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虫
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「よう、おかえり」
見慣れてはいるものの、ドアを開けた直後にこの顔を見ると心臓が大きく跳ねてしまう。
「ただいま、ハシラミ。顔近いよ」
逆三角形の顔。その顔の半分はあろう複眼。逆頂点に見える位置にあるなんでも食べてしまいそうな口。緑色で細い体から伸びる何でも切ってしまいそうな刃物の鎌。
中型犬なら簡単に食べてしまいそうなカマキリが器用にドアの枠に六本の足を引っ掛けて貫之を出迎えた。
「いつも言ってるだろ。ドアのところで待ってるなって」
驚かすために待っていたとしか思えない、紗江子の包丁の神であるハシラミの顔面をどかして中へと入る。
「俺の顔面を掴むなんていい度胸だな」
「だったら掴ませないように出迎えてよ。家族以外だったら絶叫ものだぞ」
「紗江子からしたら押し売り販売撃退で喜んでるんだけどな」
「だったらそのときに出なって。見慣れてもお前の顔いきなり見ると怖いんだから」
「顔だけじゃなくてこの鎌も使ってやろうか?」
例え平でも触ると斬れてしまいそうな鎌を見せ付ける。
「やったら母さん怒るよ」
「あの女はキレるとこえーからな。でよ、万年筆に脈が出たんだって?」
「そういえば朝見てなかったね」
「昼まで寝てたからな。で、顕現したのか?」
「寝なくても平気なくせに。顕現はまだ。脈に気づいたのが今日の朝だからもう少し掛かるんじゃない?」
ハシラミを押しのけ、「ただいまー」と言うと居間から「おかえりー」の返事が来て、そのまま玄関近くにある自室に入って服を着替える。
「貫之、万年筆見せてくれよ」
貫之が襖を閉めるよりも前にハシラミも部屋の中に入ってきて、ブーンと鳥肌を立たせる羽音を鳴らしながら机の上へと飛び乗った。
「もう何千って見てるだろ。いいけど触るなよ。お前の鎌は切れやすいんだから」
「おいおい、俺はこれでも赤子のお前と佐一を見守ってきたんだぜ。脈ってのは赤子と同じさ。心配しても壊すような真似はしねーよ」
「分かってるよ。でも一応しないとね」
着替えを済ませた貫之は、学ランのポケットから脈動を続ける万年筆を取り出してハシラミの前へと置いた。ハシラミは鎌で万が一にも傷つけないようにひじを曲げて可能な限り折りたたみ、身をかがめて顔を近づける。
「……うんうん、ようやく俺にも弟か妹ができるわけか。血を分けたってわけじゃねーけどうれしいもんだな」
「やっぱり神様の目でも性別は分からない?」
「脈の状態で知るのは神通力だけだろ。それに今知ろうが顕現して知ろうが関係ないぜ」
それは神側からの視点で、依巫側からの視点ではない。
ハシラミの言うとおり、この問題は時間が解決する。事前に容姿を知って変えることは不可能だから、いつ知ろうと変わらないのは分かる。だが身構えるくらいはしたいのが人の心情だ。神は依り代から依巫の私生活を全て知り得ても、依巫は道具しか見えない。対話が出来ない以上、一方通行なのだから事前に知りたいのは自然と言えよう。
「まっ、俺から言わせりゃどんな姿でも誇れよ。その万年筆の神は、間違いなくお前がいなきゃ世に出られねぇんだからな」
「分かってるよ。蜘蛛でも鬼でも僕に憑く神なんだから嫌がったりしないよ」
「虫にゃ俺がいて慣れてるからな。ところでどうするよ。美人な女の神が出たら」
怖いことに細い鉄パイプなら簡単に一刀してしまいそうな鎌を貫之の首に絡みつけ、けれど斬らない絶妙な位置取りで幼稚なことを聞いてきた。
「あまり気にしないよ。向こうからしたら僕の私生活全部知ってるわけだし」
「へぇ、神と恋に落ちるようなのドラマとかで聞くんだけどな」
少女漫画やラブコメでは王道でも現実では早々起きない。漫画に感化されて異性の神が憑かなかった依巫たちは願望するらしいが、それは儚い願望に過ぎないのだ。
なぜなら限りなく本物に近い家族である関係上、主観的には美形の家族を持つことに等しいのだ。例え初対面であってもその容姿の根底が自分の情と、今まで愛用した道具の化身の先入観から精神的に家族以上の感情は持ち合わせられない。
