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運命の朝 7月4日 6時45分

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 7月4日、朝。
 
朱音あかね、起きてるのー? 起きないと遅刻するわよー」
 
 1階からわたしを呼ぶ母の声がする。ぐっすり眠っていたわたしは母の声に飛び起きた。急いで顔を洗い、制服に着替える。
 
 唐突に嫌な予感がした。回想電車の切符が頭に浮かぶ。

 『7月4日 7時14分没』

 わたしが車にひかれた時刻だ。

 ドクドクと脈打つ心臓。胸に手のひらを押し当てる。ゆっくりと深呼吸。
 体の震えが少しだけおさまった。
 
 大丈夫。今度はきっとうまくいく。同じことにはならない。 
 だって、わたしは絵を描く未来に進んでいくと決めたのだから。
 
 正直怖い。事故に遭った生々しさは忘れていたけど、回想電車で自分の死を悟った時の絶望感を思い出した。

 階段を降りる足が震える。
 
 でも、立ち向かうしかないんだ。同じことにならないように、違う行動をすればいい。

 確信はないけど、そうすることで安心できた。願掛けをするように、わたしは食卓についた。
 
「いただきます」
 
 父と母で囲むダイニングテーブルは暖かく、味噌汁やご飯が喉を通るたびに体と心が目覚めていった。
 
「ごちそうさま」
 
 ご飯をしっかり食べ、時刻は7時37分。死亡時刻の7時14分をとっくに過ぎていた。

 これがいつも家を出る時間。あの時はいつもより家を早く出たからいけなかったんだ。
 
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん。いってきます」
 
 あの時とは違って、母に見送られて家を出る。

 毎日家から駅に向かう道なのに、足が迷う。
 あの時は、道の左側を歩いてダメだったから、今度は右側を歩こう。

 死を回避するために、足の運び方まで気を遣った。頭のてっぺんから指先、爪先まで、固くなった体をぎこちなく動かす。
 
 家を出たすぐ、狭い道路の右端に寄ろうとした。

 また、黒い猫が横切った。
 
「みゃー……」
 
 黒猫と目が合う。不吉な、聞き覚えがある、泣き声……。

 ごくりと唾を飲む。間もなくパパーッとクラクションの音が響く。
 
 振り返る間もなく、わたしの体は強い力によってさらわれた。
 
 死んじゃった?
 
 やはり死ぬ時は実感がない。
 
 頭上から暖かい雫が降ってきて、それがわたしの頬を打った。
 
「……大丈夫か?」

「周、くん?」
 
 顔を見上げたら周くんがいた。わたしは周くんの腕の中に居た。
 
「……良かった。 無事で良かった。 朱音が生きていて本当良かった」
 
 ……無事?

 ……わたし、生きてる!?
 
 周くんがわたしを庇って助けてくれた。周囲を見るとさっきの車は電信柱にぶつかって停車していた。

 助かったんだ。
 
 わたしは状況が飲み込めず、夢を見ているようだった。
 
「会いたかった……」
 
 周くんは泣きながら、すがりつくようにわたしにしがみついていた。
 
「昨日も、会ったのに?」

 わたしの中の記憶では周くんとは昨日学校で会ったばっかりだ。

 周くんはさらに瞳を潤ませて笑った。
 
「朱音にとってはな……」

 少しの間があった。周くんは微笑みから切ない表情になり、言葉を続けた。

「俺にとっては朱音に会えない人生を何度も繰り返した」

「人生を繰り返す?」

「そう。この日から、朱音が居ない人生を何度も……。俺は、朱音を救うために何度も今日に戻ってきたんだよ」
 
 信じられなかった。

 わたしと同じように、周くんも同じ日を繰り返していたなんて。彼はわたし以上に同じ人生を繰り返していたということなのか。

 おそるおそる問い掛けた。

「何回……繰り返したの?」

「……数えきれないくらいだよ。何回だってやるよ。朱音が生きている今日に辿り着くためなら何度だって……。やっと、奇跡が起きた!」

 声を震わせながら、周くんはゆっくりと語り出した。
 
「ずっと、後悔していたんだ。もし、あの時俺が強引に呼び止めていたら……。朝迎えに行ったら……。朱音の人生は違うものになったかもしれない……って。ずっとずっと、俺に何かできたはず……。 朱音が死なずに生きている未来になったかもしれない……。 俺は死ぬまで自分を責め続けた。 もう一度だけ会いたい……そう強く願ったんだ」
 
「どうやって? わたしを助けてくれたの?」
  
「電車に乗ってな」

 わたしの脳裏に、並走した回想電車に乗っている人物が浮かんだ。

「やっぱり、あれは周くんだったんだ……!」
 
 わたしの中で、張りつめた糸がプツン、と切れた。

 次の瞬間、ポロポロと涙が零れた。止まることなく、とめどなく流れていく。
 わたしは周くんの腕の中で泣いた。周くんも声を上げて泣いていた。
 
「朱音を失った人生は……退屈で長過ぎたよ。 ここまで、本当に長かった……」

「う、ん……」

「誰かが言ってた……。今日はいろんな出来事の積み重ねから生まれた奇跡だって。……本当にそうだ。朱音と今日を生きることは、奇跡的なことなんだ……」
 
 わたしは涙ぐみながら頷いた。もう言葉にならなかった。
 
 わたしの力だけで、未来を変えられると思っていたけど、どうやらそうはいかなかったみたい。
 
 わたしの人生には、周くん、両親、友達や先生、これまで関わってきたたくさんの人たちとの出会いと関係性の上に成り立っているらしい。
 それを今、痛いくらい感じている。
 
「俺はこれからも朱音が描いた絵が見たい。つまずいても、転んでも、一緒に進んでいこう」

「周くん、ありがとう。わたし、頑張る」
 
 イラストレーター、絵描きの仕事。就けるかもわからない。自信もない。
 だけど、できないなんて決まっていない。

 これから絵を描いて、自分と向き合って、どうやって人生と付き合っていくか、手探りで模索するしかない。
 
 わたしは、自分の人生を力一杯描いていきたい。
 周くんと大切な人たちと出会った奇跡を未来に繋げていきたい。


 それから。
 絵を描くことは、わたしと周くん、二人の希望になり、夢にもなった。

「朱音? 急がないと遅れるぞ」

 いつもの朝。いつもの通学風景。
 駅で待ち合わせた周くんがわたしを急かす。

「ちょっと、待って……」

 通勤、通学客でごった返すホーム。見覚えがある人影がよぎった。目深に乗務員の帽子を被り、男とも女とも形容しがたい異質な雰囲気を放つあの人が……。

「どうしたんだよ?」

「ううん。何でもない」

 見間違いだったんだろう。まさか、こんなところにいるはずない。

 スケッチブックを抱えてわたしは歩き出した。

 きっとあの乗務員の姿をした死神さんなら、今のわたしを見て、こう言うのだろう。
 
『初めて見た景色、その時感じた気持ちを忘れなければ、いつだって“はじまり”に帰って来れます。 今度はうまくいきそうですか? ……いずれまた、お会いしましょう』


           〈完〉
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