んで川を眺めながら独り言を続けても、虚しくなるばかりだ。この男の命が尽きても、どうせ私に幽霊は見えない。友になることは叶わない。
男に背を向け立ち去ろうとしたその瞬間、男が視界から消えた。鈍い水音がする。
飛び込んだか!
私は反射的に手を伸ばし、男を掴もうとした。掴めるはずかないのだ。
見る間に男は流されて行く。もがく様子は全くない。
早まるな! 水を掻いて顔を上げろ!
私は男を追った。飛び込むつもりで川に入ったが、ふわふわと水上を駆けていた。まるで凍った川を渡っているようだった。
流れに追いつき、仰向けに沈む男と目が合った。
確実に私を捉えたその瞳には、もはや生への執着は皆無だった。
生きる意思のない者を救えるはずがない。
ならばその身体、私によこせ! 捨てるなら私に生きさせろ!
そうだ。私は生きたいのだ。生きてこの世の行く末を見たい。ただ知りたい。世界を知りたい。
「私によこせ!」
それは、時間が永遠に引き延ばされたような感覚といえば良いだろうか。
生きさせろ。
私の魂の叫びは、聞き届けられた。
何に? そんなことはわからない。
ただ、突然の凍える感覚と息苦しさが私に生を実感させた。
水しぶき、淀んだ空、川岸の岩……明らかに入水した男の視点だ。
流されてはならない。とにかく岸に向かって泳ぐが、身体が思うように動かせなかった。
私自身は水難の訓練を受けたことがあるというのに、この身体は泳いだことがないのだ。直感でわかったところで事態は変わらない。ただひたすら生きることだけを考え、なんとか岸までたどり着く。
ガハッ! ゴホッゴホッ……
凍えきった身体を無理やり水から引き上げる。胸も腹も地面に押しつけ、わずかな温もりを求めた。
私は、生きている。
安堵に全身の力が抜ける。
身体が重い。地に縛られている。背に貼りつくずぶ濡れの服さえ重い。
風を感じる。草むらの土の匂いがする。
何より、この身体が生きることを肯定している。生き延びた喜びに満ちている。
ああ、私はこの感覚を失っていたのだ。
人の良さそうな、いかにも善人といったふうだな。
そうか、入水か。合点がいく。
世を儚んだか。生活苦か。生きていればいずれ好転の機会も期待できように。
事情も知らずに言うは易いな。貴方も八方塞がりか? 哀れな最後だ。
そうだ。どうせ捨てるならば、その身体を私にくれないか? 私はまだこの世を断ち切れずにいるのだ。貴方に何があったか知らぬが、その命、捨てるにはあまりにも惜しいではないか。
声をかけても、もちろん返事はない。
気づかれぬのは寂しいものだな。
この先は激流だぞ。楽に逝けないとわかっての所業であろうか。己を罰するつもりか。くだらない。
男と並んで川を眺めながら独り言を続けても、虚しくなるばかりだ。この男の命が尽きても、どうせ私に幽霊は見えない。友になることは叶わない。
男に背を向け立ち去ろうとしたその瞬間、男が視界から消えた。鈍い水音がする。
飛び込んだか!
私は反射的に手を伸ばし、男を掴もうとした。掴めるはずかないのだ。
見る間に男は流されて行く。もがく様子は全くない。
早まるな! 水を掻いて顔を上げろ!
私は男を追った。飛び込むつもりで川に入ったが、ふわふわと水上を駆けていた。まるで凍った川を渡っているようだった。
流れに追いつき、仰向けに沈む男と目が合った。
確実に私を捉えたその瞳には、もはや生への執着は皆無だった。
生きる意思のない者を救えるはずがない。
ならばその身体、私によこせ! 捨てるなら私に生きさせろ!
そうだ。私は生きたいのだ。生きてこの世の行く末を見たい。ただ知りたい。世界を知りたい。
「私によこせ!」
それは、時間が永遠に引き延ばされたような感覚といえば良いだろうか。
生きさせろ。
私の魂の叫びは、聞き届けられた。
何に? そんなことはわからない。
ただ、突然の凍える感覚と息苦しさが私に生を実感させた。
水しぶき、淀んだ空、川岸の岩……明らかに入水した男の視点だ。
流されてはならない。とにかく岸に向かって泳ぐが、身体が思うように動かせなかった。
私自身は水難の訓練を受けたことがあるというのに、この身体は泳いだことがないのだ。直感でわかったところで事態は変わらない。ただひたすら生きることだけを考え、なんとか岸までたどり着く。
ガハッ! ゴホッゴホッ……
凍えきった身体を無理やり水から引き上げる。胸も腹も地面に押しつけ、わずかな温もりを求めた。
私は、生きている。
安堵に全身の力が抜ける。
身体が重い。地に縛られている。背に貼りつくずぶ濡れの服さえ重い。
風を感じる。草むらの土の匂いがする。
何より、この身体が生きることを肯定している。生き延びた喜びに満ちている。
ああ、私はこの感覚を失っていたのだ。
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