それでも例外的に人と神の恋沙汰はあって『神様コンプレックス』として話題になったりするが。
「美人な姉か妹ができる感じじゃない? だってどう解釈したってコレなんだし」
と貫之は脈打つ万年筆を拾う。
どれだけ議論を重ねようと元はただの道具だ。つまり神と恋に落ちるとは物に恋をするのと同じで、他人から見て決して美しいとは言えない。
「コレとか言うなよ。俺たちはちゃんと生きてるんだぞ」
「分かってるよ。ただ恋愛だとその障害が出るってこと。じゃ、勉強するから部屋出てって」
「おいおい、学年模試で八位をたたき出してるのにまだ勉強するのか?」
夏休みに学校で行った模試では、百三十三人中八位と優秀と言って過言ではない結果を貫之は出している。それによる志望校の合格判定は五段階で最高の五。評価でも入試だけで十分合格可能との返事を貰っている。
だが同じような結果を貰い、約半年間遊び続けて志望校を落として滑り止めの学校に入った佐一の教訓もあって、余裕とあっても勉強をおろそかには出来ない。
「怠けるのは合格してからにするよ」
「そうかい。んじゃがんばれよ」
ハシラミは羽を広げて机から襖まで飛ぶと、閉じた襖の隙間に鋭い鎌を入れ、傷つけずに開けると出て行った。襖は開きっぱなしでそこは猫や動物と変わらない。
人間並みの知能を有しても、人間用に作ったものはやはり人型以外は不便のようだ。
貫之は小さくため息を吐いて襖を閉め、音楽代わりのラジオを点けて勉強を始めた。
もちろん勉強の際は万年筆を使わない。いくら依り代候補としてもらい、積極的に使っていようと学生生活には不便なところがあったからだ。けれど使いたい気持ちはあったので、今のところ書類や栞日記を書くことに使っている。
栞日記とは、一日の内で起こる物事を象徴する一字に纏めて左ページに書いておき、その日の夜に一字を見ながらその事を思い出して右ページで清書をする貫之特有の日記のことである。一字でも書きとめておくとそれがきっかけで思いやすく、この方法に独力で気づいてからは大変重宝していた。
『――県風寺市で昨日発生した『神隠し』の続報をお伝えします。昨年より発生しております神隠し事件は八十七件に及び、昨日未明、警察は犯人と接触しました。警察は八十七種の神通力を自在に使える犯人を追跡しましたが逃走した模様です。犯人の身元は姿を変える神通力によって未だ不明ですが、今回の接触で警察は長距離を短時間で移動する神通力を含むいくつかのシチコの確保に成功しており、犯人は近隣にいると見て捜査員二百名を導入して捜索しています。尚、犯人は数ある道具の中から依り代を特定する神通力を有している可能性が高く、近隣住人の皆様に注意を呼びかけています』
世界で唯一法律によって定められた、現存する最古にして最後の異能の力。
神通力はその名の通り神が持つ力のことだ。依り代の化身である神が持つ異能の力は、アジアの不沈母艦や世界の経済国家と言わしめるほどの力を持ち、その威力は端的な表現で鼻息くらいから最大級の竜巻以上まである。種類はまさに八百万。そんな力を使えば当然犯罪も容易で、一般の人が起こすより大きな被害が出ることもあって社会問題になっている。今回の神隠しの犯人も同様で、神通力は相手のシチコ全てを奪う内容だろう。
『シチコ』とは神通力、神霊、依り代を一括した総称で、シは神通力の『種』、チは神霊の『柱』、コは依り代の『個』から来ている。ただ、本来チに当たる柱はハでないとおかしいのだが、出所不明で全国で定着しているためそのまま使われているらしい。
ちなみにシチコでは語呂が悪いとして政府は『教』を総称の単位にしようと大害後に推進したが、定着に失敗した。
そして神隠しの神は他人のシチコを全て奪えることから優秀と見た。
貫之の万年筆の神もそこまでとは行かずとも、これからの生活を楽しませるような力が備わってくれれば嬉しいと思う。とはいえ書くことだけが能である万年筆に異質な力が宿ることは珍しく、せいぜいインク補充が不要か、どれだけ汚い字でも達筆になるくらいだろう。
それでも書くための道具としては便利な力だ。
そして、そんな力なら神隠しの犯人や他の人に狙われることもない。
