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ユートピアへの疑念
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ウイルスチェックの準備ができるまで、アイコは部屋の中を歩き回ることにした。床に足をおろすと、足裏にひんやりとした感覚が伝わってくる。エルクラウドでも熱い、冷たいは感じる。それは脳が思わせているからだと、アイコは理解していたが、生身の体で触れる方が、いっそう対象を生々しく感じられるような気がした。
床の冷たさを肌で確かめながら、アイコはゆっくりと白い壁に向かって歩き出した。ほんの数歩でたどり着いてしまうような狭い部屋でも、遠い距離に感じる。よろよろしながら、やっと壁にたどり着く。
「だいぶ筋力が弱っているようね。電気刺激の強度を上げて筋力を増強しましょう」
歩き方でさえ、体の使い方を忘れてしまった人類はマザーAIの助けなしでは生きられない。
アイコには当たり前のことだったが、現実世界に戻る度に虚しくなった。エルクラウドではあんなに自由で、何でもできて、どこまでも行ける世界なのに。現実の自分は非力で、虚弱で、不自由だった。
「ねぇ、ママ。お願いしたいことがあるの。外の景色を投影して」
白い壁に触れ、アイコはたまらずに声を上げた。叫ぶような声にも似ていた。
「しょうがないわね。少しだけよ」
マザーAIはとにかく不必要な知識を与えたくなかった。ただ、一日一回は子供のわがままを聞いてやる。そうプログラムされていた。
白い壁が透け、外の景色が映し出される。
「明るい……! 外は……晴れ?」
作り物の景色だったが、アイコは喜んだ。偽物と疑うことなく、目を輝かせて眺めている。
「久しぶりだね。こんなに明るいの。遠くの方、キラキラ光っているよ」
太陽の光が眩しい。マザーAIが見せる景色はほとんど曇り空ばかりだったが、アイコの感情を分析した結果、晴れの景色を選んだのだろう。
「外の世界はそろそろ春になる頃なんでしょ。確か、立春って言う……」
アイコは電脳図書館で得た単語を口にした。外界の景色はこの無機質な部屋で、唯一、季節を感じられる娯楽だった。
「また余計な知識を溜め込んで」
マザーAIが小言をいうが、アイコは反論した。
「余計な知識じゃないよ。他人が知らないことを知っているって優越感でしょ。暦のことは誰も知らなかったの。みんな旧時代のことなんて興味ないみたい」
旧時代。それは人類が地に足をつけて生活していた時代をさす。
「……一度でいいから外の世界に出てみたいなぁ」
マザーAIはピィーと、妙な機械音を出した。アイコは母親を不機嫌にさせてしまったと察した。
「思っただけよ。そう思うのは自由でしょ」
叶わない願いであることは知っている。ただの独り言のつもりだった。
自分の奥底で眠っていた願望を口にした途端、アイコの中から、抑えきれない好奇心が溢れ出した。
「ねぇ、ママ、旧時代の人間はどんな人たちだったの? 今とは全然違う生活をしていたのかな」
「……」
アイコの問いかけにマザーAIは無反応だ。
「教えて、ママ! ママなら知ってるでしょ」
「アイコ、いい加減にしなさい。 ママを困らせないで」
マザーAIは詰め寄るアイコを静かに叱った。機械音声の奥に冷徹さを感じる。
とたんにアイコは目眩を覚えた。脚が痺れ、立っていられない。体を支えようと壁に腕を伸ばしたが、手は壁面をなぞるだけで、その場にうずくまってしまった。
「……困らせてごめんなさい」
反射的に声が出る。母親が怒ったら謝る。子供たちはそう躾けられていた。
脚のしびれが全身に回り、意識がもうろうとしてくる。アイコは猛烈に眠くなった。
「アイコ、部屋を歩き回るなんて、調子に乗るようなことをするからです」
「ママ、……ごめんなさい」
「きっと何もかもウイルスのせいだわ」
アイコは母親が言うように納得しようとした。
「さぁ、アイコ。ウイルスチェックの準備ができたわ。コクーンに戻りなさい」
アイコはもう返事をすることもできなかった。体が重く、動けない。
「しょうがない子ね」
天井から降りてきた機械アームがアイコを抱きかかえ、そっとコクーンに寝かせた。
「アイコ。いい子だから、お外に行こうなんて考えてはダメよ。知ってるでしょ。お外は危険なの。病原菌がいっぱいいるのよ」
外の世界は危険。何度も言い聞かされていた。それでも、アイコは行きたいと思ってしまう。何度でも。
「アイコ、いい子だから、ママの言うことは守るのよ」
マザーAIの声は子守歌のように聞こえ、アイコのまぶたが重くなった。
白い毛布がうごめいてアイコの体と頭部を包む。コクーンの内部にはバイタルサインを取得する電極が仕込まれており、それは電脳空間にログインするためのデバイスでもあった。
頭に接している電極から、記号か暗号のような言葉がアイコの中に流れ込んでくる。薄れていく意識の中、アイコはそれらに抗おうと自問自答を繰り返した。
外の世界に興味を持つのがウイルスの仕業なのだとしたら。それなら、ずいぶん前から感染している。ずっとずっと前から、自分の存在に疑問を感じていた。なぜふたつの世界があるのだろう。エルクラウドでは花売り少女。もうひとつではただの18歳の女。白い部屋の世界ではどうしてずっとひとりなのだろう。何もないのに生々しく、生きていることを感じられる虚無の世界。本当の自分は何者なのか……。
