182年の人生

山碕田鶴

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1878ー1913 吉澤識

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「兄上とは価値観が違い過ぎて話になりませんね。ああ、僕も面倒を押しつけられたとは思っていませんから。兄上は独り身ですし、どうぞいくらでもお好きになさって下さい」

 私は、この年で独り身を通している。
 本国にいた時から、放蕩を続ける道楽息子は男女問わずの艶聞が多過ぎた。吉澤と縁戚になりたい者ですら縁談を敬遠する有様だったから、見合いの類は一度もしたことがない。
 面倒ごとは全て経が引き受けた。一時期は私が宴席で遊ぶのと経が見合いをするのと、どちらが多かったのかわからないほどであった。経は吉澤を継ぐ自負があったからか、不満のひとつも漏らさなかった。
 お陰で私は何をしようと自由でいられた。この先も、家族を持つことはないだろう。
 時代が追い風となり、吉澤組は順調に成長を続けていた。金と人脈は尽きない。
   大陸で私は、綿糸の輸出入の他に陶磁器などの輸出販路拡大を進めた。これは道楽旅行の副産物ともいえたが、私のやることに対して事業の最終決定者たる父はただ「目立つな」と言うだけで何も反対はしなかった。私の道楽には一言もなかった。
 同業の貿易会社とは決して競合しないよう、こちらが先に引く。父が目立つなと言うのは、吉澤組が生き残るための知恵だ。私がどれほど軽く扱われようとも会社が安泰なのは、ある意味商業会の老人たちに生かされているからだ。
 経もいずれわかる。どうしようもなく面倒でややこしく、狡猾な駆け引きでこの世界が成り立っていることを。
 私がそれを楽しんでいることは、お前はまだ知らなくていい。もうしばらくの間、可哀想な兄に味方し心配する純真無垢な弟でいてもらいたい。

「それから……」

 経は言いにくそうに切り出した。

「兄上の容姿はとても美しく、こと茶屋の帰りに間近で見ればその艶に魅入られるのは必然であると……口にする不届き者がおります」

 私を見据える目に怒気がこもる。平静を装ってはいるが、自分がおとしめられたような屈辱に打ち震えているのがわかる。
   商業会で軽んじられるより、こちらの方が耐え難いか。

「加藤か。放っておけ。あれは馬車の御者ぎょしゃとして父が連れて来たが、真の役割は用心棒だ。そこらの荒くれ者より荒くれ者だ。使用人どうしの軽口なら、聞こえないふりをしておけば良い」
「でも……どこの店に通っているとか、兄上が誰と会ったとか……従者なら守秘して然るべきではないでしょうか。なんと品性下劣な」
「加藤もお前の情報源か。まあ、遊んでいるのは事実だし、お前こそ私を一族の恥と打ち捨ててもおかしくはないだろう。誰もお前を非難はしない」
「世間からどのように見られようとも、兄上には高貴な信念がおありだと信じております」

   経の必死な様子がなんとも可愛らしく見え、思わず抱き寄せると経は素直に腕の中に収まった。
   これは兄弟の愛情表現を超えているな。

「心配をかけてすまない。加藤には注意しておく。ただ、あれは私の従者だ。気にかけるな。それより、お前が本国に帰ったら父が自動車を用意すると言っていたぞ。運転手はきっと紳士的だ」
「……兄上は、不機嫌なお相手にはいつもこのように優しくなだめているのですね」
「いや、そのようなつもりでは……」

   経は少し怒りながら笑っていた。拗ねていたと言うべきか。
   お前は優秀なのだ。私がこうして懐柔していることを承知で、拒否することなくそれ以上踏み込むこともせず、バランスを保ち続けている。
お前は私の誇りだ。お前の兄として生まれた私は幸運だ。
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