貫之はラジオのチャンネルを音楽番組へと変えて勉強に没頭したのだった。
見慣れてはいるものの、ドアを開けた直後にこの顔を見ると心臓が大きく跳ねてしまう。
「ただいま、ハシラミ。顔近いよ」
逆三角形の顔。その顔の半分はあろう複眼。逆頂点に見える位置にあるなんでも食べてしまいそうな口。緑色で細い体から伸びる何でも切ってしまいそうな刃物の鎌。
中型犬なら簡単に食べてしまいそうなカマキリが器用にドアの枠に六本の足を引っ掛けて貫之を出迎えた。
「いつも言ってるだろ。ドアのところで待ってるなって」
驚かすために待っていたとしか思えない、紗江子の包丁の神であるハシラミの顔面をどかして中へと入る。
「俺の顔面を掴むなんていい度胸だな」
「だったら掴ませないように出迎えてよ。家族以外だったら絶叫ものだぞ」
「紗江子からしたら押し売り販売撃退で喜んでるんだけどな」
「だったらそのときに出なって。見慣れてもお前の顔いきなり見ると怖いんだから」
「顔だけじゃなくてこの鎌も使ってやろうか?」
例え平でも触ると斬れてしまいそうな鎌を見せ付ける。
「やったら母さん怒るよ」
「あの女はキレるとこえーからな。でよ、万年筆に脈が出たんだって?」
「そういえば朝見てなかったね」
「昼まで寝てたからな。で、顕現したのか?」
「寝なくても平気なくせに。顕現はまだ。脈に気づいたのが今日の朝だからもう少し掛かるんじゃない?」
ハシラミを押しのけ、「ただいまー」と言うと居間から「おかえりー」の返事が来て、そのまま玄関近くにある自室に入って服を着替える。
「貫之、万年筆見せてくれよ」
貫之が襖を閉めるよりも前にハシラミも部屋の中に入ってきて、ブーンと鳥肌を立たせる羽音を鳴らしながら机の上へと飛び乗った。
「もう何千って見てるだろ。いいけど触るなよ。お前の鎌は切れやすいんだから」
「おいおい、俺はこれでも赤子のお前と佐一を見守ってきたんだぜ。脈ってのは赤子と同じさ。心配しても壊すような真似はしねーよ」
「分かってるよ。でも一応しないとね」
着替えを済ませた貫之は、学ランのポケットから脈動を続ける万年筆を取り出してハシラミの前へと置いた。ハシラミは鎌で万が一にも傷つけないようにひじを曲げて可能な限り折りたたみ、身をかがめて顔を近づける。
「……うんうん、ようやく俺にも弟か妹ができるわけか。血を分けたってわけじゃねーけどうれしいもんだな」
「やっぱり神様の目でも性別は分からない?」
「脈の状態で知るのは神通力だけだろ。それに今知ろうが顕現して知ろうが関係ないぜ」
それは神側からの視点で、依巫側からの視点ではない。
ハシラミの言うとおり、この問題は時間が解決する。事前に容姿を知って変えることは不可能だから、いつ知ろうと変わらないのは分かる。だが身構えるくらいはしたいのが人の心情だ。神は依り代から依巫の私生活を全て知り得ても、依巫は道具しか見えない。対話が出来ない以上、一方通行なのだから事前に知りたいのは自然と言えよう。
「まっ、俺から言わせりゃどんな姿でも誇れよ。その万年筆の神は、間違いなくお前がいなきゃ世に出られねぇんだからな」
「分かってるよ。蜘蛛でも鬼でも僕に憑く神なんだから嫌がったりしないよ」
「虫にゃ俺がいて慣れてるからな。ところでどうするよ。美人な女の神が出たら」
怖いことに細い鉄パイプなら簡単に一刀してしまいそうな鎌を貫之の首に絡みつけ、けれど斬らない絶妙な位置取りで幼稚なことを聞いてきた。
「あまり気にしないよ。向こうからしたら僕の私生活全部知ってるわけだし」
「へぇ、神と恋に落ちるようなのドラマとかで聞くんだけどな」
少女漫画やラブコメでは王道でも現実では早々起きない。漫画に感化されて異性の神が憑かなかった依巫たちは願望するらしいが、それは儚い願望に過ぎないのだ。
なぜなら限りなく本物に近い家族である関係上、主観的には美形の家族を持つことに等しいのだ。例え初対面であってもその容姿の根底が自分の情と、今まで愛用した道具の化身の先入観から精神的に家族以上の感情は持ち合わせられない。
それでも例外的に人と神の恋沙汰はあって『神様コンプレックス』として話題になったりするが。
「美人な姉か妹ができる感じじゃない? だってどう解釈したってコレなんだし」