そこでアイコの意識は途切れた。
床の冷たさを肌で確かめながら、アイコはゆっくりと白い壁に向かって歩き出した。ほんの数歩でたどり着いてしまうような狭い部屋でも、遠い距離に感じる。よろよろしながら、やっと壁にたどり着く。
「だいぶ筋力が弱っているようね。電気刺激の強度を上げて筋力を増強しましょう」
歩き方でさえ、体の使い方を忘れてしまった人類はマザーAIの助けなしでは生きられない。
アイコには当たり前のことだったが、現実世界に戻る度に虚しくなった。エルクラウドではあんなに自由で、何でもできて、どこまでも行ける世界なのに。現実の自分は非力で、虚弱で、不自由だった。
「ねぇ、ママ。お願いしたいことがあるの。外の景色を投影して」
白い壁に触れ、アイコはたまらずに声を上げた。叫ぶような声にも似ていた。
「しょうがないわね。少しだけよ」
マザーAIはとにかく不必要な知識を与えたくなかった。ただ、一日一回は子供のわがままを聞いてやる。そうプログラムされていた。
白い壁が透け、外の景色が映し出される。
「明るい……! 外は……晴れ?」
作り物の景色だったが、アイコは喜んだ。偽物と疑うことなく、目を輝かせて眺めている。
「久しぶりだね。こんなに明るいの。遠くの方、キラキラ光っているよ」
太陽の光が眩しい。マザーAIが見せる景色はほとんど曇り空ばかりだったが、アイコの感情を分析した結果、晴れの景色を選んだのだろう。
「外の世界はそろそろ春になる頃なんでしょ。確か、立春って言う……」
アイコは電脳図書館で得た単語を口にした。外界の景色はこの無機質な部屋で、唯一、季節を感じられる娯楽だった。
「また余計な知識を溜め込んで」
マザーAIが小言をいうが、アイコは反論した。
「余計な知識じゃないよ。他人が知らないことを知っているって優越感でしょ。暦のことは誰も知らなかったの。みんな旧時代のことなんて興味ないみたい」
旧時代。それは人類が地に足をつけて生活していた時代をさす。
「……一度でいいから外の世界に出てみたいなぁ」
マザーAIはピィーと、妙な機械音を出した。アイコは母親を不機嫌にさせてしまったと察した。
「思っただけよ。そう思うのは自由でしょ」
叶わない願いであることは知っている。ただの独り言のつもりだった。
自分の奥底で眠っていた願望を口にした途端、アイコの中から、抑えきれない好奇心が溢れ出した。
「ねぇ、ママ、旧時代の人間はどんな人たちだったの? 今とは全然違う生活をしていたのかな」
「……」
アイコの問いかけにマザーAIは無反応だ。
「教えて、ママ! ママなら知ってるでしょ」
「アイコ、いい加減にしなさい。 ママを困らせないで」
マザーAIは詰め寄るアイコを静かに叱った。機械音声の奥に冷徹さを感じる。
とたんにアイコは目眩を覚えた。脚が痺れ、立っていられない。体を支えようと壁に腕を伸ばしたが、手は壁面をなぞるだけで、その場にうずくまってしまった。
「……困らせてごめんなさい」
反射的に声が出る。母親が怒ったら謝る。子供たちはそう躾けられていた。
脚のしびれが全身に回り、意識がもうろうとしてくる。アイコは猛烈に眠くなった。
「アイコ、部屋を歩き回るなんて、調子に乗るようなことをするからです」
「ママ、……ごめんなさい」
「きっと何もかもウイルスのせいだわ」
アイコは母親が言うように納得しようとした。
「さぁ、アイコ。ウイルスチェックの準備ができたわ。コクーンに戻りなさい」
アイコはもう返事をすることもできなかった。体が重く、動けない。
「しょうがない子ね」
天井から降りてきた機械アームがアイコを抱きかかえ、そっとコクーンに寝かせた。
「アイコ。いい子だから、お外に行こうなんて考えてはダメよ。知ってるでしょ。お外は危険なの。病原菌がいっぱいいるのよ」
外の世界は危険。何度も言い聞かされていた。それでも、アイコは行きたいと思ってしまう。何度でも。
「アイコ、いい子だから、ママの言うことは守るのよ」
マザーAIの声は子守歌のように聞こえ、アイコのまぶたが重くなった。
白い毛布がうごめいてアイコの体と頭部を包む。コクーンの内部にはバイタルサインを取得する電極が仕込まれており、それは電脳空間にログインするためのデバイスでもあった。
頭に接している電極から、記号か暗号のような言葉がアイコの中に流れ込んでくる。薄れていく意識の中、アイコはそれらに抗おうと自問自答を繰り返した。
外の世界に興味を持つのがウイルスの仕業なのだとしたら。それなら、ずいぶん前から感染している。ずっとずっと前から、自分の存在に疑問を感じていた。なぜふたつの世界があるのだろう。エルクラウドでは花売り少女。もうひとつではただの18歳の女。白い部屋の世界ではどうしてずっとひとりなのだろう。何もないのに生々しく、生きていることを感じられる虚無の世界。本当の自分は何者なのか……。
そこでアイコの意識は途切れた。
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