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第十一章「あなたの人生を委ねてほしい」
第54話 「ありがとうございました」
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壱嵩side……★
「壱嵩さんのお母さん、好きな食べ物とかある?」
初めての面会で、何を差し入れるか悩んだ明日花さんは、洋菓子店を覗きながら問いかけてきた。
母が何を好きだったかなんて、何の思い出もない俺に知るよしもなかった。それに今の母は、頂き物を口にすることはできない状況だったので、気にすらしたことがなかった。
「何も買う必要はないよ」
俺は戸惑う彼女の手を取ってそのまま歩き出した。
あの人は普通じゃないから。当たり前の感動の対面なんてあり得ないから。
俺は施設に着くなり、職員に手続きを取って面会させてもらう手筈を取った。どうやら今日の容態は大人しく、稀にある当たりの日だったようだ。
真っ白な綺麗な廊下を歩きながら、母の部屋へと向かう。殺風景な扉の向こうにいたのは、外を眺めながら無言で横たわっている母の姿だった。
「——母さん、今日はオムツを購入してきたから、またタンスに入れておくよ」
「………」
「それと入れ歯の洗浄剤も。職員の方に渡してあるから」
問いかけてたところで返ってくることはないけれど、それでも習慣のように毎回語りかけていた。
いつもならこのまま帰るのだが、今日はもう一つ報告がある。どうせ何も反応はないと思うが、一応母親なので言わないわけにはいかない。
「母さん、俺……彼女、明日花さんと結婚するから」
心のどこかでは期待していたかもしれないが、祝いの言葉どころか感嘆の声すら何もなかった。一度も俺たちの方を振り返ることなく、母は外ばかり見つめていた。
これ以上、ここにいても意味はないだろう。俺は明日花さんの手を強く握って「帰ろうか」と声をかけた。
「——待って。少しだけ……壱嵩さんのお母さんに話してもいいかな?」
そう言って明日花さんは俺の手を解き、母の顔が見えるように座って、手を取った。
骨と皮だけになった老婆のような母。ギョロっと動いた目が、明日花さんの顔を映し出した。
「明日花さん、そんなことをしても……」
「いいの、聞こえていなくても。それでも私、壱嵩さんのお母さんにこれだけは伝えたいと思っていたから。お義母様、壱嵩さんのことを産んでくださってありがとうございました。おかげで私達はこうして出逢って幸せになることができました」
それは、予想もしなかった言葉だった。
だって母は、ずっと俺のことを産まなければよかったと否定してきた人なのだ。
そんな人にありがとうなんて——言えやしない。何も事情を知らなかった明日花さんだからこそ言える言葉だった。
「明日花さん、もういいよ。この人に言ったところで意味なんてないから」
「でも……」
この人に期待したところ何の意味もないんだ。ただ血が繋がっているだけの人なんだから。
だから——……
「壱嵩……? その人が壱嵩のはずがないだろ?」
久々に聞いた母の声に、俺は耳を疑った。
この人は、今まで散々俺が支援してきたと言うのに、それすら認識していなかったなんて。
惨めにも程がある。こんなことならいないものだと思って会わなければ良かった。
アンタがその気なら俺だって……!
「壱嵩は……もっと小さいんだから。そんな大きいわけがない」
「——は?」
思わず顔を顰めて睨みつけた。俺が小さい……? 何だよコイツ。一体、どこで記憶が止まってやがるんだ?
痴呆が始まった人は、どんどん記憶が曖昧になって昔のことばかり口にするようになると聞いたが、まさか母もその類なのか?
今まで面会しても口聞いてくれなかったのは、俺を認識していなかったからなのか?
「お義母様、壱嵩さんはとても優しくて素敵な人になりましたよ。私も……彼を幸せにしますから、安心してください」
いや、だから俺は——……。
どんどん溢れてくる涙を堪えながら、必死に声を押し殺していた。最低な母親なのに、それなのに俺は——ちゃんと母の中に壱嵩という存在があったことが嬉しかった。それだけのことなのに、俺は馬鹿みたいに涙を流していた。
「壱嵩さん……。ずっと寂しかったんだね。これからはお義母様に甘えられなかった分、私に甘えていいからね」
この人は、一体どこまで分かって言っているのだろう?