と貫之は脈打つ万年筆を拾う。
どれだけ議論を重ねようと元はただの道具だ。つまり神と恋に落ちるとは物に恋をするのと同じで、他人から見て決して美しいとは言えない。
「コレとか言うなよ。俺たちはちゃんと生きてるんだぞ」
「分かってるよ。ただ恋愛だとその障害が出るってこと。じゃ、勉強するから部屋出てって」
「おいおい、学年模試で八位をたたき出してるのにまだ勉強するのか?」
夏休みに学校で行った模試では、百三十三人中八位と優秀と言って過言ではない結果を貫之は出している。それによる志望校の合格判定は五段階で最高の五。評価でも入試だけで十分合格可能との返事を貰っている。
だが同じような結果を貰い、約半年間遊び続けて志望校を落として滑り止めの学校に入った佐一の教訓もあって、余裕とあっても勉強をおろそかには出来ない。
「怠けるのは合格してからにするよ」
「そうかい。んじゃがんばれよ」
ハシラミは羽を広げて机から襖まで飛ぶと、閉じた襖の隙間に鋭い鎌を入れ、傷つけずに開けると出て行った。襖は開きっぱなしでそこは猫や動物と変わらない。
人間並みの知能を有しても、人間用に作ったものはやはり人型以外は不便のようだ。
貫之は小さくため息を吐いて襖を閉め、音楽代わりのラジオを点けて勉強を始めた。
もちろん勉強の際は万年筆を使わない。いくら依り代候補としてもらい、積極的に使っていようと学生生活には不便なところがあったからだ。けれど使いたい気持ちはあったので、今のところ書類や栞日記を書くことに使っている。
栞日記とは、一日の内で起こる物事を象徴する一字に纏めて左ページに書いておき、その日の夜に一字を見ながらその事を思い出して右ページで清書をする貫之特有の日記のことである。一字でも書きとめておくとそれがきっかけで思いやすく、この方法に独力で気づいてからは大変重宝していた。
『――県風寺市で昨日発生した『神隠し』の続報をお伝えします。昨年より発生しております神隠し事件は八十七件に及び、昨日未明、警察は犯人と接触しました。警察は八十七種の神通力を自在に使える犯人を追跡しましたが逃走した模様です。犯人の身元は姿を変える神通力によって未だ不明ですが、今回の接触で警察は長距離を短時間で移動する神通力を含むいくつかのシチコの確保に成功しており、犯人は近隣にいると見て捜査員二百名を導入して捜索しています。尚、犯人は数ある道具の中から依り代を特定する神通力を有している可能性が高く、近隣住人の皆様に注意を呼びかけています』
世界で唯一法律によって定められた、現存する最古にして最後の異能の力。
神通力はその名の通り神が持つ力のことだ。依り代の化身である神が持つ異能の力は、アジアの不沈母艦や世界の経済国家と言わしめるほどの力を持ち、その威力は端的な表現で鼻息くらいから最大級の竜巻以上まである。種類はまさに八百万。そんな力を使えば当然犯罪も容易で、一般の人が起こすより大きな被害が出ることもあって社会問題になっている。今回の神隠しの犯人も同様で、神通力は相手のシチコ全てを奪う内容だろう。
『シチコ』とは神通力、神霊、依り代を一括した総称で、シは神通力の『種』、チは神霊の『柱』、コは依り代の『個』から来ている。ただ、本来チに当たる柱はハでないとおかしいのだが、出所不明で全国で定着しているためそのまま使われているらしい。
ちなみにシチコでは語呂が悪いとして政府は『教』を総称の単位にしようと大害後に推進したが、定着に失敗した。
そして神隠しの神は他人のシチコを全て奪えることから優秀と見た。
貫之の万年筆の神もそこまでとは行かずとも、これからの生活を楽しませるような力が備わってくれれば嬉しいと思う。とはいえ書くことだけが能である万年筆に異質な力が宿ることは珍しく、せいぜいインク補充が不要か、どれだけ汚い字でも達筆になるくらいだろう。
それでも書くための道具としては便利な力だ。
そして、そんな力なら神隠しの犯人や他の人に狙われることもない。
貫之はラジオのチャンネルを音楽番組へと変えて勉強に没頭したのだった。
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