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第73話 雪解け

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 誠司の謝罪に、琥珀の耳がピクリと反応する。ぱたぱたと探るように、動く耳は続きを待っているようだ。

「俺が……お前といてぇんだ。優樹といるより、裕福な暮らしはさせてやれねぇけど……琥珀、戻って来てくれないか」

「えっ、誠司、今っ、俺の名前、呼んだ」

 パッと勢いよく琥珀が顔をあげて、その琥珀色の瞳には誠司が映る。
 改めて指摘されると、小っ恥ずかしさが増長する。こんな風に親しみを込めて、誰かの名前を呼ぶのなんて、もう十数年ぶりなのだ。

 驚きと期待が混じった眼差しを琥珀から向けられて、体温が上昇したことがわかる。むず痒さに耐えられなくて、誤魔化してしまいそうになるのをなんとか我慢する。

 照れ隠しに長い溜息をついて、くしゃりと前髪をかきあげる。きっと、頬が紅潮しているのは琥珀にもうバレているのだろう。

「琥珀」

 しゃがみ込んで地面に膝をつくと、誠司は琥珀に右手を伸ばした。

「俺と一緒に帰ってくれるか」

「せ、誠司っ!」

「うおっ、あぶねぇ」

 琥珀に勢いよく飛びつかれ、誠司は胸に激しいタックルを喰らう。それを抱きとめると、数日ぶりに琥珀の体温を感じた。
 すぐに誠司の耳元で、鼻をすする音が聞こえてくる。

「うううっ、誠司、ごめん。俺、神様なのに、なにも誠司の役に立てなくて」

「なんでお前が謝るんだよ。悪かったのは俺の方だ」

「ちげぇよ。俺なんだ、だって誠司が苦しんでるのに、俺、俺……もう誠司に合わせる顔なくて」

 うおお、と号泣し始めた琥珀の背中をぽんぽんと撫でる。琥珀の身体に、誠司は頭を寄せた。
 琥珀を見ていると、また涙が滲んだ。今日は誠司の涙腺が馬鹿になっているらしい。

 気付いていなかっただけで、自分のことでこんなに頭を悩ませてくれる存在が、誠司にもいたのだ。
 これがどれだけ心強いことか、幸せなことか、どうすれば琥珀に伝えられるのだろう。


「馬鹿言うな。琥珀、俺は契約した相手がお前で良かった」

「うう、嘘だぁ。だって、俺本当に口ばっかりで、何もっ」

 自分を責める琥珀に胸が痛くなる。
 琥珀がこれほど思い詰めていたとは知らなかった。

 人間が大好きで、人間を幸せにするのが夢なのだと、語っていた琥珀だ。
 明るい振る舞いの裏で、上手くいかないことや無力さに、たった一人で悩んでいたのだろうか。

 琥珀はいつだって誠司のことばかりで、自分に何かを求めたことも、救いを求めたこともない。ただひたすら、誠司の幸せだけを見つけようとしていた。

「俺に必要だったのは、なんでも簡単に願いを叶えてくれる神様じゃない」


 もしも望むままに、金や過去の清算をしてくれる神だったなら、誠司の心は変わっていなかっただろう。心を閉ざしたまま、ただ神を利用して生きたはずだ。

 誠司が本当に必要だったのは――。

「泥まみれになっても一緒に……そばにいてくれる存在が必要だった」

 泥だらけの服を捨てて、綺麗な服を用意して欲しかったわけではない。
 まったく、無様過ぎる人生だったと言える。けれど、その全てを誤解無く知った上で、誠司の味方が一人いてくれたなら、それだけで。

 本当のことを言っても、誰も信じてなんかくれなかった。学歴がないから、中退したから、家がないから、家族がいないから、それだけで厭われ続けた。
 だからもう、誰にも本当のことを言うのはやめた。これ以上、深手を負うのを恐れたからだ。どうせ最初から駄目なのだと。何をしたって変わらないのだと思っていたから。

「琥珀、俺を信じてくれて、ありがとう」

 本当に、本当に小さな声で呟いたそれは、琥珀の耳に届いた。
 
 過去の不祥事を話したときに「本当に誠司がやったのか?」と聞いてくれた時、どれだけ心は揺れたことか。琥珀は、一人の人間としての誠司を知ろうとしてくれた。


「これからは出来るだけ前向いて生きる。だから琥珀……俺と一緒に生きてくれ」

 そう言った瞬間、琥珀は大声で泣き始めた。途中で何か言っているようだったが、嗚咽がひどくてわからない。

 ようやく「誠司と帰る」と、聞き取れたのはしばらくしてのことだった。

 答えを聞けた誠司は、まだぐずぐずと泣いている琥珀を抱いたまま立ち上がる。

 壁の向こうにいる愛たちは、いまだ状況が変わっていなかったようだ。拗ねたフリをして優樹に甘える愛と、愛の機嫌をとろうと甘やかす優樹がいる。分かっていたことではあるが、完全に尻に敷かれている優樹を見て、誠司は苦笑してしまう。


「邪魔したな。琥珀、連れて帰っていいか?」

「え? はい。もちろん。もともと学校後に少し遊びに来てくれてただけですから」

「は? そうなのか? じゃあ琥珀、お前今までどこにいたんだよ」

「だ、だって、帰り辛かったからさ、その、公園とか色んな所うろうろしてた」

 家出後の琥珀は、ずっと優樹の家で世話になっていると思っていたが、どうにも違ったらしい。琥珀の帰る場所も、誠司と同じで、ひとつだったのだろうか。

「あれ、おじさん、ご飯一緒に食べないの?」

「誠司さんもご一緒してくれるんですか? 是非」

「有難いが、今日はこのままこいつと帰る。また誘ってくれ」

 琥珀をポンポンと優しく叩くと、琥珀の尻尾が揺れる。そのやり取りを見て、愛は柔らかく目を細めた。

「そっか、おじさん一人じゃないもんね」

「ああ、そうだな。お前にも世話になったな、助かった」

 送りの車を出そうかと提案してくれた優樹に、のんびり歩いて帰るから大丈夫だと断りを入れる。
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