「——ありがとう、明日花さん。俺……今日一緒に来てよかったと思ったよ」
「それなら良かった。壱嵩さん、ありがとう。お母さんに会わせてくれて」
きっと他の人から見たら、なんて最悪な対面だろうと思うだろう。
それでも嫌な顔をせずに過ごしてくれた明日花さんに感謝しながら、俺達は部屋を後にした。
「壱嵩さんのお母さん、好きな食べ物とかある?」
初めての面会で、何を差し入れるか悩んだ明日花さんは、洋菓子店を覗きながら問いかけてきた。
母が何を好きだったかなんて、何の思い出もない俺に知るよしもなかった。それに今の母は、頂き物を口にすることはできない状況だったので、気にすらしたことがなかった。
「何も買う必要はないよ」
俺は戸惑う彼女の手を取ってそのまま歩き出した。
あの人は普通じゃないから。当たり前の感動の対面なんてあり得ないから。
俺は施設に着くなり、職員に手続きを取って面会させてもらう手筈を取った。どうやら今日の容態は大人しく、稀にある当たりの日だったようだ。
真っ白な綺麗な廊下を歩きながら、母の部屋へと向かう。殺風景な扉の向こうにいたのは、外を眺めながら無言で横たわっている母の姿だった。
「——母さん、今日はオムツを購入してきたから、またタンスに入れておくよ」
「………」
「それと入れ歯の洗浄剤も。職員の方に渡してあるから」
問いかけてたところで返ってくることはないけれど、それでも習慣のように毎回語りかけていた。
いつもならこのまま帰るのだが、今日はもう一つ報告がある。どうせ何も反応はないと思うが、一応母親なので言わないわけにはいかない。
「母さん、俺……彼女、明日花さんと結婚するから」
心のどこかでは期待していたかもしれないが、祝いの言葉どころか感嘆の声すら何もなかった。一度も俺たちの方を振り返ることなく、母は外ばかり見つめていた。
これ以上、ここにいても意味はないだろう。俺は明日花さんの手を強く握って「帰ろうか」と声をかけた。
「——待って。少しだけ……壱嵩さんのお母さんに話してもいいかな?」
そう言って明日花さんは俺の手を解き、母の顔が見えるように座って、手を取った。
骨と皮だけになった老婆のような母。ギョロっと動いた目が、明日花さんの顔を映し出した。
「明日花さん、そんなことをしても……」
「いいの、聞こえていなくても。それでも私、壱嵩さんのお母さんにこれだけは伝えたいと思っていたから。お義母様、壱嵩さんのことを産んでくださってありがとうございました。おかげで私達はこうして出逢って幸せになることができました」
それは、予想もしなかった言葉だった。
だって母は、ずっと俺のことを産まなければよかったと否定してきた人なのだ。
そんな人にありがとうなんて——言えやしない。何も事情を知らなかった明日花さんだからこそ言える言葉だった。
「明日花さん、もういいよ。この人に言ったところで意味なんてないから」
「でも……」
この人に期待したところ何の意味もないんだ。ただ血が繋がっているだけの人なんだから。
だから——……
「壱嵩……? その人が壱嵩のはずがないだろ?」
久々に聞いた母の声に、俺は耳を疑った。
この人は、今まで散々俺が支援してきたと言うのに、それすら認識していなかったなんて。
惨めにも程がある。こんなことならいないものだと思って会わなければ良かった。
アンタがその気なら俺だって……!
「壱嵩は……もっと小さいんだから。そんな大きいわけがない」
「——は?」
思わず顔を顰めて睨みつけた。俺が小さい……? 何だよコイツ。一体、どこで記憶が止まってやがるんだ?
痴呆が始まった人は、どんどん記憶が曖昧になって昔のことばかり口にするようになると聞いたが、まさか母もその類なのか?
今まで面会しても口聞いてくれなかったのは、俺を認識していなかったからなのか?
「お義母様、壱嵩さんはとても優しくて素敵な人になりましたよ。私も……彼を幸せにしますから、安心してください」
いや、だから俺は——……。
どんどん溢れてくる涙を堪えながら、必死に声を押し殺していた。最低な母親なのに、それなのに俺は——ちゃんと母の中に壱嵩という存在があったことが嬉しかった。それだけのことなのに、俺は馬鹿みたいに涙を流していた。
「壱嵩さん……。ずっと寂しかったんだね。これからはお義母様に甘えられなかった分、私に甘えていいからね」
この人は、一体どこまで分かって言っているのだろう?
「——ありがとう、明日花さん。俺……今日一緒に来てよかったと思ったよ」
「それなら良かった。壱嵩さん、ありがとう。お母さんに会わせてくれて」
きっと他の人から見たら、なんて最悪な対面だろうと思うだろう。
それでも嫌な顔をせずに過ごしてくれた明日花さんに感謝しながら、俺達は部屋を後にした。
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